その日の午前中のタクミの当番は泉での鉱石採取だった。泉のほとりで裸足になって括り袴を脱ぐ。着物の裾をからげて泉の中に足を浸すと、水の冷たさにぶるっと震えた。浅いところは丸い石の上に藻が生えていて滑りやすい。慎重に歩きながら水底の鉱石を探す。拾った鉱石を岸にあげようと向きを変えたとき、遠くに見慣れた後ろ姿があった。金色の頭に青い法衣、そして黒い鎧。レオンだ。臣下と何かを話している。
いつもだったら特に何も思わずすぐに視線を動かしただろう。だが今日は手に鉱石を持ったまま彼の姿をしばらく眺めていた。
ふと、彼に言われた台詞が浮かぶ。
――今日は拠点内デートでいいかな。
デート、デートか。
ゆっくりと小さく、口の中で噛みしめるように「でえと」とつぶやいてみた。途端にこそばゆくなる。その単語の響きには特別なものがあった。ただの約束とは別格に思える。
デートと言っても名ばかりで、内容は普通に夕食を食べて彼の部屋に行くだけだ。特別なことは何もない。夕食も雰囲気のあるところでも何でもなく、いつもの拠点の食堂だ。周りには仲間がたくさんいるし、レオンと席を並べて食べたことだって今までにいくらでもある。ただ今日は、レオンが隣に座るのが確定しているというだけだ。何か変わったことが起こるとは思えない。部屋に誘われているのだって、色気のあることをするわけじゃない。チェスを教えてもらうだけだ。
それでもその普通の行為にデートと名前がついただけで、特別なことをするような気分になった。思えば、この拠点で誰かと約束するのは、たいてい何らかの役割を求められているときだった。将として。主君として。白夜王族として。食事とかチェスとか、特に約束する必要がなかったり戦いに関係なかったりすることを、タクミ個人として約束するのは初めてだった。何だかそわそわする。
レオンはまだ臣下と話している。ときおりひらりと長い腕を動かして、何かを指示しているようだ。遠くからタクミが見ていることにはまったく気づいていない。熱心に何を話しているのだろう。個人的な話だろうか。夕食のときにでも聞いてみようか。
そう考えていると、突然近くで大きな声がした。
「タクミさん!!」
「うわあっ!!」
びっくりして同じくらいの大声が出る。心臓をばくばくさせながら声のした方へ振り向くと、泉のほとりに立ったカムイが驚いた顔でこちらを見ていた。
「はあ、びっくりしました。聞こえていたんですね」
「びっくりしたのはこっちの方だよ。なに大きな声出してるのさ」
驚かされたことに文句を言うと、カムイは平然と言い返してきた。
「何度呼んでも返事がないので聞こえていないのかと思ったんです」
「……ちょっと考えごとしてたんだよ」
「考えごとって何ですか?」
「カムイ姉さんには関係ないよ」
「あちらのほうを見ていましたね」
適当にあしらおうとしていたら、カムイがタクミが見ていた先を目で追い始めた。レオンがいる方だ。タクミの背がびくっとすくんだ。あわてて声をかける。
「ちょっと! 僕に用があるんだろ!」
カムイはタクミに顔を戻した。何を見ていたのかはばれていないようだ。人知れずほっと胸をなで下ろす。
「ああ、そうでした。鉱石をもらおうと思ったんです」
カムイの言葉にはっとしてタクミは自分の手元を見た。拾った鉱石をずっと握っている。自分がこれを岸にあげようとしている途中だったこともついでに思い出した。いったいどのくらいの時間突っ立っていたのだろう。ともかくこれをカムイに渡せば彼女はこの場から立ち去るはずだ。
「ほら、これ!」
気まずさを悟られまいとして、ざばざばと水音を立てながら大股でカムイに近づく。鉱石を手渡そうとした瞬間、石の上に置いた足の裏が藻でずるっと滑った。とっさに反対の足で踏ん張ろうとしたが、無情にもそちらも滑る。
「わああっ!」
ばしゃんと大きな水音を立ててタクミは水の中に尻餅をついた。
「タクミさん!」
カムイが叫んだ。その声に、近くにいたジョーカーやフェリシアが何事かと集まってくる。
タクミは尻餅をついたまま動けなかった。水面からのぞく自分の膝頭を呆然とながめる。手と尻の下には丸くて硬い石の感触があった。下半身は下帯までずぶ濡れだ。着物は背中の真ん中辺りまで濡れて貼りついているし、きっと髪の毛も濡れている。まさか自分がこんなヘマをするなんて。とにかく立ち上がらなければと足を引き寄せ、前屈みになろうとしたところでまた少し滑った。
手をつきながらどうにか立ち上がる。顔を上げると、カムイが心配そうな顔をこちらに向けていた。一部始終をずっと見られていたようだ。あまりの恥ずかしさにかあっと全身が熱くなる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ、このくらい」
平気な顔を作って、渡しそびれた鉱石を渡す。用は済んだのに、カムイは従者たちとまだその場にいた。
「行かないの」
「本当に大丈夫なんですか? 怪我はありませんか? タオルを持ってきましょうか? それともヒナタさんたちを呼んできたほうがいいでしょうか」
びしょ濡れのタクミを気づかう言葉を次々にかけてくる。
最悪だ。
タクミはいら立ちが顔に出そうになるのを抑えた。
気づかってくれるのはいいのだが、同じ気を回すのならもっとさりげなく手助けして欲しかった。そこまでいかなくても、せめて何でもない風を装ってここから離れるとか。このままでは変に人が集まっているせいで周囲の人間の注目を集めてしまう。早くどこかへ行ってくれないだろうか。濡れた身体と着物はどんどんタクミから体温を奪っている。早く温泉に入りたかったが、移動するとカムイはついてきそうな勢いだった。それはさすがに御免こうむる。
ジョーカーはにっこりしながらカムイを見ているだけだし、フェリシアはおろおろするばかりで役に立ちそうにない。こうなったら厳しいことを言ってカムイを遠ざけるしかないか。
「あのさ」
タクミが口を開こうとすると、鎧をきしませながら誰かが近づいてくる音がした。
「タクミ王子」
ぱっとそちらに目をやると、岸にレオンが立っていた。カムイたちからはやや距離を取っている。手には簡素な履物と、大ぶりのマントを持っていた。
「これを履いて」
レオンは履物を泉のそばに置いた。言われるままタクミはレオンに近づいた。泉から出て、暗夜のサンダルだよと説明された履物に裸足の足を入れる。
「……ありがとう」
「これも」
サンダルの礼を言うと、レオンがマントを広げた。フード付きの、膝まで隠れる長いものだ。さっと肩にかけられ、前の留め具を留められた。身体がすっぽりと包まれる。続いてフードを被せようとしたレオンの手が止まった。
「緩めてもいい?」
聞きながら、レオンは自分の頭の後ろを指した。タクミはああと得心した。髪の結び目があるからうまくフードを被せられないのだ。タクミはマントから手を出して頭のてっぺんの結び目を持った。もう片方の手で髪を押さえながらぐいと下に引っ張る。髪の結び目が首の位置に来て、フードがすっぽりと被せられた。視界が狭まって足元しか見えなくなる。ここまで顔も身体も覆われていたら、外からでは誰だかわからないだろう。
「カムイ姉さん、あとは僕がやるから」
レオンはカムイにそう伝えると、タクミを連れてさっとその場から離れた。温泉でいいよねと聞かれて歩きながらうなずく。目深にかぶったフードのせいでどっちへ歩いているのかはタクミにはわからない。こっちだよと軽く背を押してくるレオンの誘導に大人しく従った。マントの布地は保温性があって、タクミを隠してくれるだけでなく、冷えた身体からこれ以上熱が逃げるのを防いでくれた。
しばらく歩き、周囲に人が少なくなったのを感じてタクミは改めて言った。
「あのさ、ありがとう。助かった」
「どういたしまして」
レオンはさらっと返事をする。すぐに駆けつけてくれたのも、あの場から素早く離してくれたことも、こちらの事情を掘り下げて聞こうとしない態度も、今のタクミには何よりありがたかった。
「それにしてもよく気づいたな。あんな遠くにいたのに」
「カムイ姉さんが大声で君の名前を叫んでたからね。どうしたのかと思ったよ」
「あんなところまで聞こえてたんだ。もう、カムイ姉さんは」
レオンがくすりと笑う。
「僕が遠くにいたの、気づいてたんだ」
「そっ、それは」
「いいんじゃないかな。恋人なら、少しでも相手の姿を見かけたら何をしているか気になるものだよ」
温泉の入り口に到着する。もう大丈夫だよと言われてタクミはフードを脱いだ。
「着替えは君の臣下に持ってくるように伝えてあるから。泉に置いてきた服の片付けもね」
「このマントとサンダルは?」
「ここの脱衣所に置いておいてくれたらいいよ。後で僕の臣下に回収させる」
「そうか。ありがとう」
何度目かの感謝を口にする。何から何まで世話を焼いて、立ち去ろうとするレオンをタクミは呼び止めた。
「あんたがここまでするのって、僕の恋人役だから?」
「そうだよ」
「友達だったらここまではしないってこと?」
レオンは顎に手を触れ、少し考える素振りを見せてから言った。
「びしょ濡れの君を少しからかってから助けるかな」
「なんだよ、それ」
実際にやりそうだなと思えて笑いが出る。
「それか、すぐに君の臣下を呼んで来る。自分ではここまで率先して動かないだろうね。自分の仕事もあるし」
「ふうん。そういうもの?」
「うん、違いはあるね。友達は複数でも恋人は一人しかいないし、何を置いても最優先にするべき存在だから」
レオンと別れてタクミは温泉に入った。広い湯船に一人で浸かり、濡れ鼠の自分にマントを持って駆けつけてくれたレオンの姿を思い返す。
最優先か。
お湯の温かさにつられて思わず頬が緩んだ。仮とはいえ、恋人がいるというのはこんなにも気分がいいものなのか。臣下以外でも自分を一番に考えてくれる人がいる安心感にタクミは深く息をついた。
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