昔々、あるところに。二十一才になる年に社会人になった女の子がいました。亡きお父さんが女の子のために残してくれていた積立は厳重におじいちゃんが管理しており、学生時代は特に欲しいものも行きたい場所も会いたい人もおらず、同級生と比べると物欲のない子として過ごします。決して何かを規制されていたわけでもなくおじいちゃんは短大に通わせてくれたし、欲しいものはないかと時折尋ねたりもしたのですがお小遣いで間に合っていると大抵は遠慮されます。早く独り立ちしようと女の子が市役所に就職を決めたある日、おじいちゃんに呼ばれました。
「車、買いに行くぞ」
女の子は働き始めてから自分で貯めて買うつもりでいたので、まさかそんな事を提案されるとは思わず目を丸くします。おじいちゃんは正直に説明しました。女の子の父、おじいちゃんの息子から生前預かっていたのは高校卒業後の学費、車、そして嫁入りの際の諸々費用。足りるか足りないかは女の子次第だよ、と一冊の通帳を差し出します。見たことのない桁に腰が引けそうなところをおじいちゃんは知人の働いている店だと言って、その足で車屋に連れていきます。
「ミョウジ先生だ!」
「克利、元気してらか」
「はい!先生もお元気そうで!」
孫が初めてマイカーを買うからよろしくな、と車屋さんにお願いしておじいちゃんは椅子に腰掛け新聞を広げ、コーヒーを飲み始めました。自分の目で見て、克利さんから話を聞いて、決めなさいと。
いきなりの大きな買い物に何をどうしたらいいか分からず戸惑っていると、克利さんが言います。ミョウジ先生は最後は自分で決めろ、考えろと教えてくれる先生だった。だからまずはナマエちゃんが気に入る車をいくつかピックアップして、スペックはその後僕が説明する。お金のことはあとで“おじいちゃんにね”と笑って外へと出ていきます。
まだ雪の残るよく晴れた日にどのくらいの時間をかけ外で試乗車を見たことでしょう。はじめはやはり金額を心配して比較的安くその分コンパクトな軽自動車を選びました。女の子なりに決め手を持っておじいちゃんに提案すると、いいけど俺が乗る時狭いなぁと暗に却下されます。心の何処かで遠慮が残っていることは明らかで、これじゃ息子に顔向け出来ないと思ったそうです。そして“俺が”と言えばそれなりに考え直してくれることもまたお見通し。
一方で女の子も考えます。自分の意思を強く反映させるとしたら何か。それは、色でした。少しくすんだブルーの車に目を引かれていましたが、軽自動車に比べたらサイズも大きく少々割高。これならおじいちゃんも納得するだろうと克利さんにこれはどんな車か聞いてみます。
「もしかしたらこれか最後の代になるかもしれないってここ数年ファンの間でずっと言われている。これからの時代、カラーバリエーションはもっと増えて選べるようになるけど、この型で、特注じゃなくてこの色っていうのはいつ無くなってもおかしくないと思う」
自分が最後の持ち主になるかもしれない。全国で見れば何も少数精鋭ではないが、それでも女の子は高校時代に自らが最後の女子マネージャーになったという経験と自負があり、懐かしいプライドがひょっこり顔を出した瞬間に決断します。最後の最後、具体的にどんな説明、会話をしたのかはふたりしか知りません。ただひとつ言えるのは、克利さんが車売りとしてひと仕事したと達成感に満ち溢れた表情をしていたということだけです。
それから月日は流れ、社会人として一人で生計を立てられるようになった女の子は同じ部署で気にかけてくれる優しい先輩に出会い少しずつ社交性を身につけ、学生時代の仲間とも連絡を取り合うようになりました。その中で再会したある男の子と互いを大切に想い合う仲になり、対異性としては初めてはっきりとした喜怒哀楽を覚えます。あれは初めて女の子の住む街に当時アメリカに住んでいた男の子がやってきた冬の日のこと。アパートに泊まるというだけで三日前から落ち着かないのに、当日はもっと忙しなく、ろくに座ることもなく朝から過ごします。乗った飛行機がちゃんと飛んでいるのか、到着予定時刻は変わらないか、新幹線は止まっていないか。入国審査を通って高速バスに乗り、東京駅の新幹線改札を通ったと連絡を受けて始めてベッドに腰掛け、そのままくたびれて横になりました。当たり前に飛んで、着いて、乗って、会いに来てくれる。それが奇跡のような尊いものだと感覚的に知っているけどそこに恋心を乗せるのは初めてです。ベッドボードのカレンダーには青いペンで丸が付いていました。
【6時頃、くる】
絵空事のようにも思える遥か遠い場所から本当に飛んでくるなんて、長年の夢でも叶うような大袈裟な喜びに戸惑いながら女の子の目には涙があっという間に溜まります。そんなタイミングで男の子から写真が送られてきます。雪だ!と一言添えて、県境の山々に深く降り積もる雪景色を一枚。これからもっと深い所に来るのにね、と笑いながらようやく涙を拭いて立ち上がり、ショートダウンに袖を通します。車の鍵を持って時計を確認すると、最寄り駅への予定到着時刻まで一時間以上。逸る気持ちはとても抑えられずにブーツに足を入れます。寒い寒いと電車を降りてくるはずの男の子のために部屋のエアコンはつけたまま、青い車を走らせました。
この日は小粒ながらも断続的に雪の降る、季節相応の真冬日。駅前の駐車場に車を停めて、途中コンビニで買ったペットボトルのミルクティーで手を温めます。口にしたいけどトイレが近くなっても困るのでずっと握り、時折出入りする車のタイヤが雪道を噛む音を聞いて。いつもならラジオをつけますが、何か重大なアナウンスがあったらどうしよう、どこからか緊急連絡がきたらどうしようと考えると何も聞く気になれなかったのです。そんな女の子が携帯電話の通知音に驚くのも無理ありません。それは男の子からのメールでした。
【乗り換え成功!】
それすなわち、あと10分もせずに目の前の小さな木造駅舎に男の子が現れることを意味します。いよいよか、とエンジンを止めてすっかり冷たくなったミルクティーをドリンクホルダーに入れ車の外へ。頬を刺すキンッと冷えた風、ぱちぱちとダウンコートに降る雪。それでも女の子は風の吹き抜ける駅舎へと向かい、手を擦りながら落ち着きなく無人改札の向こう側を覗きます。決して寒いだけが理由ではなく、今頃あの踏切かな?もうすぐアナウンスが流れるかな?今か今かと待ち人の到着を心待ちにしているのです。
やがてブレーキ音を雪景色に響かせて二両編成の列車がやってきました。地元のおじさんおばさん、学生さんが次々と降りてきてもまだ男の子は現れません。急に不安になり数歩駅舎から後退りしたその時、一際大きなスタイルの良い熊のような黒いシルエットが目に入ります。女の子が駆け寄ると背の高い男の子は一気に破顔し正直に疲れた、寒い、とこぼしました。決して寒さは半分に分けられないし、寒空の下で暖の取り様もありません。それでもふたりは腕を回し身を寄せ、再会の喜びを分かち合いました。
この男の子は快活で短絡的、どこかやんちゃな印象をこの街で過ごした学生時代は持たれていましたが実は少し違います。
迎えに来てくれた青い車の助手席で道中のよもやま話を一生懸命女の子にします。久しぶりに会えたこと、同じ空間にいること、初めて家に泊まること、初めて車に乗せてもらうこと。心の底から、いや、体中で欲しくて欲しくて大切な女の子と一緒にいるだけで数え切れない程の喜びと緊張に、喋っていないと耐えられそうになかったのです。大きな交差点の信号待ち。少し落ち着いてふと視界に入ったのは、運転席側のドリンクホルダーに入ったペットボトルでした。オレンジ色のキャップに近いところで薄茶色の表面が街灯に反射し、ゆらりと光ります。
「ミルクティー」
「ん?」
「開けてない?」
「あ、うん。カイロ代わり」
「カイロ」
後でちゃんと飲むよ、と女の子は真っ直ぐ前を見て再び車は走り出しアパートへと向かいます。気付かれないようにそっと手を伸ばし、中指の背で触れたペットボトルはすっかり冷え切っていました。元々の温かさと車内温度、そして時間。それらを計算せずとも導き出される答えを直感で弾き出します。今すぐ確かめたい愛おしい両手が握るのはハンドル。自分のためにお金でも容姿でもなく時間を使ってくれるひとがいる。会いたくて会いたくてたまらなかった一方通行にも見えた想い、ちゃんと二人分の道があったことに安堵します。大通りからドラッグストアの角を曲がり細い住宅地へと車は進み「そこの白いアパートだよ」と教えられ、大したクリアでもない目に焼き付けました。
またここに来れますように。女の子に会えますように。そのためにももっと、女の子を大切にする。まだ部屋にあがってもいないのにそんなことを考えていると、駐車場に車は停まり女の子は車の鍵を抜きました。そこに結ばれていたのは一緒に旅行した先のお土産屋さんで買った揃いのキーホルダー。
一歩外に出れば踏んだ傍から次々と降り積もる雪。女の子のことで心いっぱい満たされた男の子はこのあと芯から冷えた身体をお風呂で温め、暖かい部屋に転がってそのまま眠りについてしまいます。お風呂からあがってそれを見た女の子は慌てて毛布を引っ張り出し、爪先から首元まで隠れるように一生懸命掛けてあげました。寒くないかな、腰痛くならないかな、寂しいな。もっと色んな話をしたかったな。でも思い出します。時間制限の国際電話よりはるかにマシであることを。寝ても覚めても明日の朝も、一緒にいることを。長い髪を耳にかけ、いつもは自分が抱いているクッションに頭を休める男の子に気付かれないよう、本物の目と鼻の先で愛しい人の寝息に耳を傾けるのでした。
長い時間をかけて育まれたふたりはやがて家族になり、最強で最愛のパートナーとして生きていくことになります。他人が見たら突拍子もないタイミングでプロポーズし、なかなか常識外れな指輪の買い方をし、周囲が心配するほど慎ましやかな暮らしでした。彼は自ら運転すること様々な理由で好まないプロアスリート。彼女は社会人として今まで通り生計を立て、一時間ほど離れた地元から持ってきた車を運転して生活します。一緒にスーパーに行ったり映画館に行ったりと大活躍。そんな結婚生活も三年経ち、想定の範囲内とはいえ転機が訪れます。
彼が移籍になったのです。かつてアメリカと日本という遠距離と呼ぶにはあまりにも遠く離れた場所で心を繋いだ二人ですが、彼女の方は格別に今度こそは離れないと強い覚悟を決めていました。それは家族だから当然というような摂理の問題ではなく、静かに放熱し続ける青い炎の様なもの。物も人も欲しがらない彼女の願いはたった一つ。もう離れなくない。端的で直球なその想いはいとも簡単に彼の心を撃ち抜きました。
そんな決断をしたからには考えなくてはいけない事案がいくつかあります。車、どうしよう。彼女の頭に真っ先に浮かんだのは青い車のことでした。さらに追い打ちをかけるように新たな所属先からありがたい提案を受けます。国民的有名な車メーカーの会社がスポンサー契約しており、所属選手に車を提供してくれるというのです。
幸いにも新天地に家を買い、腰を据えて家族計画を真面目に考えていたところ。入居まで半年以上あるため当面は愛車を手放す必要はありませんが、いずれやってくる決断の時を思うとちょっぴり胃が痛い彼女なのでした。
◆
「おとったん……」
「ん、もうちょっと我慢してな。おうち着いたら抱っこしてやっから。一緒にゴロンしような」
発熱した愛娘を保育園から引き取って彼は車を走らせます。たまの休みにお迎えくらい、と朝は張り切って送っていったのにその3時間後にはお迎え。幼いこどもならよくある事ですが、なかなか自宅にいない彼にとっては毎日毎時間が学習の場です。
今でこそ家族のために運転をするようになりましたが、昔から車への憧れと無縁でした。左ハンドルは毎日そこらじゅうで目にした当たり前の光景。艶めく高級車を乗りこなす程運転そのものが好きではないし、何よりお金が勿体ないと感じていました。さらに将来的に子どものいる暮らしを想定した時に、最低でも三人乗れる、チャイルドシートが付けられる、なおかつ妻である彼女も運転しやすい国産車を考えており、そんなタイミングで入ってきたのが提供の話でした。提供と言っても勿論一部負担、丸々タダになるわけありません。それでもある程度のいいお値段の車に乗れるという楽しみもあり、その話を彼女にしてみました。
「これどうかな?デカすぎないしナマエでも乗れる」
「いいんじゃない」
心ここにあらず、そんな彼女を見逃すわけがありません。しかし少し想像が及ばず核心を掴みきれないうちに彼女は少し冷たい言い方をしてしまいます。
「私の車は?どうすればいいと思う?」
「どう、って」
廃車?譲渡?売る?それとも持っていく?そのどれもが本当に尋ねたいことではありません。最後は自分で決めることだと分かっています。ただ、思い入れのあることを彼も知っている愛車のこれからをどうするのか迷っているよ、こんな選択肢を考えているけどどうかな?と話したかった、話を聞いて欲しかっただけなのです。一字一句、理路整然と話せたら人間苦労はしません。それは我慢強く真面目に見える彼女とて、あれもこれも不足して上手く立ちふるまうことが出来ない事もあるのです。
言葉に乗せた棘が彼に刺さった瞬間を見てしまったら最後、もう次の言葉を発することを恐れて全部飲み込んでしまいます。自分の喉にチクチクと刺さる棘は自業自得、これ以上彼を傷付けたくない一心でお風呂に行くとだけ告げて脱衣場へと逃げ込みました。大きく息を吸い込み鏡の中の自分と目が合います。崩れたお化粧と仕事に諸々の手続きにと疲れた顔にぽろぽろと涙が落ちた瞬間、ガラッと扉が開きました。服を脱いでいるかもしれないという配慮は彼にはありません。そんなことよりも滅多に無い棘が心配で、自己完結しようと殻に閉じこもる彼女をひとりぼっちに出来なくて、なりふりかまってなんかいられないのです。
「ごめん」
「何にごめんなの?俺怒ってないよ」
滅多に言い合いも喧嘩もしてこなかったからこそ、少しでも噛み合わないと思うと途端に不安になってしまう彼女ですが、そこはナメちゃいけません。再びリビングへと連れ戻す行為そのものは乱暴でも、頭を撫で肩を抱く手はやさしく、問いかける声はまろやかに彼女の萎れた棘を溶かします。答えを決めつけずに時間をかけて一緒に話をすると、新たなアイデアも浮かんできて少しずつ着地点が見えてきました。この先何年、何十年とそうやって様々な困難に立ち向かいクリアしていくことになります。そんなきっかけになった夜だっていつもと同じように互いの手を握りながら眠りについたふたりなのでした。
そして現在ー
秋晴れの空の下、彼は抱っこ紐で息子を抱いて。彼女は娘と手を繋いで駐車場を歩いています。
「おじじ夜ごはんすきやき?」
「まだだよー。サンタさんの頃になったら届くと思うよ」
今日は地元に住むおじいちゃんへ冬の贈り物を選ぶために家族でショッピングモールにやってきました。コーチン鍋セット、水炊き、薩摩黒豚しゃぶしゃぶ。お肉の大好きなおじいちゃんへ、最後はひ孫にあたる娘に決めてもらったのです。自分が選んだという事実に娘はどぎまぎして、今すぐにでもおじじ様がお肉を食べるのかと落ち着かずにフードコートでおうどんを食べる時も、子供服店で両親が冬服を選んでいる時もソワソワ。そんな我が子を見て、ふと青い車の行く末を思い出しました。
あの後彼女は何度も何度も話し合った結果を報告すると、おじいちゃんは豪快に笑い飛ばしてくれました。そもそも俺が買ってやったわけではない。お前と栄治くんで決めたことならそれでよかろう、と。
青い車は克利さんが見つけてくれた買い手さんに売ることにしました。そしていくらか戻ってきたお金で半年後にチャイルドシートや抱っこ紐など、生まれてくる子どものためになるアイテムを用意したのです。
「あったー!」
「あったねぇ」
かつての彼女の愛車は、彼のスポンサーである車メーカーと同じものでした。彼が選んだ車種はカッコいいSUV車、色は彼女の意向も汲み取りホワイトに。そして今、地下駐車場でふたりの娘は指をさしてニコニコと嬉しそうに声をあげています。
「おとうさん!おとうさんの車あそこだよ!」
「お、ありがとう教えてくれて」
「どーしたっまって」
「……なんて?」
「どういたしまして、だって」
色も形も乗せる人も走る道も変わりましたが、ふたりを乗せた車は新メンバーのことも安全に色んな場所へ運んで色とりどりの景色を見せてくれます。
青でも白でも小さくても大きくても車は車。今日もまた、大切なひとと、大切なひとのために。
◆
「っていうCMなんだけどさ」
「いや待ってよ越野!めちゃくちゃいい話だけどめちゃくちゃ個人情報!」
「勿論そのままプロットにはしねぇよ!ただすげぇいいわ。沢北の嫁さんにインタビューしてぇくらい」
「だめ」
「だろぉ?だーかーら、お前に聞き取りしてんじゃねぇか」
所属チームの会議室、スポンサーである車メーカーの営業企画で勤める元陵南高校の越野さんは、30周年コマーシャル製作グループのチーフマネージャーとしてやってきました。顔馴染の選手は彼だけではありませんが、そこはやはり彼に白羽の矢を立て指名したのでした。
「沢北は?顔出しインタビューOK?コメント欲しいんだよね」
「俺はいいよ」
「タダ働きじゃないから安心しろ」
「娘に三輪車欲しいって言われてさ」
「大丈夫、買える」
そんな冗談を交わしながら和やかムードでビジネスを進めて半年後、本格的なコマーシャルとして全国に放送されました。遠くのおじいちゃんも、克利さんも。今は九州に住む先輩も、全国各地にいる彼の仲間も。みんなのもとに届けられたコマーシャルの最後には短く一文が記されています。
【ルートを決めるのは、自分だ】
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