ブラックボックス

〇千年後の哪吒の話。

「残っていたのはこれだけです」

見渡す限り、蓮の花だった。どこかぼんやりした映像は、アングルが変わっても満開の蓮の花ばかりで、どうやら蓮池の真ん中に立っているらしい。視線は紅色の花を一つひとつ追ってうつろう。ここがどこか、本人にもわかっていないようだった。
暗転して、あらわれたのは柔和な笑みの美しい女性だった。親しげに、そしていとおし気に細められる目を、じっと見上げている角度。音声がないからわからないが、名を呼ばれて頷いたのか、かるく画面が上下に振れた。
続いてあらわれたのは空だ。うすい青を鳥のように自在に飛んでいるが、どこかへ向かっているというよりは、ゆっくり同じ場所を旋回しているようだった。眼下に建物らしいものが見える。降下の後、ひとりの少年が背後から現れ、なにか話しかけていた。屈託ない笑顔で目を輝かせて一輪の花を差し出す。受け取ってじっと見つめている。
画面が無機質な真っ白に切りかわる。一人の男が覗き込んだ。仰向けになっているのか、ということはこの白は天井だ。ぼやけているせいで顔はよくわからないが、すこし困ったように笑っているふうにも見える。そっと手が差しのべられた。やや画面がぶれたのは、その手を避けたからだろう。すぐに画面は暗くなる。目を閉じたらしい。
「これが最後です」
その言葉に続いて再生されたのは、やはり空だった。どこか高いところに立っているようで、夕焼けに染まった雲海が広がっていた。定点観測のように長らく動かなかった画面が、すこしだけ横に振られて、その端に黒い服の男が映った。愉快そうな横顔が一瞬だけこちらを向いたが、またもとの位置に戻される。目をそらしたのかもしれない。

「どういうことだ」
口を開いたのはこの研究所の所長だった。不満そうな口調からも、周りの数人から漏れるざわざわした雰囲気からも、思っていたものと違う、というニュアンスがにじみ出ていた。問われた男はさあ、と肩を竦める。
「だから言ったじゃないですか。たいしたものは映っていませんよ、と」
ぐうともむうともつかないうなりを上げて、所長は腕組みをする。
古代中国で使われた、生物兵器の記録媒体が見つかったと報告を受けたのは数年前のことだ。状態が悪いもののひじょうに精巧で、さまざまな戦闘に関わってきたとされる「それ」の中身が解明できれば、これまでの常識を覆す兵器や武器の開発に役立つかもしれないと、関係者は色めき立った。調査と復元には時間がかかるといわれた。早くしろとせかしつつ、ようやくすべての映像の解析が完了したお披露目の場で、しかし関係者は困惑するしかなかった。
「戦闘及び兵器に関係するものは、なに一つ残されていませんでした」
男は淡々と告げた。
「解析しきれなかった部分があるのでは?」
「残っていたのはこれだけです。データ容量もそれほど多くありませんから、『本人』がどうしても忘れたくないと思ったものだけを残したのかと」
「そんな取捨選択ができるほどの知性を持った生物兵器だったと?」
「まあそれも推測ですけれどね」
要するに、なにもわからないんですよとため息まじりに言って、男はプロジェクターの電源を落とす。そもそも、兵器に重要な情報が残されているというのだって、こっちの勝手な思い込みだ。勝手に待ち望んで期待して勝手に落胆している関係者を一瞥して、男は「どうします?」と訊ねた。
「念のため保管しておきますか? それとも完全に消去でいいですか」
「なんの役にも立たないなら、さっさと消してしまってくれ。物自体はそのへんの博物館にくれてやればいいだろう」
すっかり興味をなくしたように言い放ち、所長は立ち上がる。深いため息につられて、そこにいた人間も席を立った。数年待った結果がこれだというだけで、そうとうに腹立たしかったのだろうが、大きな音を立てて扉を閉めたのは、だれが見ても大人げない態度だった。
すべての足音が遠ざかってしまったのをたしかめてから、男は「それ」をそっと手のひらに包み込んだ。消せと言われたがおとなしく消すつもりはなかった。彼が残したがったものが、なんの価値もないただの日常であったことが、どうしようもなくいとおしかった。
「私を覚えていたことは意外だったよ。うれしいなあ」
呟いてからポケットに入れる。ただの古びた「それ」がふわりとぬくもりを宿した。