空は美しい茜色に染まろうとしていた。「食べごろの杏みたいだねえ」と隣に歩く雲中子が呟いて、さては次のエサは杏だなと、太乙は思う。歩調はずいぶんとゆっくりだ。夕刻の空の色の変化をこんなにのんびり眺めるのはいつ以来だろう。呑気なのはあてのない散歩だからだけれど、いちばんの理由は、太乙と雲中子に挟まれている若い道士が、ゆっくり歩いているから。彼に合わせて、歩幅はいつもの半分ぐらいだ。
今日はとくになんの用事もない日で、それなら日頃の睡眠不足を取り戻すべく、思う存分昼寝でもしようかと、ハンモックに片足をかけたタイミングで呼び鈴が鳴った。開いた扉の先には同僚が立っていて、なんの用だよと非難がましく声を上げようとして飲み込んだ。彼の隣で、いつもの弟子とはちがう別の子が俯いている。知らない顔ではなかった。
「えっと、きみは――」
「黄天化くんだよ」
「……ああ、道徳のところの!」
見込みのあるいい弟子が来たんだと、うれしそうに話していたのを、太乙は思い出したが(なんでここに?)
紫陽洞の修行はずいぶんと厳しいと聞いている。まだ日が高いうちから、ほかの洞府で油を売っている暇などないはずだけれど。足元に視線を落としたまま口を開かない道士の背中をポンと叩いて、雲中子は言った。
「いい天気だし、散歩にでも行こうじゃないか」
空は青く、風はさわやかだった。ちょうど新緑の季節、あちこちで芽吹いたばかりの緑の香りがすがすがしい。ときおり聞こえてくる鳥のさえずりも美しく、立ち止まり耳を澄まして「あれは何の鳥だ」といいながら緑の中に声の主を探した。その間も天化は口を閉ざしたままだったが、だからといって二人から離れるでもなく黙ってついてくる。なにがあったか知らないけれど、今は帰りたくないのかもしれない。
そこそこ起伏がある乾元山を登ったり下ったりを繰り返し、そうこうしている間に空はうっすら暮れかけているのだった。
「いやあ、さすが私の山!どの時間もどの場所も美しくて写真映えまちがいなしの名峰だな」
「うちの山とそう変わらないと思うけど」
「緑の濃淡、せせらぎの透明感!どれをとっても崑崙百名山の一つに選ばれるだけの風格はある」
「百もあればそりゃあランクインするだろうさ」
「きみはほんっとうに価値が分からない男だね!」
何十回目かのくだらない会話をくりかえしているとき
「あの、」
思いつめたような声がした。
「もしかして、この山をぐるぐる歩いてただけ?」
二人は顔を見合わせ、そして不審げに見上げる天化にうなづいてみせる。
「それが何か?」
「散歩だって言ったじゃないか」
信じられないという様子で目をみはり「あんたら、おかしいさ!」と声を荒げた。
「普通、こういう場合って、洞府に送り届けてやるもんじゃね?」
「だってきみが何も言わないし」
「普通っていうほど、よくあるシチュエーションでもないしね」
太乙はしゃがんで目線を合わせた。強気に睨む瞳の奥が揺れている。――本当は泣きそうなんだ。
「で、きみはどうしたい?」
ずいぶん経ってから、天化は肩で大きく息をした。
「…………紫陽洞に、帰りたい、です」
そっかそっか。からりと笑って立ち上がった。それなら方向は逆だ。来た道をもう一度戻りながら、今度はやや早足で歩きだした。青峰山まで行くなら、急がないと日が暮れてしまう。
「コーチ怒ってるかな」
帰り道を、ほぼ駆け足でついてきながら、天化は不安そうにぽつりとこぼした。
雲中子が「太乙が一緒に謝ってくれるさ」といえば、ますます不安そうに太乙を見上げてきて、それはちょっとどうなんだろう。
「大丈夫、怒られない作戦を考えてある」
安心させるためにそんなことを言ってみたけれど。さて、こんな時間までかわいい弟子を預かって送り届けてやったんだ、お礼は何で返してもらうかなと思案しはじめた。
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