霧深い山の中を、下駄を踏みしめて歩く。人影どころか野生の獣さえ見かけない。山の中となれば妖怪の気配があるのに、ここではそれさえもなかった。
それはこの強固な結界のせいだろう。白銀の糸のように見えるのは髪の毛を編み込んだ呪具だ。
鬼太郎はその糸に手を伸ばした。バチッと火花が散って手が弾かれる。
「っ……!」
火傷をしたような痛みと痺れに顔をしかめながら、もう一度手を伸ばす。今度は霊力を糸に流してその流れを読み取り、元を探す。
「ここだな」
鬼太郎は霊力を逆流させた。2つの力がぶつかって、糸が千切れ、地面へ落ちた。
ふう、と肩で息をして、鬼太郎は額の汗を拭う。そして再び山道を歩き出した。探し求めていたものが、結界を壊したおかげでよりはっきりと感じられる。
鬼太郎は山の奥へ奥へと進んでいく。
やがて、木々の開けた場所に出ると、粗末な小屋がポツンと建っていた。家のまわりにはささやかな畑があり、青々とした野菜が実っている。
鬼太郎がその場に立ちすくんでいると、中から人が出てきた。
着物を着た女だった。洗濯をするのか、衣類を入れた籠を抱えている。彼女はふと視線をこちらに向けた。
「……鬼太郎?」
青い目が見開かれる。驚き、そして喜びと罪悪感。そんなさまざまな感情に彩られた目だった。
「水木さん」
ーーー水木と父に再会したら、言ってやろうと思っていた数々の言葉が浮かんでは、消えていく。そして最後に残ったのは、陳腐な言葉だった。
「……お久しぶりです」
水木は呆然と鬼太郎を見つめていたが、やがて顔をくしゃっと歪ませた。
「大きくなったな」
あれから短くはない時間が流れた。
鬼太郎は背が伸び、今はもう水木のことを見下ろすほど大きくなってしまった。
変わったのは水木も同じだ。黒かった髪は白くなり、長く伸びていた。十数年前と見た目の変化もほとんどない。人間ではなくなっていることは明らかだった。
なにより、彼女の腹は大きく膨れていた。子を身籠っているのだろう。
お互いにお互いの知らない時間が流れ、何もかも変わってしまったのだ。
「狭い所だが、中で話そう」
水木はそう言って、鬼太郎を家の中へ招いた。
水木が茶を淹れてくれている間に、鬼太郎は部屋の中を見回した。ゲゲゲの森にある鬼太郎の家とほとんど同じ造りをしている。狭いがちゃぶ台の上には野の花が飾られ、部屋のすみには子どものものらしいおもちゃやぬいぐるみが転がっていた。
「ありがとうございます」
鬼太郎は湯飲みを受け取り、口をつける。水木はそんな鬼太郎の様子をじっと眺めていたが、やがて口を開いた。
「どうして、ここが分かった」
「ずっと前から探知してはいたんです。でも結界が強力すぎて通れなかった。何度か挑戦して、やっと破ることができました」
水木は目を伏せて、「そうか」と呟いた。
しばらくの間、二人とも黙っていた。
小屋はしんと静まり返り、時折風が木の葉を揺らす音だけが響いていた。
「鬼太郎……お前にはすまないと思ってる。俺はお前の差し伸べてくれた手を振り払っただけじゃなく、お前のたった一人の父親まで奪ってしまった」
水木は自分の大きくなった腹に手を置いて言った。
「ずっと謝りたかったんだ」
「謝らなければいけないのは僕の方です」
鬼太郎は頭を下げた。
「僕は父さんを止められなかった。水木さんはあの人と結婚して、人間として幸せになるはずだったのに」
水木は首を振った。
「お前は悪くないよ、俺がゲゲ郎のそばにいたかったんだ。全部捨ててもいい、ゲゲ郎がいればそれでいいって、思っちまった」
全部捨ててもいい、の全部の中には鬼太郎のことも含まれているのだろう。
あの時、穴ぐらの中で交わる二人を見て、鬼太郎は悟った。
この人たちは、二人で幸せな地獄へ落ちることを選んだのだ。そしてそこに鬼太郎は入り込むことができない。
ーーーああ、自分は捨てられたのだ、と。
数日後、結界をはったはずの穴ぐらは空になっていた。ゲゲ郎が鬼太郎に何も言わずに、水木を連れて出ていったのだ。
予感は確信にかわり、鬼太郎は一人ぼっちになった。
寂しかった。悲しかった。どうして自分も一緒に連れていってくれなかったのか。実の父も育ての親も、どちらも鬼太郎にとってはかけがえのない存在だったのに。
「もう二度とお前には会えないと思ってた。会わせる顔がないだろう。こんなことになって」
握りしめた拳が白く色を無くしている。水木は俯いて、顔を歪めていた。断罪をうける罪人のような顔だ。
「水木さん」
鬼太郎は彼女の名前を呼んだ。
「僕はあなたのことを恨んでここへ来たんじゃない。ここへ来たのは依頼があったからなんです」
「依頼?」
水木は目を瞬いた。鬼太郎は頷いた。
「ある人から、『自分の子を探してほしい』という依頼を受けました。結婚式の日に消えた娘を探してほしいと……自分が死ぬ前に」
水木は息を呑む。
「そんな、まさか……」
鬼太郎は懐から手紙を一通取り出した。妖怪ポストに入っていたものだ。差出人は今生の水木の母だった。
鬼太郎は手紙を水木に渡した。水木は震える手で手紙を開く。読みすすめるうちに、彼女の目に涙が浮かんだ。
結婚式の日に消えた娘を探してほしい、無事かどうか、生きているなら一目会いたい。手紙にはそう綴られている。
「水木さん、僕と来てくれませんか。あなたのお母さんはもうあまり長くありません」
水木は何度も何度も手紙を読み返すと、やがて手紙を鬼太郎へ差し出した。
「……すまない」
「水木さん」
「俺は行かない」
彼女はきっぱり言った。
「俺はゲゲ郎のそばにいると決めたんだ。あいつと、地獄へ落ちるって」
水木の目は、鬼太郎ではなく、どこか遠い場所を見つめていた。
「俺はもう、ゲゲ郎のいない人生なんて考えられないんだ」
そう言って笑った水木の顔は翳りをおびて美しかった。快活に笑う人だったのに、今はもう、鬼太郎の知る水木ではないのだろう。
「そうですか……」
鬼太郎は静かに頷いた。
カラン、コロン。
乾いた地面を蹴る下駄の音。二人が顔を上げて出入り口を振り返ると、ゲゲ郎がそこに立っていた。腕に小さな女の子を抱っこしている。
「かあさん、この人だあれ?ととにそっくり」
女の子は水木そっくりの可愛らしい顔をきょとんとさせて、ゲゲ郎の着物を引っ張った。
「……この人は、お前のお兄さんだよ」
水木は女の子に優しく語りかけた。
「おにいちゃん?」
「そうじゃよ。さあ花や、ととはこのお兄ちゃんと話がある。母さんに赤ん坊の服を見せながら待っといてくれ」
ゲゲ郎は女の子を下ろすと、その頭を優しく撫でた。
「うん!かあさん、みてみて、赤ちゃんの服をもらってきたんだよ」
花と呼ばれた女の子は、嬉しそうに母親の下へ駆けていく。ゲゲ郎はそんな娘の背中を見送ってから鬼太郎の方を向いた。
「さて、鬼太郎。少し話をしよう」
ゲゲ郎と鬼太郎は水木たちを家の中へ残し、外へ出た。
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