ちこと
2024-10-29 21:26:22
1957文字
Public poke小説・SS
 

ひとしずく

2022年12月に書いたサト+ピカのモノローグ短文です。中身は本編軸ですが、遥かなる青い空の放送後に書いたものでした。

 ぽろり。サトシの瞳からこぼれた涙のひとしずくを、ピカチュウのちいさな舌がぺろりと舐めとった。
「ぴかぴ」
 サトシの肩の上から首をのばし、頬に頬をすりよせてくれる。短い毛並みはすこしくすぐったくて、とてもやわらかくて、あたたかい。サトシは、自分の口もとが自然とほころぶのを感じた。
「ありがとな、ピカチュウ」
「ぴぃか」
 微笑んで見えるピカチュウの目もとは、しかしほんのりと翳っている。瞳を揺らし、サトシの顔を覗きこんでくる。サトシが浮かべている表情の奥のそのまたずっと奥、深い深い胸のなかに沈むものを、あやまたず見つけようとしてくれる。
 サトシが涙をこぼすとき、ピカチュウはよくこの顔をする。帽子のつばで目もとを隠そうとしても、ピカチュウは肩口にすばやく駆けあがるから、帽子に隠れた奥にあるものをあっというまに見つけてしまうのだ。そうして、サトシの心が揺れているのを見て、寄りそうように声をかけてくれる。
 サトシが涙をこぼすとき、ピカチュウは、あまり涙をこぼさない。
 嬉しいときは一緒に喜び、お腹が空けば同時に腹を鳴らすこともある。そんなサトシとピカチュウであっても、こういうタイミングはあまり合うことはない。旅の途中に食べものを切らしてしまっただとか、楽しみにしていたおやつがいつの間にか無くなっていたとか、そういうときに一緒に涙目になることはあるけれど。
 サトシの心が強く揺さぶられるとき、ピカチュウの瞳は毅然としている。そして、サトシの瞳が揺れるのを見て、ピカチュウの瞳はサトシとはちがう揺れかたをするのだ。
 いまもピカチュウはそうして、サトシの頬と心に寄りそおうとしてくれている。そのたびに、サトシは胸がぎゅうと苦しくなる。あたたかくて、それからどこか切ない。涙を流すことになった理由の気持ちと、ピカチュウがサトシを思いやってくれることに対して湧きあがる気持ちとが、ぐるぐると混ざっていく。ピカチュウがいてくれてよかったと、サトシはそう、心から思う。
 ピカチュウにもらっているだけのことを、サトシもピカチュウに返してやりたい。そう思うのに、ピカチュウときたら、サトシが知る限りではめったに涙をこぼさないのだ。
 やさしくて、かわいくて、格好良くて、それからとても強い。サトシの自慢の相棒は、サトシの心からこぼれるしずくを、そっと掬いとってくれる。
 肩口に手をのばすと、ピカチュウはぴんと立てていた耳を寝かせた。サトシの手が触れるより先に、目もとが早々にほころぶ。ありがとな、ともう一度言うかわりに、サトシはピカチュウの頭をそっと撫でた。


 ▼


 サトシが涙をこぼすとき、ピカチュウは自然とサトシの顔を見る。
 どうしたのだろう。なぜだろう。いま、どんな気持ちなのだろう。見逃さないように、ピカチュウはサトシの表情を、瞳をうかがう。涙の理由は、ピカチュウにわかるものもあれば、わからないままのものもあった。ピカチュウも一緒になって悲しんでいるときだってあった。それでもやはり、ピカチュウの瞳が潤むよりも、サトシの瞳から涙がこぼれることのほうが多いのだ。
 だから、なにひとつ取りこぼしたくなくて、ピカチュウはサトシの肩口へとのぼる。帽子の向こうに隠そうとするものの内側に、ピカチュウは難なく入りこめるから。
 ピカチュウはあまり涙をこぼさない、かもしれない。ケチャップを台無しにされてしまったときはべつとして、サトシが涙をこぼすときでも、ピカチュウの瞳はあまり潤まないときが多い。
 ただ、涙をこぼさないわけではない。もしかしたら、サトシは知らないかもしれない。
 からだじゅうからすべての涙が出てしまうかと思うくらいに、それでも絶えることなく、瞳から涙がこぼれつづけてしまう。頭のてっぺんから後ろ足の先っぽまで、全身を痛みと悲しみと喪失に震わせながら涙をこぼした思い出が、ピカチュウにはあった。
 ピカチュウよりもサトシのほうがよく泣くのに、サトシがこれまで流した涙をいくつか集めたくらいでは足りないほどの涙をピカチュウがこぼすときに限って、サトシは涙をこぼさない。そのときの気持ちを、ピカチュウがサトシと共有するすべが、その瞬間にはなかった。その気持ちは、ピカチュウだけの一方的なものだったからだ。
 サトシとすごしてきたたくさんの時間の、ほんのわずかな、まばたきほどの時間。たったそれだけの瞬間であっても、ピカチュウの目の前からサトシがいなくなってしまったら、ピカチュウは、ありったけの涙をこぼすしかなかった。
 あのときのような、胸がちぎれるような気持ちでなければいい。
 サトシの肩口にのぼり、こぼれた涙を掬うとき、ピカチュウは胸の奥のどこかで、そう思っている。