とてもうつくしい朝でした。昨夜の雨もすっかりあがり、窓から見える空は澄んだ青。ちょうど庭にはおひさま色のれんぎょうが満開で、小鳥たちのさえずりはまるでおしゃべりをしているようににぎやかでした。
こんなにすてきな朝なのに、王子はどこかうかない表情で目を覚ましました。ふかふかのベッドから起き上がり、きょろきょろとあたりを見わたしてから、子供らしくない深い深いためいきをつきます。テーブルには、熟れた桃やすもも、ほかほかのパンケーキが、甘い紅茶とともに並べられていましたが、ひとくち食べてはためいきをつき、ひとくち飲んではカップを置く、ということをくりかえしているので、なかなか食べおわりません。そのうち「もうごちそうさま」とつぶやいて、フォークを置いてしまいました。おおきな白い犬が、心配そうに顔をのぞきこんで頬を舐めましたが、やはり王子はためいきをつくばかりでした。
それというのも、王子の父上である王様が旅に出てしまったのです。世のなかの邪をはらい、国をまもるという伝説の剣を探すためでした。王子が大人になり、つぎの王様になるときに与えたいと考えた王様は、出立前「おりこうにしているのだよ」と言い聞かせました。「やさしすぎるお前には、強い剣が必要だ。かならずやよいみやげを持ち帰ってやろう」
大好きな父上がそう言うのならと、王子はずいぶん気丈にふるまっていましたが、日が経つにつれどうにもさびしさが募るばかり、とうとう大好きなくだものも喉を通らなくなってしまったのです。
お医者でも治らない王子の心の病を治せるものはいないのか。大臣が国におふれを出したところ、ひとりの青年が城をたずねてきました。
「こんにちは、楊戩。僕は普賢。今日からきみの家庭教師だよ」
部屋のすみでひとり膝を抱えていた王子に、青年は笑いかけました。頭の上にはなぜだか金のわっかも浮かんでいます。ほんとうに天使さまじゃないかしらと王子は思いました。
「外はとてもいいお天気なんだ。花も咲いている。僕といっしょに散歩をしよう」
そんな気分ではない王子でしたが、青年は王子の手を取って立たると、止める周囲の声もおかまいなしにぐいぐいと庭へ引っぱっていきました。
「ほら、見てごらん」
青年の声があまりにも楽しげにはずんでいたので、うつむいていた王子は顔を上げました。おひさまはまぶしく、やわらかな緑の木々がさわさわと風にゆれています。青年は王子のそばにしゃがみ、そっと頭をなでて言いました。
「ほら、あの雲のむこうに山が見えるでしょう。お父上はあそこできみを見守っていらっしゃるんだよ」
「ほんとうに?」
もちろん、と青年はうなづきます。
「だって、このお庭はこんなにうつくしいのだもの。お父上が、花や草木に、王子のそばでうつくしくあれと願っているからにちがいないよ」
天使のようにやさしい声でそう言われると、王子もなんだかそんな気がしてきました。すこしほっとしたように見上げると、青年もうれしそうに笑います。
「でも夜はこんなに真っ暗だよ。きっとお父さまもこちらが見えないよ」
眠る前、ベッドの中で不安をこぼす王子に、青年は言いました。
「大丈夫。見てごらん」
また青年は窓の外を指さしました。びろうどの夜空を飾り立てるように、たくさんの星がまたたいているのが見えました。
「あれはきみがさびしくないように、お父上がお空にまいた灯りだよ。どんなにとおくにいたってさえ、きみのことをちゃんとごらんになっているのさ」
そうして青年はたくさんの話をしてくれました。とおい異国のお姫さまの冒険や、食いしんぼうのうさぎとリスがお月さまをかじってしまう物語は、どれもわくわくするものばかりで、聞き入っているうちにいつのまにかぐっすり眠ってしまっているのでした。
やがて王子はすこしずつ、元気を取りもどしていきました。それというのも、青年がいつもとなりでにこにこと見守ってくれていたからです。彼はおどろくほど物しりで、庭の花がどうやって咲くのか、太陽と月はなぜいっしょにのぼらないのか、水がどうやって氷になるのか、そんなことをていねいに教えてくれました。それに、もうずいぶんいろんなことを知っているのにまだまだ勉強が好きでした。枕よりも分厚い本を読みふけって、そのまま椅子にもたれて眠ってしまっていることもよくありました。そんなとき、王子は自分の毛布をそっとかけてあげるのでした。朝、青年が「ありがとう」と言うときの、ちょっとはずかしそうな顔が、大好きだったのです。
ひなぎくが咲きはじめたある日、長い旅を終えた王様が、ようやく城に戻ってきました。そのころには王子はそれはそれは立派に成長していました。ばらいろの頬とつややかな髪ですらりと立つ王子を見て、王様は涙を流してよろこびました。お城ではさっそくパーティーがもよおされました。いろとりどりの花でかざった広間には王様の帰還を祝うおおぜいの人々がつめかけました。王様がもちかえった剣はたいへん立派で、ぴかぴか光って王子によく似合いました。王子は剣を手にもち、たかだかとかかげました。だれもがその勇姿に「ご武運を」と声をあげました。
しかしそのとき、王子はふときづいたのです。彼がいない。広間にも、庭にも、いつもさびしいときとなりにいてくれた青年の姿がありません。乾杯の声もそぞろに、王子は剣をおき、彼を探しました。夜の廊下を行ったり来たりし、庭の草をかきわけ、果たして、彼がいまにも門から出て行こうとしているのを見つけました。
「どこへ行くのですか」
そうたずねると、青年はいつものようににっこり笑って言いました。
「お父上が戻られたので、僕のお役目はおしまいです。立派にお育ちなされてよかった。どうぞお元気で」
王子は急にさびしくなりました。ひとりで帰りを待っていたときよりもずっとずっとさびしいのです。花がどうやって咲くのか、鳥はなぜあんなにかわいい声で鳴くのか、となりで教えてくれた人がいなくなる。そんな日々はまったく想像できませんでした。
「またひとりにするのですか」
「もう王子はひとりではないよ」
「でもさびしい」
「もうきみは立派な大人だよ」
「でもさびしい」
王子は青年をぎゅっとだきしめました。彼がいうように、王子はすっかり大きくなっていました。王子は彼にたずねました。
「僕がさびしくないように、父上は花をきれいに咲かせたり、夜空に星をかがやかせたりしたと、あなたは教えてくれましたよね。あなたは、僕になにをしてくれますか」
青年はしばらく考えていましたが、やがて小さな声で言いました。
「僕はただの家庭教師だから、なにもあげられるものはありません。でも、もしきみがうけとってくれるのなら」
そしてそっと王子の頬に手をのばしました。
「どんなに強い剣を手にしても、どんなにおおきな国を背負っても、どうかおやさしい心をお忘れなきよう。ほんのちいさな花に心をとめたり、小鳥の歌声に耳をかたむけたり、そんなやさしさが、ずっときみとともにありますように」
「では、これからも僕のそばにいてください」
王子は両手で彼の頬をつつみこんで言いました。
「僕がやさしい心を忘れないよう、ずっとそばにいてください。そして忘れそうならそっと教えてください。子供のころ、そうしていたように」
青年はとまどいました。だって王子はもう大人になっていたのですから。
「どうしてですか」と青年は聞きました。王子は「あなたが好きだからです」と答えました。
「僕はあなたが好きです。あなたはどうですか」
「そんな大人みたいなことを言われても」
「もう大人だと、あなたが言ったんですよ。さあ、返事を」
青年はこまったように笑い、そしてこくりとうなづきました。
「ありがとう。僕も、きみが好きだよ」
空の星はいつもよりずっと輝いていました。それはさながら、やっとさびしくなくなった王子を祝福しているようでした。
了
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