たゆたう水がゆらりと揺れる。穏やかな光を受けて青色に時折飛沫の白が混じりながら、種々様々な水生生物が思い思いに泳ぎ、蔵内の前を通り過ぎては影を落としていく。カメラのフラッシュも焚かれない、人々も薄暗い空間では普段より声のトーンを落として通り過ぎていく。非日常の静謐さの中、しかし生命の息吹を感じられる。蔵内は水族館という空間を好ましく思っていた。
目の前のアクリル板から目を離してそっと隣を見やるとそこには王子がいて、先程までの自分と同じように水生生物達を眺めていた。その横顔にはゆらゆらと水の影が差し込んでいる。
何か特定のものを追っているのか、その虹彩は水面のようにゆらゆらと動いていて、蔵内はこれが夢の中だということに気がついた。蔵内は王子のことを信頼のおける仲間だと思っているし気の置けない友人でもあると思っているけれど、水族館に二人で赴いたことはまだない。
夢の中だと気付いてしまうと、周りの風景は曖昧に彩られていることにも気付いて、人の記憶やら想像やらは曖昧なものなのだなと実感し、その曖昧な世界で王子の輪郭だけはいやにはっきりとしていることにふと気付く。
それだけ長く隣にいるからだろうかと思いながら横顔を見つめていると、視線に気付いたのか夢の中の王子は蔵内の方に振り向いた。ゆらゆらと差し込む水の影のせいで薄暗いはずなのに、その表情はいやにはっきりとしている。
何か探るような視線でじいと見つめられて穴が開きそうだななどと思っていると、その口角は緩やかに上がり、眦が僅かに下げられた。そっと、口が開かれる。声は聞こえない。クラウチ、といつものように名前を呼ばれたことだけはわかったけれど。
どうした、と返したはずの自分の声も聞こえない。だが夢の中の王子には伝わったらしい。王子はただにこりと微笑んで喋りはせず、蔵内の頬に手を伸ばす。その手で耳を、髪を、首筋をなぞられる。ぞわりと覚えた感覚の名前が、不快なものではないことは理解したけれど、答えは咄嗟に思い浮かばなかった。
クラウチ。もう一度呼ばれた。射抜く目に、言葉は出てこない。王子はそっと距離を詰めてくる。何をするために、何をしたいがために。王子の行動は蔵内の理解を超えている。だけれども、だからこそ、蔵内はただじっと王子を見つめていた。
吐息がかかる。夢の中のはずなのに。
「クラウチ」
がばりと起き上がると、そこは水族館ではなく見慣れた作戦室であったけれど、目線の先には王子が目を丸くして蔵内の方を見つめていた。少しずつ思い出す。記録を見ながら色々と分析をしていたはずが、いつの間にやら眠ってしまっていたらしい。そういえば昨夜はあまり眠れなかったことを思い出す。
「珍しいね」
王子はくすりと微笑みながら蔵内を見ていた。すでに生身であるようだから帰宅する前に起こしてくれたということだろう。よく見ると肩にはブランケットが掛けられていた。
「あ、ああ、悪い……今は何時だ?」
「さっき二十一時を過ぎたところかな」
「……すまない」
「ぼくもやりたいことがあっただけだから」
気をつかってというよりは本当に自分の用事で残っていたのだろう。こういうフラットなところが何だかんだと王子の傍が居心地良いところだ。ふ、と笑うように息を吐いて、蔵内も椅子から立ち上がろうとする。
「あ、待って」
静止をするように王子に手を伸ばされる。どきりと心臓が脈を打った。薄れかけていたはずの夢の情景が唐突に蘇る。水槽の前で蔵内に伸ばされた手の意味。他の誰でもない現実の王子にあの瞬間に起こされていなければ、あの夢で蔵内と王子は何をしてしまっていたのだろうか。
夢とは違い、王子は蔵内の頭に手を伸ばし、頭を押さえつけるように頭を撫でた。二度三度、同じ場所を押さえつけるようにしてから、満足げに頷いて手が離れていく。
「髪が乱れていたからね」
「……ああ、ありがとう」
「どういたしまして」
今度は静止されずに椅子から立ち上がる。王子と視線が合わさって、夢の中も同じ高さだったと気が付いた。部屋が暗くない分、今の方がよく表情が見える。厳密には、先程は夢で今が現実だからだろうが。
「……クラウチ?」
名前を呼ばれて、指先があたたかいものに触れていることに気付く。夢の中で王子にされたように、王子の頬に触れていた。慌てて指先を離す。王子の目は再び大きく見開かれていた。
「……何か顔についていたかい?」
「あ、……そんなところだ」
誰がどう聞いても嘘だとわかる返答しかできず、焦る。王子も気付いているのか探るようにじいと睨め付けて、しかし深くは追及してこなかった。
「……そっか、ありがとう」
「……ああ」
「もう遅い時間だし、帰ろうか」
「……ああ」
いつもより、互いに言葉少なに。今が夜で救われたのかもしれないと思いながら、帰り支度を進めていく。王子に深く追及されなかったことに安堵しながら、罪悪感を胸に抱く。
あの夢は朧げに薄れていく記憶のままにしておくべきだった。とはいえ後悔は先に立つはずもなく、蔵内の指先には妙に王子の頬の感覚が残っている。
夢の中で王子は蔵内の唇に触れるはずだった。蔵内もまたそれを受け入れていた。
ただの夢だと一蹴することは、指先に残ってしまっな感触が許してくれそうになかった。
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