そのとき窓から風が吹き込まなければ気づかなかったかもしれない。机の上に所狭しと置かれたものがあおられて床に散らばり、だからちゃんと片付けろと言っただろうとため息をつきながら、手を伸ばした先に「それ」があったのだ。質素な書簡の紐はゆるくほどけていて、盗み見てやろうと思うまでもなく、書かれた文字を無意識に目で追った。
「最愛の貴方へ」からはじまる、それは恋文だった。独特の癖があるが美しい筆跡で、愛が綴られている。
会える時間は短いがいつも見守っていること。笑顔を見るたびに胸の内があたたかくなり、また同時に苦しくなること。ときどき声をかけてもらえることがうれしく、しかし緊張のあまりまともに答えられないことをもどかしく思っていること。気を悪くしているわけではないので、これからも変わらず話しかけてほしいこと。
名は書かれていないが、同期がだれかからもらったのだ。見てはいけないものを見てしまったと、目をそらしつつ書簡の紐を巻き、ほかのものと一緒にそ知らぬふりで机に戻した。
普賢はいつもと同じ調子でお茶を入れ、いつものようになんの変哲もない話をする。それにてきとうに相槌を打ちつつ、さっき見た文のことが頭から離れなかった。
だれだろう。だれがあれを贈ったんだろう。「会える時間は短い」、つまり近すぎない人物だ。「緊張する」とあったから、身分が下の道士だろうか。心当たりはないが、もしかしたら自分が知らないだけかもしれない。控えめながら情熱的な、あんなふうに思いを伝えられて、普賢はどう思ったのだろう。返事を書いたのだろうか。いや待て、それにしては乱雑にほかのものに紛れて置いてあった。もしくは、相手からの一方的なもので、断ったのに送り付けられて迷惑いるとか。それならわしがひと言——
「望ちゃん? 聞いてる?」
考え込んでいるとふと顔をのぞきこまれ、あわてて愛想笑いを返した。あれは誰からの、と訊こうとしたが、そもそも勝手に見たのだ、教えてくれるはずがない。
あれから洞府に行くたびに机の上に目を向けるが、それらしいものを見ることはなかった。あるいはどこかに隠しているだけかもしれない、そう考えるだけで心がざわざわと落ち着かない。わしには関係ないと自分に言い聞かせても、いちど吹いた風はなかなかおさまりそうになかった。
ぴんと澄んだ空気の中で、その人はゆったりと背もたれに身を預けていた。長い髪をたおやかに垂らすさまは一幅の絵のようだ。昔、その姿をひと目見んとする仙道が多く洞府に押しかけたと、だれかから聞いたことがあるが、ただ座っていてさえこれほど美しいのだからさもありなんと思う。
師から急ぎ竜吉公主のもとへ行ってほしいと頼まれて足を運んだのだが「白鶴童子が留守のようで」と公主は申しわけなさそうに筆を置いた。
「これを元始に」
そのほそい指でくるりと書簡を巻いて弟子に手渡す。弟子から預かったそれを、太公望は両手で受け取った。ふわりとよい香りがするのは彼女のそばで焚いている香だろうか。
「急ぎでということなので、悪いが頼んだぞ」
「承知しました」
一礼し、立ち去ろうとしたとき
「ああ、そうだ太公望」
背後から声をかけられたので、足を止めた。御簾の向こうでにっこり笑ったのが見えた。
「普賢はその後どうじゃ」
「普賢がなにか」
「書の手習いをしてやっていたのだが、上達したか」
「書……?」
そう、と公主は頷く。
「十二仙にまでなったのに、悪筆では恥ずかしいと申すので、それならといくつか手本を持たせてやったのだが。練習はしておるかのう」
書の手本。
(……それか!)
「それなら大切にしまい込まれているはずですよ」
太公望がそう答えると、公主は一瞬きょとんとした後、くすくすと笑った。
「どうりで、先だって会うた際にはどこかバツが悪そうにしておったな」
練習するよう伝えておきますと言えば「まあ、時間があるときでよい」とますます笑う。
普賢にとって、字の良し悪しなど限りなく優先順位が後だろうから、練習が再開されることはないだろう。どこかにしまい込まれたままの恋文は、冬にはこっそり暖炉の焚き付けに使われるにちがいない。それもどこまでもあやつらしい。
来たときよりもずっと軽やかな足取りで、太公望は駆け出した。
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