シノハラ
2024-10-30 20:16:56
5796文字
Public ヌヴィフリ
 

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2024/1/6初出 ヌヴィフリ

 人前で水に入らないでほしい。そうフリーナは強張った声で告げた。人間の少女の姿を取る水神の声は高く、細さがある。その声音にどうにか強制力を持たせようと声帯を広げる努力をしているのは分かるが、努力を評価する以上のものにはならないのが実際のところだ。
 もちろん、フォンテーヌ人もキミと同じく水に執着を持っている。泳ぎたがる者も多いし、キミみたいに水の中で長く過ごすのを好む者もいる。だって、フォンテーヌ人の傍らにはずっと海があった。たとえいつかこの国の名がフォンテーヌでなくなったとしても、この地と海を切り離すことはできない。この地に住まう者は最後の一瞬まで水と共にある。
 けれど、キミは違う。キミは水龍で、キミは水そのものだ。キミは水と共にあらねばならない。言葉にすれば僅かな差だと僕だって思う。でも、その差をフォンテーヌの民になるべく意識させないで欲しい。人々がそうキミを認識した瞬間、フォンテーヌ最高審判官ヌヴィレットは外からきた何かとなってしまう。
 それは事実ではないだろうか。フリーナの物言いに疑問を覚えて、ヌヴィレットは思わず彼女の話に口を挟んでしまう。水神の招きに応じてこの地位に就いてから、彼女の話を中断すると逆に長くなる傾向にあるとようやく学んだところだったのだが。
 しかし、想像に反してフリーナはそれはそうだ、とヌヴィレットの疑問を肯定した。水龍にもあるか怪しい彼女の逆鱗を擽って臍を曲げさせずに済んだらしい。
 その事実は揺るがないよ。でも、僕はキミにはフォンテーヌに、人の国に馴染んでほしいと思っている。それがいかに困難なことであったとしても。そう、彼女はノイズの混ざる発言をヌヴィレットに続けた。
 フォンテーヌは神の国では。そう素直に疑問を口にしながら、そうでなくてはならないと思う。そうでなかった国は方々に厄災を振りまきながら滅んだのだから。
 そりゃそうさ。と口にする前に酷く驚いたらしく、そっ、と口にしてから後の言葉を続けるまでしばらく時間が掛かってしまったようだった。けれど、その動揺は長くは続かない。
 たしかに少々失言めいた言い回しになってしまったね。もちろんフォンテーヌは水神、フォカロルスの国だ。けれど、その下にいるのは人だよ。神である僕が方針を示しても、人心がひとつ残らず綺麗に切り替わるわけじゃない。だから、僕らからも努力と言うのは必要だと思っている。そのためにも、キミにはなるべく人と違いがないように振る舞ってほしい。そうすればきっと、キミはこの国に受け入れられる。
 何のために、とは問わなかった。ヌヴィレットがこの国の要人として長く暮らし、その権力の行使に国民が疑問を思わなくなるように。人のように振る舞いながら、人とは異なる視点でどちらにも肩入れしない公平な審判を下すこと。フリーナはその果実としてこの国の安定を期待している。
 がたがたと揺れる馬車に乗りながら、フリーナはつらつらとそんな事を話したと思う。フリーナが用意した首都の住居から地位さえ気にしなければ少々長い散歩程度の場所に連れ出されたと思ったら、別邸を用意したのだと言う。
 今与えられている部屋にこれといって不満はなかったため、フリーナが何をこんなにも期待しているのかヌヴィレットには分からなかった。みすぼらしいわけではないが、決して豪奢でもない。水神として国の富をある程度自由にできるだろう彼女が心を躍らせるような代物とは到底思えなかった。
 休む場所などどこでも構いはしないのだがと伝えたものの、フリーナは少し笑って見せただけだった。僕にとってもキミにとっても、今見えている物は大きな問題じゃないんだ。そう、やはりどこかうずうずとした様子でヌヴィレットに告げる。
 フリーナは従者と共にヌヴィレットを家に押し込むと、部屋の作りなど一切説明しないまま部屋の奥の扉を開いた。中は石造りになっていて、ひやりと懐かしさを覚える空気が肌を撫でる。
 本命はここからだと扉の向こうにあった螺旋階段を灯りを手に先導するフリーナと共にくるくると下りていくうちに、どんどんとその気配は強まっていく。鼻先を擽るそれが土に滲む湿気などではないと心の底から確信した瞬間、フリーナの背を押しのけてしまわないように己に強く言い聞かせた覚えがある。
 幸いここは円を描く運動がなければすぐに体が引っかかってしまうような狭い螺旋階段だったわけだが、だからと言って不意打ちでこの国の神を石壁にめり込ませて良いわけではない。けれど、背後から伝わるはやる気持ちを察したのか、フリーナがちらりとヌヴィレットを見てあともう少しだからと苦笑した。
「さあ。ここだよ。まあ、キミの望むものとはほど遠いだろうけど」
 そんな事を、彼女は言っていた気がする。彼女の手元の明かりしかない空間だったが、ヌヴィレットにはさほど支障はない。
 地底湖だ。そう認識した時には彼女の脇を通り過ぎ、足場の終わりの一歩先に踏み出していた。ざぶんと音を立てて身を水に浸す直前にフリーナの悲鳴が響き渡ったが、もう元の場所に戻ろうとは思えない。だって水が。ここにはたっぷりの水がある。
「その服は安易に濡らしちゃ駄目だって言われているだろう!」
 扱いに気をつけないとすぐに染みになっちゃうんだよ! と悲鳴が続いたが、ならば上で着替えさせておくべきだったのではないかと思う。おそらく、フリーナは場所の紹介だけするつもりだったのだろうとは思う。思うがもうどうしようもない。
 とぷんと頭まで水に沈めれば、水圧に負けて髪飾りが外れて水面に浮かび上がる。それも水に濡らして良い奴なのかときっと同じくらい大きな声でフリーナは叫んだのだろうが、水が耳を塞いでいるため通りが悪くなっていた。
 今から陸に上げてやっても手遅れだろうと少しだけ迷ってから結論付けて、ヌヴィレットはああだこうだと騒いでいる水神を置いてそのまま潜ることにする。地底湖は天然の代物らしく、思ったよりもずっと深くまで続いていた。人工の光もすぐに届かなくなって、指先に底が触れてからくるりと反転して水面がある方向を見上げながら一つ瞬きをする。
 何も見えず、何も聞こえない。ただ静謐な水がそこにあった。大仰な服に染み入り肌を撫でる自分と同じ物質の感覚に、ヌヴィレットはゆるゆると息を吐き出す。そのまま肺の隅々まで水を満たして、そっと瞼を落とした。
 再び瞼を上げた時にはそれなりに時間が経っていたと思う。フォンテーヌという国に足を踏み入れてからずっと強張って警戒するように緊張していた部分が解ける心地よさにもう一度瞼を落とそうとして、水上に置き去りにしたフリーナを思い出した。
 さすがに放っておくわけにはいかないだろう。もしかしたらすでに見切りをつけて立ち去っているかもしれないが、挨拶の一つくらいと待たれていては少々困る。
「ヌヴィレット! もう上がって来ないんじゃないかと思ったじゃないか!」
 沈んできた分の距離を浮き上がり、かすかに音を立てて表面に顔を出した瞬間にフリーナが弾けるように姿勢を正してヌヴィレットに呼びかけた。それから慌てて座り込んでいたらしい足場から身を乗り出して、躊躇いなく水面に手を浸す。止める間もなく水が彼女の感情の断片を伝えてきて、ヌヴィレットは僅かながら目を見張ってしまったのではないかと思う。
 この神は水龍の能力の全てを知らないのか、知った上で対策の必要がないと感じているらしい。答えの片鱗を知りたくなって、ヌヴィレットはフリーナの白くて柔い苦労を知らぬ指先を自らの手に閉じ込める。
 それからぱちりぱちりと瞬きをする。しばらく吟味してからヌヴィレットには選別しきれない情報だと観念して彼女を見上げると、不思議そうにしているフリーナと目が合った。
 なるほど、この神は。
「私は水を介して一定の思考能力がある者の感情が読める」
――聞いてない!」
 ヌヴィレットの申告を彼女の脳が処理した瞬間、きゅっと瞳孔が縮まったのが見て取れた。次の瞬間には甲高い声で文句を言いながら、ヌヴィレットの手を振り解いて水面に引き上げられた手は彼女の胸元に押し付けられる。ヌヴィレットの服を濡らしてはいけないのであれば、フリーナのそれも同様なのではないだろうか。
「だから今言った。事後の申告になった点についてはすまない」
「僕の神の権能はキミ由来なんだから、その手のものを遮断するのは難しいよ!」
 きゃんきゃんと主張する内容を吟味して、道理に反するものでもないとヌヴィレットは結論を出した。神であれば何とでも対処できそうなものではなかろうかとは思ったものの、そう簡単なものではないらしい。
「君が案ずるようなことはない。私はその多くを識別して評価する能力を持たない」
「へ」
「感情は伝わってくる。ただ、私が知っている感情でなければそれが何なのかを私が理解することはできない。先ほど感じたものも……そうだな、達成感を覚えている程度にしか分かっていない」
 それだって、ほとんど現状と照らし合わせて判断しているに過ぎなかった。フリーナとってそう複雑でもないだろう感情も、ヌヴィレットにとっては未知の情報でしかないのだ。ヌヴィレットとフォンテーヌ人の差をフリーナは主張したが、自身とフリーナの間にも大きな差があることを痛感する。
 きっと自分達が完璧な相互理解を得ることなどないのだろう。精神の構造の差がその道程の途方もない障害となる。
「ならいいけどさ」
 フリーナが小さく安堵の息を吐いてから、しばらく考え込む仕草を見せる。それから達成感と言うのはちょっと違うかなあ、なんて彼女はぼやいた。
「今度からここは好きに使ってくれていいよ。これで少しでもキミの気が紛れると嬉しい」
 では一体何なのか。そうヌヴィレットが尋ねる前に、フリーナは立ち上がって膝についていたらしい土を払う。
「キミが応じてくれたとはいえ、きっとキミが想定していた以上に多くを縛ってしまった自覚はあるんだ。それでもこの国にキミが必要だと僕は思っているし、今更帰してもやれない」
 フリーナは真っ直ぐにヌヴィレットを見て、手放すつもりはないのだと告げた。ヌヴィレットがこの国から離れようと思えば、おそらく不可能ではないだろう。けれど、それは決して平和的な形では収まらないと、ヌヴィレットは覚悟しなければならないらしい。
「僕がキミを害するに値するものを今後キミがフォンテーヌで得られるといいな」
 俗世の​七執政。人々に祈りを捧げられる神である彼女もまた祈るのだ。その祈りの先に一体何があるのか、その頃のヌヴィレットには分からなかった。

    ※    ※    ※    ※

 今も彼女の祈りはどこに届くのか分からずにいる。五百年近く前からあるヌヴィレットの別邸は経年劣化によって何度か作り直されて、当時と変わらないのは地底湖のみである。そう言い切ってしまいたかったが、地底湖にもそれなりに変化は起きているのをヌヴィレットも承知している。不変など何一つない。それは神も龍も変わらないらしい。
 水神が欠けて日が浅いフォンテーヌにおいて、水龍が職務時間外とはいえパレ・メルモニアから離れている。褒められた話ではないだろうが、今のヌヴィレットにはこの静かに澄む、低温の泉が必要だったのだ。
 あの日のように水に沈み、瞼を落とすとフリーナの祈りを思い出す。今のヌヴィレットはあの思いがどこにも届かなくとも良かったのだと、ヌヴィレットが聞いているだけで良かったのだと知っている。
 彼女の祈りはここにあればいい。それに応えられるのは自分の他にいないのだから。
 それから遅れてもう一つ、彼女に吐いた嘘も思い出す。彼女を落ち着けるために告げた事実は今となっては真っ赤に色を変えてしまっていた。
 ヌヴィレットに課す不自由に対する罪悪感と、それを片手間で軽減しようと目論む自己への処罰感情。それを覆い隠すように溢れた安堵と、誰かに応えられた喜び。あの時の彼女はそういうものでできていた。その先に告げられた祈りが、口先三寸でなかったことをヌヴィレットは長い時間をかけて理解したのだ。
 この別邸を作る提案をしたのは誰だったのだろうか。今まではフリーナ自身か、彼女の数少ない側近が発案したものだと思っていた。そこに今回はフォカロルスも加えて考えようとして、すぐさま可能性の低さに思い当たる。
 フリーナがフォカロルスの案に従っただけであれば、第三者に向けた感情をヌヴィレットが受け取っているのが自然だろう。それに、この生物的な欲求を神性のみに自己を削り落とした者に理解できただろうか。フリーナの傍で彼女の苦しみに立ち会いながら、彼女がどこまで胸を痛められたのかヌヴィレットには分からない。
 ――いや、立案者の所在など、実のところ大きな問題ではないのだ。実行し、その結果を見たフリーナがヌヴィレットの全てである。
 フリーナ。そう、水の底で紡いだ呼び声はどこにも届かず、今私室に閉じこもるしかできない彼女を恐れさせることもない。
 きっとヌヴィレットを気にかける余裕など、本来はどこにもないはずなのだ。ヌヴィレットをフォンテーヌに迎え入れた頃も、今この瞬間も。それなのに、あの日の彼女はヌヴィレットに目をかけようとした。自身に注がれる祝福と祈りを、捧げられる思いをヌヴィレットはずっと覚えている。忘れられるはずもない。
 一瞬たりとも人に戻れぬはずのフリーナが、決して自身には与えられぬ自己に戻る瞬間をヌヴィレットにだけ寄こそうとした。手だてがある水龍を憎らしく感じても少しも不思議はなかったのに、それでも彼女は祝福と願いをヌヴィレットに捧げた。
 瞼を落としてとぷんと意識を沈める準備をする前に、この国のあり方を思う。彼女が口を滑らせた通り、フォンテーヌは最初から人の国だったのだ。神の物でも、龍のものでもない。
 この国を最後の瞬間まで守りたい、と捧げる先のない祈りをヌヴィレットは紡いだ。そう遠くもない未来に天命を迎えるはずの彼女とのえにしとこの国は同じ形をしているはずだった。