チン、と軽い音が二人の間で響いてグラスワインの中の液体がゆらり揺れた。それをそのまま一口含むと、口当たりが柔らかながら少し辛口な風味が広がる。普段同僚達と飲みに行くような場所には決してないであろう高級品であることが窺われ、日吉は思わずため息をついた。
「どうした。口に合わなかったのか?」
カウンター席の隣に座る跡部は日吉を気遣う言葉をかけたが、それが見せかけであることは明白だ。心配するにしては声が上機嫌であるし、現に横目で跡部をみるとその表情は笑みを含んでいる。今度は意図的にため息をついてみせ、いいえと首を横に振った。
「ここまで俺の好みにあった酒を提供できる相手を、俺はあなた以外知りませんよ、跡部さん」
跡部を褒め湛える言葉をかけつつ、その響きに皮肉という棘を含ませることは忘れない。それが受け流されることをわかっていても。
「誰がお前に酒の味を教えてやったと思ってるんだ、アーン?」
日吉の皮肉には取り合わず得意げな様子で跡部はそう言ってのける。いつものあの腹立たしいほどに不遜な態度であるが、日吉が初めて酒を飲んだのも今まで酒を一緒に飲んだ回数が多いのも事実跡部であるから否定はできない。それが悔しくて、本来そうして飲むものではないとわかっていながらも、ワインをぐいとあおる。煽っても安物の酒特有の苦みやら渋みがないことが余計腹立たしかったが、そこは胸に収めてところで、と話を変えた。
「こうして誘われるままに来ておいてなんですが、今日は本当によかったんですか」
そう日吉が問うと、それはどういう意味だ、と跡部が質問で返される。
「いえ、俺なんかが普段来れないところに連れてきていただいた上に奢っていただくなんて」
日吉がそう問うと何言ってやがる、と半ばあきれた声で言われた。
「お前は俺の直属の部下で、そのお前が社をあげたプロジェクトの発案者であり責任者となってそれを無事に成功させた。それを喜ばない上司がどこにいる。祝って当然だろうが」
「そんなもんですか」
「そんなもんだよ。それでも納得出来ないなら、俺がお前と二人で飲みたくてそれにお前は付き合わされた、とでも思っておけ」
そう言って跡部は残り少なくなっていたワインをぐいとあおり、今度はマスターにウィスキーをボトルで注文した。以前こうして二人で飲みに来た際に日吉が好きだと言った銘柄だ。跡部には聞かれないようにそっとため息をつく。
あなたが当然だと言いましたが、それが出来ないどころか出世を憎んで部下の足をひっぱろうとする上司だって世の中には山ほどいるんですよ。
心の声はしかしため息とともに出すにとどめた。跡部が出来た上司だということは重々承知しているしだからこそ直属の部下として働いているのだが、それを表にだすのは中学時代から色濃く残っている彼への下剋上精神が許さないのだ。
マスターがウィスキーのボトルを奥から持ってきて、新しいグラスと共に置いて他の客のところへと去って行く。ボトルを跡部が開けて日吉の前にあるグラスへと注ぐ。ことん、とボトルがカウンターに置かれてから日吉がそれをとり同様に跡部のグラスへと注いだ。再び、チン、と軽くグラスを合わせてから、そういえばと跡部が話を切り出した。
「誘っておいてなんだが、お前の奥さんは大丈夫なのか。その」
「ああ、それは大丈夫です。もう安定期に入りましたし、今日はむしろ俺があいつに追い出されてきたようなものなので。無事出産したら今度はあなたが私をそこに連れてきてねー、って。全く、現金なもので」
そう日吉が返すと、跡部はそうか相変わらずだなと笑いながらも安堵のため息をつく。ご心配おかけして申し訳ありません、と言うと妊婦の心配をするのは当然だと返された。
日吉は3年ほど前に大学時代の同級生と結婚しており、その彼女との間に子供ができたと報告を受けたのは4か月ほど前だった。その時すでに妊娠第8週であった。そのことを日吉が最初に報告したのは、報告を受けた場所が社内だったということもあるが跡部であり、なかなか二人の間に子供ができないことを知っていた彼は今日のように手放しに喜んでくれた。その時の跡部の表情を日吉はつい先ほど向けられたかのように覚えている。
「それを言ったら、あなたのところも大変でしょう。2歳でしたよね?やんちゃざかりじゃないですか」
そう日吉が言うと、俺様の息子だ、利口な子に決まっているだろう?とやけに自信満々に返されてしまい、はいはいそうですか、と冷めた口調で言うつもりだったのに思わず吹き出してしまう。すると跡部もそれにつられてぶはっと吹き出す。静かなバーであるから声は押し殺しつつも、しばらく二人で笑い合う。幸せだと思った。だからかもしれない。二人がほぼ同じタイミングで笑いをおさめ、一瞬沈黙が訪れる。日吉がグラスを持ち上げると、氷がカラン、と音を立てた。
「俺、ずっと跡部さんのことが好きだったんです」
ごく自然に、まるで呼吸をするかのようにするりとその言葉は紡がれた。跡部がこちらをじっと見つめてくるのがわかったが、あえてそちらに顔は向けない。グラスを揺らすとカラカラと音を立てる氷はもう随分と小さくなっている。
「あなたに憧れて中学でテニス部に入って、ずっとずっとあなたの背中を追っていたら、いつの間にかあなたのことを超えるべき存在だけでは見られなくなっていました。あなたの隣に並び立つだけじゃ足りなくて、あなたの存在そのものが欲しくなっていたんです。俺の、俺だけのあなたが欲しくてたまらなかった」
「それを今ここで言う意味はあるのか」
半ば遮るようにして紡がれた跡部の言葉尻が、普段の彼であれば絶対に含まないであろう温度の低いものであることにはさすがに気付く。だがあえてそのことはかわして、いえ、とかぶりをふった。
「意味なんてありません。ただ、今ならもう言える気がしたんです。言ってもいい気がしたんです」
グラスに残っていたものを全部飲み干してから、今度は自分でグラスにウィスキーを注ぎ、ちびりと一口含んだ。
そうか。呟かれた跡部の言葉に含まれていたものが何であったかはわからない。
隣で跡部がウィスキーをぐい、とあおったのがわかった。
カランカラン、とドアに取り付けられたベルが小さく鳴るのを後に日吉と跡部はバーを後にする。肩から流れてくる息がやたら酒臭い。その息の持ち主が跡部であるから余計にそう感じるのだろうか。普段それほど酒に弱くはないどころか日吉と飲み比べをしたら確実に勝つほど酒に強い跡部が、こうして日吉に肩を貸してもらわねば歩けないほど酔うところなど、彼と共に酒を飲むようになって10年経つが初めてだった。
バーのある建物の1階に降りてから日吉は立ち止まって、さてどうするか、と思った。
別にこのまま家に連れ帰ってもいいのだが、普段跡部はこうして二人で飲んだ後は必ず自身で電話をかけて家のものに迎えに来てもらっているのを知っている。ついでに言うと跡部の家のものは日吉のことをよく知っているし、日吉もまたよく知っている。俺が下手に介抱するよりも跡部さんの家の人に連絡を入れて後のことを頼んだほうがいいだろう。
そう判断して、跡部に携帯を貸してもらえないか尋ねようとしたが、すぅ、と寝息が聞こえてきたため、日吉は勝手に跡部のケータイを鞄の中から取り出して、それらしき番号に電話をかける。最初跡部の声ではなかったことに驚いたようだがすぐに電話の声が日吉のものであるとわかったらしい。事情を話すと、20分以内にはそこに行けると言われそのまま電話が切られた。
用が済んだ跡部の携帯電話を元あった場所に戻そうとして、少し手間取る。その動作で跡部は目が覚めたらしい。若。名前を呼ばれて、はい、と返事をする。
すきだ。
吐息のような小さな声であったはずなのに、日吉の中でその言葉は大きく響いた。
酔ってるんですか。
酔ってねぇよ。
俺に支えられないと立っていられない人が何言ってるんですか。
それがどうした。
酔ってるからあなたそんなこと言ってるんですよ。あなたがその言葉を言う相手は他に。
若。
……はい。
すきだ。お前が。ずっと、ずっと。
人通りの少ない道に、その言葉が反射する。何か言葉を探しているらしい。もごもどと口を動かしている跡部を日吉は黙って待つ。否、黙ることしかできなかった。
俺も、お前がすきだった。ずっと、前から。
お前が俺の背中を追いかけてくることが、楽しくてたまらないだけだったのに、いつの間にか、それを俺だけのものにしたくなっていた。
……いや、本当は、気付いてた。それを、俺だけのものにできることを。気付いていたけど、俺は結局できなかった。そうだな、おまえの言うとおりだよ。
何がですか。
俺は酔ってる。酔ってるから、こんなことが言える。もう一生言うつもりのなかったことも、こうして言える。
すきだ、わかし。お前のことが。
ずっとずっと、すきだったんだ。
跡部は日吉の肩にかけていない方の手で日吉の唇をそっとなぞる。愛おしげに日吉を数秒眺めたが、そのまますっと視線をそらして彼は目を伏せた。再びすぅと寝息が聞こえてから跡部の横顔をうかがうと、長い睫は少し濡れているようにも見えた。
何故今自分はしょっぱいと感じているのか、理由は明白なのに、あえて気が付かないふりをした。
吐きだした自分の息も普段より酒臭かった。
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