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伏羲の話。最後の一文で読み方が変わる話。

「もう少しゆっくりしていけばいいのに」

耳を掠めるように風が吹いた。

木の葉を注意深く一枚だけ揺らすようなささやかさだった。音もなく扉を開く気配がする。話に聞いたとおりだと、彼は思った。
振り返らぬまま「いらっしゃい」と声をかけると、空気がわずかに揺れた。驚いているのだろう。そこから踏み込む気配がない。
「どうしたの。入っておいでよ」
そうして顔を上げた先に想像した通りの姿があり、なんともいえず気まずそうな表情に、思わず苦笑せずにはいられなかった。
「久しぶりだね」
いかにも身の置きどころのなさそうな風体で戸口に突っ立っていたが、やがて意を決したのか、後ろ手で扉を閉める。「そんなに身構えなくても」と言ってみたが、それ以上近づこうとしない。視線の先、卓の上には茶碗が二つ。これを見て不審に思っているのだ。
「きみが来ることは知っていたよ。噂は耳にしていたから」
「噂……
ぼそりと呟かれたそれは、あきらかに警戒した声だった。信用されていないのか、それとも別の理由があるのか、彼にはわからない。もっと心を許しているのだとばかり思っていたけれど、案外こちらの勝手な先入観だったのかもしれない。
「お茶どうぞ。せっかく会いに来てくれたんだ、ゆっくり話そう」
ふんわり湿気た香気に、頬をゆるめながらすすめてようやく、その人は真正面に座った。
宵闇のような目の中の、疑わしげな色は変わらないまま。まいったなあという内心のため息を隠したまま、にっこり笑って茶碗を手に取った。
来ると聞いていいお茶を選んだんだ、これですこしは許してくれないだろうか。

神界は今のところとても平和だ。小さな諍いはあるけれど、これまで超えてきた数多を思えば、そんなのは争いのうちに入らない。もちろんこの先、波の荒い日もあるだろうが、それすら何とか乗り越えられるだろうという、どこかあかるい楽観があった。そしてそれはきっと、自分だけのものではない。
新しい世界の話に無言で耳を傾けていた人が、ちらりと目を上げた。「心配なの?」と訊ねれば、ふいと目を逸らした。
「そういうわけではない」
深く長いため息を吐いて、ようやく彼は茶碗に口をつけた。すっかり冷めきったそれをひとくち含み、目を細める。気に入ってくれたらしい。そういえば猫舌だったなと、過ぎし日を思い出した。汁物が熱いと文句を言っていたのは――あれはいつ頃だったか。
「気にならんといえば嘘になるが。まあ達者でやっておるならなによりだ」
こくりとお茶を飲み干して立ち上がる。
「もう少しゆっくりしていけばいいのに」と引き留めてみたが、軽く肩を竦めるだけだった。あきらめているのかもしれない。

扉を開けた先には、さわやかな夏空が広がっていた。次にこうして会えるのはいつだろう、雪が降る頃だろうか、それとも桜の季節か。
そして、こんどこそ、
「ところで」
帰りかけた足を止めて、振り返る。その目が呆れたように笑っていた。
「放浪もほどほどにしろと伝えておいてくれ、楊戩」