シノハラ
2024-10-30 20:21:21
2361文字
Public アルカヴェ♀
 

先輩が新居で暮らし始めたせいで送り狼概念が発生してしまうアルカヴェ♀

2023/12/21初出

 いっとき、で片付けるには長すぎる時間を一緒に暮らした相手だった。そんな人と酒場で会って近況を話して、お酒を飲んでいい具合に気持ちよく酔っ払って。一日の終わりとしてはなかなかに悪くない時間だった。
 ただ、彼を見つけた時間はそれなりに遅く、まだ飲み足りない頃にラストオーダーを迎えてしまった。最後にいくつか駆け込みで頼んでみたものの、やっぱりまだ少し足りないと思ってしまった。この辺でやめておくのがいいと主張するアルハイゼンの腕をカーヴェは勢いよく掴んで歩き出す。
 僕の家の方があそこより近い。そういえば、最近読んで面白かった本はあるかい、と続けて訊いてやれば溜息を一つ吐いたアルハイゼンがカーヴェも知っている学者の名を上げた。そらみたことか、君がこの程度で折れるなんて有り得ない。君だって物足りないんだろう、とのカーヴェの主張は完全に無視された。
 彼が持ち出した人物は学者ではあるのだけど、文才も持ち合わせているようでその知識が滲み出るようなエッセイを書くのだ。どうやら新刊が出たらしい。
 それからもう一つ別の本の内容を聞くうちに、新居と呼ぶのも相応しくなくなってきた我が家が視界に入る。とっぷりと深まる夜に合わせるように静まっているのは何もカーヴェの家ばかりではない。
 ――そんな所に自分は誰と帰ってきたんだっけ?
 思わず自身に問い合わせてから、答えそのものであるアルハイゼンを見る。彼はもう腕を引かれずともカーヴェに従って歩いていたが、カーヴェが向かう先を知っているわけではない。
 この子をこの先に連れていっていいんだっけ? そう重ねて問うてみてもやはり有益な答えはない。かつては二人で家に帰るなんて、少しも珍しい事態ではなかった。だって、あそこは二人の家だったから。でも、これから向かうのはカーヴェのための家でしかなく、そんな場所に今から向かう彼は一体なんと呼ぶべき男だったろうか。
「あの、さ、これって」
 自分達が向かうべき家を指で示して、玄関口までやってきて鍵を差し込んだ瞬間ようやく適切かもしれない答えに思い至る。うん、と相槌でカーヴェに先を促すアルハイゼンが鍵を握ったまま動けなくなっているカーヴェの手に自らの手のひらを合わせた。
 人に触れられるのを意識するなんていつぶりの事かも分からなくて、うなじあたりまで一気にぞわぞわした感触が登ってくる。でも多分、嫌な感覚ではなかった。
 ゆっくりと鍵を回させられて、鍵をカーヴェの手の内に収めさせたアルハイゼンが玄関戸のノブを回す。街灯がなんとか照らしている玄関はいつも見ているもののはずなのに、全く違うものに見えた。
 いや、もしかしたら本当に知らないのかもしれない。少なくとも、カーヴェはアルハイゼンが戸を開けた瞬間の、この家の姿を今まで知らなかったのだ。
 彼はこの家の家主ではなく、カーヴェはもはや彼の家の居候ではない。時間は深夜で、カーヴェは女で、アルハイゼンは男である。かつて懇意にしていた先輩後輩の間柄で、少し前は家主と居候で、では今は。
 ふらりと上体が傾いで体を支えるように足を踏み出したが、アルハイゼンが背を押したわけではない。自身に落ちてくる彼の影にカーヴェが堪えかねて、家の中に一歩入り込んでしまっただけだ。彼の靴音が鳴らす音が変わり、外の石畳から木の床に足を付けたのが分かる。
 空気を押し込みつつ扉が静かに閉まるのを感じながら、アルハイゼンはちゃんと自宅の戸のメンテナンスをしているのかなんて場違いな事を考える。戸が閉まってしまえば廊下の窓から差し込む夜の灯りしか頼りにならず、早く明かりを灯さねばならないと思うのに腰の脇あたりに手を突かれてしまっては身を縮こまらせることしかできなかった。
「飲まないのかい?」
 きっとこれが最後の機会だ。そう理解しながらも、はっきりとした拒否は選べないままにカーヴェはアルハイゼンに問いかける。そうすれば腰回りに手が這って、情けない声を上げる間にくるりと身を返されてアルハイゼンと向かい合わせにされた。ちょうど腰あたりの高さにある棚が尻に当たって、その固い感触にさえ過剰に反応してしまう。
「それは君が俺の勝手を許すかどうかによるな」
 耳元で囁く声は普段よりほんの少しだけ熱っぽく感じる。酒のせいにしても許される範囲の熱量だったが、それが自身に注がれている事実にカーヴェは耳まで熱くなるのが分かった。ここまで熱を集めてしまえば耳の輪郭まで真っ赤になっているのだろうが、溺れる程の酒量に至っていないために言い訳もできない。
 腰に添えられていた手がするりと持ち上げられて、カーヴェの口元から戸惑うような誘うような声が転がり落ちた。その声にアルハイゼンの手が止まって、顔を上げて欲しいと乞われる。望まれているだけなのに、まるで強制されているようにも感じられた。支配とも読み替えられるそれは、カーヴェの体の芯を震えさせる。困ったことに、その痺れも不快感からくるものではない。
「カーヴェ、君はどうしたい?」
 アルハイゼンが求めるままに顔を上げれば、カーヴェに自由の形をした何かが与えられる。それははたはたとカーヴェに落ちて、そのまま内側に滲んで更にカーヴェを縛った。心に食い込むその感触がくらくらとした、眩暈のような心地よさを与えてくる。
 ――僕がずっと足りないと思っていたのは何だっただろうか。
……君の好きにしてほしい」
 何をきっかけにしたのか、ともかく腰から力が抜けて、すとんと落ちそうになった体を抱き留められた。酒と、日中の汗と、彼がいつも使っている香水の名残りの香り。そういうものに包まれた瞬間、カーヴェはもう全部駄目になって自身を彼に差し出してしまっていた。