シノハラ
2024-10-31 22:51:24
4209文字
Public ヌヴィフリ
 

アパートに移る前の一番抜け殻だった時期のフに事の顛末を説明しようとして失敗するヌのヌヴィフリ

2023/12/6初出

 伏せられるべき事実などこの世にはいくらでもある。例えば――かの行為を罪と呼ぶのをヌヴィレットは好まないが、エゲリアの罪。すでに人であるフォンテーヌ民は自らが純水精霊であった事実など知る必要もない。
 事態を収拾するためにヌヴィレットが公的に説明したのは二点に留まった。一つ、水神が目指したのはフォンテーヌ人の体質の改善であった旨。原始胎海の水に溶ける民の体質を理由に起きる滅亡を回避するため、水神は力の集約を行う必要があった。即ち、水龍への権能の還元である。
 一つは、フリーナの立場について。水神は表舞台には立たず、計画の成就のために一人の少女を選んだ。人と水龍による統治の妥当性を示しながら、自らを自由とするためである。少女には呪いが施され、水神に計画の成就に必要な時間を生み出す役割を与えられた。
 五百年に渡る悲願はついに果たされ、フォカロルスは水神の神座と共にこの世を去った。それらの犠牲を経て、フォンテーヌの民はもはや原始胎海を恐れる由がなくなったのである。
 この説明に隠された事実が未来永劫隠されたままであることはないのかも知れない。けれど、水神の永遠の退去や人に寄る統治に揺れているフォンテーヌにおいて、多くの情報を与えるのが得策とは思えなかった。
 律償混合エネルギーの蓄積のためにはいかなる卑劣な犯罪すらも必要とされる。この言論は長らく続いた主張であったが、今回の舞台裏が知れれば論争に拍車が掛かるのは想像に難くない。諭示裁定カーディナル自体が風化するまで、明るみに出すわけにはいかないだろう。
 そうやって、開示すべき情報を一つ一つ判断したのはヌヴィレットだった。今までであれば『水神』と意見交換をしたかもしれなかったが、今の彼女は部屋の片隅で呼吸をしているのが精一杯の状態だと聞いている。
 身体に不調があるわけではなく、ただ彼女の精神が擦り切れているのだ。今の彼女は一人でいることを望みながらも、一人では三食食事を摂ることも入浴することも叶わない。過干渉を避けながらも、一人のメリュジーヌに面倒を見てもらうようにしている状態である。
 彼女の疲れ切った心がそれで少しずつ落ち着けば良いと思っていたのだ。けれど早速、ヌヴィレットは判断を誤ったのかもしれない。
 僕のやってきた事には何の意味もなかった。そう、彼女が告げたとそのメリュジーヌはヌヴィレットに報告した。誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりと零したふうだったらしい。
 その時、自分は大きな思い違いをしていたのではないかとようやく気がついたのだ。彼女に何も伝えていない。伝える必要がないと思っていたからだ。彼女はフォカロルスの片翼に等しく、であればヌヴィレットより余程情報を持っていると思っていると、いつの間にか思い込んでしまっていた。
 知らないと言い張ったのが彼女の精一杯の運命への抗いではなく、本当に知らなかったのであれば。自らの奮闘がどう結実したのかすら、彼女は知らないままでいるのかもしれない。自らが人であるかどうかに関わらず、予言が覆されたかのように彼女の目に映っていたのだとしたら。
「ヌヴィレット様がフリーナ様に会いにいかない理由は承知しています。水神であった頃の事を無暗に思い出させるのが得策だとも私も思いません。けれど、このままでは」
「ありがとう。彼女と話そう」 
 下がりなさいと強張ったメリュジーヌに告げれば、彼女の私室の鍵を手渡された。呼び鈴を鳴らしたところでフリーナは扉を開けて来客を迎える事すらできないらしい。
 せめてかつてを思い出さないよう、公務中には必ず着ている上着を脱いで杖は置いていくことにする。髪の煩わしさを感じながらも髪飾りを外し、少しでも彼女にとっての自分から遠ざかろうとした。
 同じ建物に暮らしている手前、移動時間はそう長くもない。呼び鈴を鳴らしたが、世話役に言われた通り、彼女の声が中から聞こえることはなかった。小さく息を吐いてから鍵を外せば、彼女好みに思える内装がヌヴィレットを出迎えた。ただ、その印象は水神フリーナに持つものでしかなく、本当に彼女が愛するものかは疑いが残る部分はあるが。
 書類仕事を持ち帰るだろうデスクの前にも、紅茶や食事を嗜むためのテーブルにも、柔らかな羽根が詰まったベッドにも彼女はいなかった。彼女は一人で過ごすには広い部屋の隅でぼんやりと座り込んでいた。足も手も投げ出して、視線はぼんやりと絨毯を撫でている。
 彼女に近づくうちに、来訪者が話しかけてこないのを不思議に思ったらしい。ふいと視線を上げて、視界に入るのがいつものメリュジーヌでなかった事実にぎくりと体を硬直させた。きゅっと瞳孔を絞りながら怯えを浮かばせたにも拘わらず、フリーナは悲鳴の一つ上げようとしない。
 まるで、裁きを終えた罪びとが罰を待つような、拒否する権利すらないとでも言いたげなふるまいだった。
 そんな彼女の前にヌヴィレットは膝を突く。必要最低限も食べられているか怪しい彼女の体を抱き上げて、柔らかなベッドに移すことももちろんできた。けれど、それが彼女の恐怖をいたずらに煽ることくらいヌヴィレットにも分かる。
……フリーナ、君の五百年の話をすることを許してほしい」
 彼女からしばらく反応らしい反応はなかったが、自身が返事をしないとヌヴィレットが話し始めない事に気がついたらしい。ゆっくりと瞼を落として、彼女は同じくらい緩慢に息を吸い込んだ。
 僕が拒めるものなんて何もないよ。
 そう、彼女はなんとか口にする。張りがなく、掠れた、弱り切った声だった。吸い込んだ息が使いきれているか怪しいそれに、ヌヴィレットは眉根を寄せてしまいそうになる。
「フォカロルスから開示された情報は少ない。君の疑問を全て解消できるものでもないだろう。それでも話せる事は話す。この内容を知る者は旅人と、フォカロルスと、そして君だけになるはずだ」
 ヌヴィレットが彼女を欺くのはこれが初めてだった。たった一つ、ヌヴィレットが彼女に悟られてはならない事がある。フォンテーヌの民が救われるには二つの要素が必要不可欠だった。一つは諭示裁定カーディナルが神座ごと水神を葬り去るに足るエネルギーを充填すること。もう一つは水神から権能を還元された水龍がフォンテーヌの民を許すこと。
 たとえ、百年、二百年と前にこの機会が訪れていたとして、自身が他の選択をしたとは思えなかった。では、諭示裁定カーディナルはどうだったのだろうか。
 いつあの大剣がフォカロルスを殺すほどの力を得たか、フォカロルスは語らなかった。だからヌヴィレットにはその時期を憶測することすら叶わない。もしかしたら彼女が真実を語るうちだったのかもしれないし、百年前の出来事だったかもしれない。
 もし、もしも。百年、二百年前に全ての条件が揃っていたならば。フォカロルスが描いた劇の台本を外れ、結末に至れていたなら。
 その場合、その間のフリーナの苦悩が全て無駄だった可能性がある。どうしてここまで、長い劇の終着点の欠片すらフォカロルスがフリーナに見せようとしなかったのかヌヴィレットには分からなかった。
 人性を失ったフォカロルスには人の心の強度が推し量れなかったのかもしれないし、半身にすらあらすじを知らせない事で少しでも成功率を上げよう画策したのかもしれない。件の計画において無知は力だった。それは間違いない。けれどそれは、フリーナの途方もない犠牲を元に成り立っている。
 そう思うと、フォカロルスがほんの少し憎らしい。それが必要な事だと理解しながらも、湧き上がる感情を抑えきるのは容易ではなかった。
 ままならない感情を無視しながらも、ヌヴィレットはフリーナに事の顛末を語る。フリーナが違和感を覚えないように少しずつ細工をしながら、ほぼ正確な物語を紡いだつもりだった。けれど、そんな調整は今の彼女には必要なかったのかもしれない。
「君の五百年はフォンテーヌとその民に必要だった」
 そう締めくくったヌヴィレットの言葉は彼女には響かなかった。何も隠す必要のなくなった彼女はもうどこにも逃げ出さない。いや、この表現は的確ではないだろう。そもそも届かないのだから、彼女がどこかに逃げる必要もない。
 法廷において、多くの場合真実とは一方の救いである。それが片鱗でなかったとしても、それを慰めとして人々は日常に帰っていく。けれど、フリーナはそのひとかけらも受け取れたようには見えなかった。
「ありがとう、ヌヴィレット」
 その声の何と空虚な事か。
「話を聞けて安心した」
 嘘だ。水を介したわけでもないのに、手に取るように分かった。
「何も分からなかったから」
 これは本心であり、嘘でもある。
「忙しいのにごめん、早く立ち直らないと」
 本心であるのが、あまりに痛々しかった。
 言葉を繰るのに堪えかねたのか、彼女の目から一粒涙が零れた。反射的に濡れた頬を拭おうとして伸ばした手をフリーナがぱちりと弾く。そう強い力でもなかったが、ヌヴィレットの手を止めるには十分だったといえるだろう。
 あ、と漏れたのはフリーナの声だった。すぐに息が乱れて、そこに恐怖が満ちているのが分かる。次々に溢れ出した涙を簡素な服の袖に滲ませて、擦れた目尻が赤く染まった。
「ごめ、ごめんなさい。読まないで、知ろうとしないで。キミは知らなくていい、こんなの」
 震える声を何とか制御して、フリーナがヌヴィレットを拒む。その根源にあるものに思い当たった瞬間、ヌヴィレットはなりふり構わず彼女を引き寄せてその思いを汲み上げてしまいたくなる。
 この思いが、悲痛な覚悟と優しさがこの国と民を、そしてヌヴィレットを守り続けたのだ。
「私を守らなくていい。君はもう何も守らなくてよくなった」
 その心のすべてを自らのために使ってほしい。この人が深く傷ついているのであれば、その痛みを知っても構わない。そう思うのに、フリーナはヌヴィレットを選ぼうとはしなかった。
 伸ばしたヌヴィレットの手には彼女の指先が絡まり、そこから先には進めない。ついにしゃくりを上げて泣き出した彼女が何を思うのかも分からぬまま、ヌヴィレットはただ泣き濡れる事しかできない少女と共にいる事しかできなかった。