食堂でサガと一緒に昼食をとり、アイオロスは教皇補佐官室へと戻った。午後の仕事の段取りをサガと相談しながら歩いていたのだが、途中でサガが執務官に呼び止められたため一人で先に戻る。
何も考えずに部屋のドアを開けかけ、そこにいるはずのない人物の小宇宙を感じ取って一瞬戸惑う。
「ん」
そのまま普通に開けてしまった扉の向こうで、アテナがアイオロスを待っていた。
「アイオロス、おかえりなさい」
アテナは美しい微笑みを向けてくる。アイオロスは驚きながらも反射的にアテナの前にひざまずいた。
「ア、アテナ! …このような所にお越しにならなくても、何かご用命があればお伺い致しますのに…」
「そうかしこまらないで、アイオロス。少し時間が出来たので、お茶を淹れて差し上げたいと思ってきたのよ」
アテナはアイオロスの手を取って立つように促すと、そのまま手を引いて応接セットへと移動する。
「お茶…ですか??」
少女にエスコートされるまま、アイオロスはソファへと座った。サイドテーブルの上には、先ほどまでは無かったティーセットが置かれている。きっとアテナが持ってきたのだろう。
「良い香りのする茶葉をアフロディーテからもらったの! 早く試してみたくて」
アテナはうきうきとした様子で茶の準備に取り掛かる。
「…あっ! では私が…」
のんびりと座っている場合ではないと腰を上げかけたアイオロスに、アテナの人さし指がぴっと突きつけられた。
「いいのよ、アイオロス。今日は私が押しかけてきたのですもの、私にさせて下さいな。…私だってそれ位できるんですのよ?」
だから大人しく座っていてくださいね、とアテナは突きつけた指をすいっと動かしてソファを指す。
「で、では…」
自分の指示通りにアイオロスがソファに座ったのを確認すると、アテナは年相応の少女のようにうふふと笑った。
カチャカチャと小さく茶器が鳴る。アテナに手ずから茶を淹れてもらえるなどと聖闘士としては光栄の極みだが、アイオロスは落ち着かなかった。しかし大人しく待っていろと言われた手前、手伝うなどとは言い出せない。待っている間、殺風景な室内にうろうろと視線をさまよわせる。
執務机と資料棚の並ぶ、これといって見るべきところのない室内の風景にはすぐに飽き、自然とアイオロスの視線はアテナへと向かった。
楽しげな様子でアテナは湯をティーポットに注いでいる。たおやかな白い手がポットにふたを乗せ、小さな砂時計をくるりとひっくり返した。地上の愛と正義という大きなものを支えるようにはとても見えない、小さく、そして優美な手だ。
「―――」
その手が、もっともっと小さかったころの一つの情景がアイオロスの脳裏に浮かんだ。
抱きかかえた身体は驚くほど軽く、柔らかく、そして温かかった。身体と同じく小さな手がアイオロスの方へ向けてぱたぱたと動く。大きく見開いた瞳は、アイオロスが首から下げたペンダントの揺れる様を不思議そうに見つめていた。
『これがお気に召しましたか? アテナ』
ペンダントを首から外し、赤子の手に渡す。ぷっくりとした両手で握りしめたペンダントをアテナはまたじっと見つめていた。その仕草は普通の人間の赤子と何ら変わりはない。
何の罪もない無垢な赤子であるはずなのに、この子は生を受けたその瞬間から命を狙われる立場にあるのだ。
アイオロスはアテナを抱えた両腕にぐっと力をこめた。
渡したペンダントで無邪気に遊ぶこの小さな存在が、産まれながらに聖戦という過酷な宿命を背負っていることを思うと、ちりりと胸が痛んだ。
何としてもこの方を守らねばならないと思った。自らの持てるものすべてを賭けて。
かつてアイオロスが死を賭して守り抜いた存在は、戦女神の名に恥じぬ立派な成長を遂げ、幾多の試練を乗り越えて、今目の前に立っている。室内に入りこむ日差しはそれほどまぶしくないはずなのに、アテナの周りだけが輝いているように見えて、アイオロスは目を細めた。
「アイオロス?」
「!」
呼び掛けられてアイオロスは我に返る。気が付けば、砂時計の砂はすでに半分ほど下に落ちていた。
「…そのようにじっと見つめられると、照れてしまいますわ」
「あっ!えっ!? …ぶ、不躾に、申し訳ありませんっ」
「い、いえその悪いと言っているわけではないのですけど…」
アイオロスは身体ごと向きを変え、アテナから視線を外した。何となく居心地が悪い。
「………」
「………」
細いガラスの筒の中を青い砂がサラサラと落ちる、そのかすかな音だけが聞こえる。
「…あっ、も、もういいわね」
声につられてアイオロスはそちらを見た。砂の落ち切った砂時計の横で、アテナが待ちかねたようにティーカップにお茶を注ぐ。カップから立ち上る湯気と共に、甘く優しい香りが部屋の中を漂った。
「ああ、本当にいい香りだ。――薔薇の花の香りですね」
アイオロスの感想を聞いて、アテナの顔がぱっと明るくなる。
「ほら、うまくできると言ったでしょう」
にこっと笑って得意そうにこちらを見る顔は、見覚えのある表情だ。幼少時の弟が鍛錬の合間に見せていた、少し顎を引き、褒められることを期待したその表情。
「よくできましたね」
アイオロスがわざとらしく芝居がかった調子で応えると、二人は顔を見合わせてクスクスと笑い合った。
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