タクミは誰もいないのを確認して庭に出た。自室から持ち出した凧を手に持ち、砂利の上をそろそろと歩く。着せられた何枚もの衣装はいつもより上等で重かった。用意された草履もつやつやしていて、普段履き慣れているものよりずっと歩きにくい。
今日は何かの式典の日らしい。何の式典だったかは世話役に聞かされたけれど忘れてしまった。朝早く起こされ、着替えさせられ、他のきょうだいたちと一緒にいい子にして待っているようにと言われて一室に連れて行かれた。着飾ったリョウマとヒノカの姿は美しくてわくわくしたが、二人ともなにかの役目があるらしくすぐに部屋からいなくなってしまった。残されたのは最近歩き始めた赤子のサクラとその乳母だけだ。小さな妹としばらくはお手玉を転がして遊んでいたのだがそのうち飽きてしまった。暇を持て余したタクミは世話役の目が離れた隙に、妹の乳母に「厠に行く」と告げて自分の部屋へ凧を取りに行った。
いい子にして散々待ったのに何も起こらなかったのだ。もうしばらくは外で遊んでいたって大丈夫だろう。
そう判断して庭へ出た。後ろで一つ結びにした髪が風にそよぐ。それなりに風もあるから凧もよく飛ぶと思われた。
実際凧はよく飛んだ。大人に支えられなくても、タクミが少し駆けただけで風をつかんでするすると上へ揚がっていった。糸がどんどんと長くなり、凧からの手応えもどんどんと強くなる。
調子よく揚がった凧を操り、得意な気持ちになる。突然、びゅうと一際強い風が吹いた。凧から手に伝わる力がぐんと重たくなる。持って行かれまいとして糸巻きをぎゅっと握ると、風がなおも強く吹いた。
「あっ」
風の力に耐えきれず、タクミは糸巻きから手を放してしまった。凧が風に流されて飛んでいく。
「ああー」
追いかけようとしたが重い衣装と慣れない履き物のせいでうまく走れなかった。転ばないようにするのが精一杯だ。
追いつけないながらも目で追うと、幸いというべきか凧は庭の端にある背の高い木に引っかかった。木の上の方にくるんと一巻きして止まる。
「どうしよう……」
タクミは木を見上げた。とても子どもの手が届く高さではない。下の方の枝は落としてあるので登るのも難しそうだった。
大人を呼べばどうにかしてもらえるだろうが、そうすると自分が部屋を抜け出したことが知られてしまう。自身が引き起こしたことではあるが、叱られるのは嫌だった。どうにか自分の力だけで問題を解決できないか。タクミはしばらく庭をうろうろとし、立ち止まって木の上を見上げてはまたうろうろとした。
「そうだ」
はっと名案を思い立ち、その場を離れる。
タクミは待っていろと言われた部屋の隣の部屋へと入った。赤い毛氈が敷かれた上にいくつかの武具やら鏡やらが整然と並べてある。今日は式典の日だ。式典の際に使う大事なものはいつもここに置かれているのをタクミは知っていた。目当ては弓だった。鳥の羽の意匠のある、長くて美しい弓だ。早速見つけて駆け寄る。弓に弦はない。
以前あった何かの式典の折に、新しい母のミコトがこれを手にしていたのをタクミはしっかり覚えていた。弓を引く母の姿も美しかったが、何より弦と矢が不思議に光るこの弓がタクミの心を捉えていた。
この弓なら、木の上の凧に届くかもしれない。困っている自分を助けてくれるかもしれない。
タクミが弓に触れると、ぽうと弓全体が光った気がした。触れたところが温かい。おかしな現象だとは思ったが、不思議と恐れはなかった。そっと端を持ち上げてみる。重たいと思ったのは最初だけで、引き寄せるとそれこそ羽根のように軽々と持ち上げることができた。弦が出せないかと思ったが、やり方はわからなかった。ただその弓に触れているだけでどこからか勇気がわいてくるように思えた。
弓を持って意気揚々と部屋を出る。
庭に出るとまだ凧は木に引っかかって揺れていた。タクミは弓の端を両手で持ってうんと腕を伸ばした。だが凧の高さまではとても届かない。部屋の中では長いように見えた弓も、木のてっぺんまで届くほどには長くなかった。諦めきれず、もう少し木に近付いてまたうんと腕を伸ばしてみる。つま先立ちになってぷるぷると震えながら弓と一直線になって全身を上へと伸ばしていると、後ろから穏やかに声がかけられた。
「何をしているのですか、タクミ」
「わあっ」
タクミは驚いて弓を持ったまま後ろによろめいた。地面に転がると思われたその背中を優しい手が支える。
「大丈夫ですか」
「は、ははうえ」
両脇の下に手を入れられ、一度抱えられてそっと地面に下ろされる。ミコトの手がぱたぱたとタクミの袴の裾を払った。
――どうしよう、怒られる。
タクミはゆっくり母の方へと振り向いたが、その顔をまともには見られなかった。両手に持った弓をどうするべきか迷い、黙ってミコトの方へと差し出す。ミコトはそれを受け取ると、しゃがんで顔の高さをタクミに合わせてきた。
「タクミ、この風神弓は大事なものだと知っていますね」
「はい」
タクミはこくんとうなずいた。今さらながら、ずっと前に父から「この刀と弓は国にとってとても大事なものなのだ」と言われたのを思い出していた。
「どうして持ち出したのか、教えてください」
ミコトの声は優しかった。タクミはそろそろと木の上を指さした。
「あれを取りたかった」
「まあ」
ミコトは木の上を見上げるとくすりと笑った。
「あなたがやったのですか」
「はい」
「そうですか。それでは後で忍に言って取ってもらいましょう」
ミコトはタクミの手を取ると部屋へと向かって歩き出した。
「怒らないの?」
タクミが小さな声で聞くとミコトはまたくすりと笑った。
「お説教はまた後です。まずは式典に出ましょうね。それにしてもよくこれを持ち出せましたね。重たくはなかったですか」
「軽かったよ。それに、さわるとあったかかった」
ミコトは少し驚いたようだった。
「そうですか。軽くて温かかったのですか、この弓が」
そのまま無言で連れられ、待てと言われていた部屋の前にたどり着く。青い顔をして待っていたタクミの世話役にミコトが何事かを伝えた。「叱らないでやって欲しい」と言っているようだった。
ミコトはタクミに向き直ると膝をつき、風神弓を両手で捧げるように持った。
「タクミ、いずれあなたにこの弓を託すときが来るのかもしれません」
「たくす?」
「あなたが風神弓の持ち主になるということです」
「ぼくが? 本当に?」
タクミは目をぱちぱちさせた。この美しい弓を自分が母のように扱えるようになるというのがにわかには信じられなかった。
「今すぐではありませんよ」
「大きくなったら?」
「そう、大きくなったら、です。そのために励んでくださいね」
ミコトはにっこり笑うと、風神弓を持ち直して隣の部屋に入っていった。
タクミは部屋に戻ってもしばらくぼうっと座っていた。サクラがよたよたと近付いてきて遊んで欲しそうに膝を叩いてきても上の空だった。自分が風神弓の持ち主になる遠い未来に思いを馳せていた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.