シノハラ
2024-10-30 20:11:06
2582文字
Public カヴェアル♀
 

本に勝てないと先輩は思ってるものの実のところいい勝負をしているという話 カヴェアル♀

2024/1/13初出

 セックスがしたい。まあ、人間であるからにはそういう日もある。アルハイゼンという恋人を得て、性行為のなんたるかを知ってしまったからにはなおさら。
 いつもならとっくの昔に眠っているはずの彼女から時間の感覚を奪い去って目の前の行為に耽溺させて、赤らむ頬の熱を指の背で掬い上げながらあやしてやりたい。平均よりも大きく、鍛えられているせいでしっかりした身体を縮め、足先の小指まできゅうきゅうと丸めて堪える姿が堪らなく好きだと思う。
 そんな抵抗とも取れる仕草を一つ一つ解けば、カーヴェの恋人はようやく理性を手放す決断をしてくれる。そうやってすっかり出来上がってしまえばくたりとシーツに沈むしかなるなるアルハイゼンを抱きしめて、重たいと文句を言われながら腹の中のうねりを味わいたい。そんなことを昼食を済ませた直後からずっと考えている。
 いつもなら夕食後に済ませてしまうシンクや風呂の掃除も日が出ているうちに終わらせて、食べるのに手間がかからない、いかにもアルハイゼンが好きそうな夕食も用意した。彼女の仕事はすでに終業していて、もう少しすれば帰ってきそうな時間だった。
 そうなるともう、どうやって彼女を誘うかしか考えられなくなってしまう。手には一応次の仕事で使おうと検討している螺鈿細工の本があるのだが、手に重みを伝えるだけの役目しか与えられていなかった。
 ストレートに誘ってもいいし、そっと身体を寄せて腰に触れた辺りでカーヴェの意図に気づかせてやってもいい。でもそうすると、彼女が乗り気でない場合は徹底的に無視されてしまうから、なんて考えているうちに扉が開く音がする。つい最近扉の蝶番にカーヴェが直々に油差しをしてやったので、ぎいぎいと不快な音をさせる事はない。
 さっきまでああだこうだと考えていた事が綺麗さっぱり頭から飛んでしまって、一刻も早く彼女に触れる事しか考えられなくなってしまった。全然待てない。彼女が腹ペコでなければ、夕食も後回しにしてしまいたいくらいに――
「アルハイゼン! おかえ……り」
「ただいま」
 だというのに、帰宅した彼女は近所の本屋の紙袋を携えていた。勢いよく立ち上がったはいいものの、無慈悲な事実と対面した瞬間に気持ちが萎むと共に挨拶の勢いもしおしおとなってしまう。
 終わった。今日の彼女はカーヴェなんかに構っている時間はどこにもない。
 きっとこれから彼女は居間を通り過ぎて書斎に行き、カーヴェが夕食の準備が済むまで購入した本を読み耽る事だろう。内容によってはカーヴェの文句もどこ吹く風で本を片手に食事をして、そのままカウチで本格的な読書を再開する。
 そうして、いつもの就寝時間ぎりぎりに間に合うまで読書を続け、風呂に入って温まったままの体を横たえて早々に就寝する。それが彼女が本を買ってきた日のルーチンである。その隙間にカーヴェが入り込める時間など存在しない。
「何冊買った?」
 儚い望みではあったもののそれでも何もせずに引き下がる気持ちにはなれなくて、カーヴェは紙袋の様子を探る。もしかしたら、薄めの雑誌の類でそれほど時間がかかるものではないかもしれないし。
「四冊」
「そっか……今日は豊作だな……
 そんな淡い望みをアルハイゼンはやすやすと打ち砕く。乱読家であるアルハイゼンはともすれば無味乾燥になってしまう速読の類には手を出してはいないが、そうでなくとも十二分どころでなく読書スピードは早い。とはいえ、四冊はちょっとどうしようもない。一日どころか数日は彼女に構ってもらえないのを覚悟した方がよさそうである。
 よくない。全然良くはないのだけれど。
「何か用事でも?」
 カーヴェがあまりにも消沈してしまったせいか、アルハイゼンがかすかに首を傾ける。しまった。
「いや、あるにはあるんだけど……
「聞くだけ聞いておく」
「その……君とセックスしたいなと思っていただけで」
 思わず視線を外してしまいながら白状すると、ちょうど瞬き一つ分くらいの沈黙の後になるほどとアルハイゼンが相槌を打つ。帰宅早々に振られる話題でないのは間違いなく、さしもの彼女も面喰ってしまったらしい。多分カーヴェの仕事の内容を見て意見を述べてほしいとか、家具の配置の話とかそういう話題だと思っていたのだろう。
「今日中に読み終わりたいのはその内の一冊だけだ」
……は?」
 まあそれだけだから、君は本を読んでおいで。そう口にしようとする前に、アルハイゼンが先手を取った。言葉を綴るために吸い込まれていた空気が間抜けな音を立てるためだけに浪費される。
「二十二時までには読み終わるだろう」
「え」
「それまで君が良い子にしていればいいよ」
 僕はいつだって良い子なんだが? なんて返事をする余裕もない。
 最後は少し柔らかい調子でアルハイゼンがカーヴェに言いつけて、カーヴェの返事など不要とばかりに書斎に引っ込んでしまった。居間に一人取り残されて、カーヴェはカウチの上でひっくり返ると背もたれに頭を打ちつける。が、その程度では全然、全く頭は落ち着いてくれない。
 二十二時。二十二時なんてそんな、彼女ならもうほとんど就寝時間のようなものではないか。元々そういう時間に浸食して、カーヴェのものにしてやりたいと思ってはいたのだけれど。それがまさか、アルハイゼンから差し出してもらえるなんて。
 それに、彼女は買ってきた本を一冊しか読まないでいてくれると言う。彼女の人生とは読書であると言っても過言ではない。論文や学術書からカーヴェからすればくだらないと唾棄する他ない書物とも呼び難い物まで、分け隔てなく彼女は目を通して自らの血肉として再構成する。他の事象は彼女にとってはおまけのようなものなのだ。たぶん。
 それを、彼女が最も貴ぶべき行為の一つを後回しにして、カーヴェの性欲に付き合ってやってもいいと彼女は言っているのだ。そう思ってくれるくらいに愛してもらえているのだと実感し、口元が上がってしまうのが分かる。アルハイゼンが書斎に引っ込んでくれて良かった。きっと今、カーヴェはだらしない顔をしてしまっているはずだ。
 ちなみに、彼女の好物が並ぶ食卓で夕飯をぺろりと平らげてから、読書に集中できないと彼女が零すのはこれからもう少し後の話である。