義理の母親から送られてきた仕立てのいいスーツを見上げる。ハンガーにゆらゆらと揺れているのは劫罰狐が手でちょっかいをかけているからだ。
「コラごう、これ高いんだからね。オーダーメイドだよオーダーメイド。フルだよ」
「おおだめいど?」
「俺の体格ぴったりに作ってあるってこと」
左右違う目がまたたく。よく分かっていない顔だ。まあいい。
鏡を見たらとてもではないが直視できるような顔ではないから、身支度をしなければ。ひどいクマだし二日剃っていない髭も伸びっぱなしだ。これで32歳とは思えない。
時計を見るとあと三十分で出なければ間に合わない。
物理的にも重い足を引きずって洗面所に向かった。じっと劫罰狐が菊司の背中を見つめていた。
「髭は剃れてもクマはどーしようもねぇので」
と、髭を剃りながらぶつくさ呟く。化粧――コンシーラーという手もあるが、あいにく手持ちはない。
手が止まる。
血が繋がっていないのにここまで育ててくれた。高い学費を出してくれた。天照に入ったことは今も根に持っているみたいだが、太いパイプができると思い上がっているのならそのまま騙されてくれていればいい。感謝はしているのだ。これでも。「くれぐれも、左足のことは隠し通しなさい」と、父と母は言っていた。無理だろうそんなもの。まだ完全に自分のものになっていない義足なのだから、足を引きずるのはどうしたって分かってしまう。「お相手は○○株式会社の次女です。必ずこのお見合いで」母親は目を吊り上げて、憎たらしいものを見るように菊司を眺めていた。「決めなさい。必ず。なんのためにあなたをこの清陵院家に迎え入れたと思っているんですか」皮張りのソファに彩られた爪をたてながら女は言った。睨んでいても、菊司のことなど眼中にない。菊司を見つめるその目は、清陵院家を更に巨大にすることしか見ていないのだろう。ああ、そうだろうとも。自分を施設から拾ったのは、〝そこそこできのいい人間を育てるため。〟そんなこと知っている。とっくの昔から。兄と姉よりも出来が悪くて、一般人より出来がいい。そんな都合のいい人形が、この菊司という男なのだろうから。もういい。もうどうだっていい。清陵院の家に感謝はしているが、こんなくだらない家などどうでもいい。胸中でそんなことを考えていたけれど、微塵も顔に出さない。この仮面をつくったのはあなたがたですよ。父さん、母さん。
絵に描いたようなメルセデスがレストランの門扉の前に停まる。助手席から転ばないように右足を地面に置いて、次に左足をゆっくり出して立ち上がる。次に父と母が降りてきた。
「しゃんとなさい」
「すみません」
母の叱責にぼそぼそ呟くと、父がきつく菊司を見据えた。へえへえ、ちゃんとしますよ、ちゃんと。あくまで心のなかで文句を言う。
レストランに入り、最上階までエレベーターで向かった。ガラス張りの透明な箱が、あっという間に地面が遠のいていった。
チン、と最上階をしらせるベルが鳴り、だだっ広い部屋に通される。相手はこちらに気付いたのか、優雅に視線をむけて会釈をした。そしてすぐに前を向く。黒い髪をゆったりと結い上げられている。ドレスを着た彼女の肌は白かった。
「どうも。今日はお時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ」
彼女のとなりに座っている男女は両親で間違いないだろうが、異様に若い。にこにこと機嫌が良さそうな顔で年をとった父と母を見ている。大方〝勝った〟とでも思っているのだろう。捻くれた考え方かもしれないが。
いすに座ると同時に、黒いスーツのボーイがワインをグラスにそそいだ。
「ええと、雪子さんと仰いましたね」
菊司が首を傾けると、「はい」と言った。聡明そうな女だった。
「清陵院……菊司さん」
「ええ。そうです」
くすりと女が笑った。おかしそうに。
「残菊や昨日迯にし酒の礼。本当にその通りね」
「……ええまあ。いき遅れというか、残りものというか」
雪子の両親がクスクスと哀れむように笑っている。
「晩秋まで……いや、冬まで咲いている菊、僕は好きですけど。しぶとくて」
母と父は気分を害したような顔をしたのを見た。一瞬だったが。
菊司、と名付けたのは施設長だ。もう亡くなってしまったけれど。ただ、この施設で一番優しくてえらい人がつけてくれた名前が菊司は誇らしかった。世界で一番いい名前だと思っている。たとえ時代遅れだと、いわゆる――ダサい名前だと笑われても。
だからこそ、菊司の名前を馬鹿にする人間は許せない。
白く、ぱりっとしたテーブルクロスを指先でトントンと軽く叩く。細く鋭い声で父が「やめなさい」と言った。
「僕、人の名前をバカにするヤツって男だろうが女だろうが刀神だろうが許せないんです」
笑顔のまま、囁く。雪子は解することもなく余裕そうに笑顔で返した。そして、ただこう言った。「刀神?」と。
「天照峰柄衆勤務、弐段清陵院菊司。あなたがたの命を守っている男です」
目の前の三人はかすかに顔を歪ませた。それを見ながら目の前のワインを掴み取ってあおる。
「刀遣い? 聞いていないですよ清陵院さん」
若い顔の男が眉根にしわを作った。父と母を見ると無理やり笑顔をつくって「ええ」と震える声で呟いた。
「辞めさせるつもりですので。ご心配なく」
「辞めないですよ。僕」
机に肘をついてくすりと笑ってみせる。
「死んでも辞めてなんかやらない。天照が僕の居場所なんですから。泥臭くてかっこ悪くて、血塗れで汚くて。あなたがたにとってはそういう所なんでしょう」
「……嘘を吐いたというのですか清陵院さん」
「そんなことは! 菊司、撤回しなさい!」
「嫌だね。あなたがたが毛嫌いする天照がどれだけ一般人を守って死んで行ったと思うんですか。死にたくないと言いながら死んでいった人もいた。家族を持った人だっていた。子どもを遺して死んだ人もいた。嫌われたってなに言われたって刀遣いと刀神はあんたたちを守るために戦うんです。命を賭して。金持ちだろうが貧乏だろうが、僕達の前では命は平等なんだ。金持ちのあんたらでも、貧乏な施設の子どもたちでも。誰でも平等だ。命は平等なんだよ。不平等なのは生き方だけだ」
「ずいぶん、きれい事を当たり前のように仰ること」
雪子は値踏みするように菊司を見上げている。煽っているのか何なのか。ふっと吐息だけで笑う。やはり自分含め性格が悪い人間の周りには、性格の悪い人間が集まるらしい。
「これが僕の、僕が選んだ生き方です。……それに僕、ゲイなんです」
「なッ!」
これには五人も唖然としたようだった。
まあ、嘘だけど。――いや、嘘じゃないかもしれないけど。
「……そうと知っていて我々を騙していたんですか。おい、行くぞ。こんな男と一緒になる必要はない!」
「すみませぇん」
くつくつと笑い、肩を怒らせてエレベーターに入っていく三人を見送った。
呆然としたままだった父と母は、ようやく菊司を見上げる。鬼のような顔だった。
「どういうことだ……お前……」
「どういうことって、そういうことです。僕、好きな人がいるので」
「なんだと! だったらなぜ言わなかった!」
「だって、言ってもあなたたちお見合いさせたでしょ。それに言いましたよ僕。母さんに。お見合いしたくないです、って」
父が母を睨みつけた。母の顔が青ざめる。母が見合いを決行させたのは、菊司が施設に金を振り込んでいることを知ったからだ。見合いをしないと施設がどうなるか――だ、そうだ。それくらいの力は母にもある。だが、一応見合いはしたのだから約束は守った。
「連れてこい! そいつは一体どこの……」
「嫌でーす。言ったでしょ、僕ゲイだって。あの子、あなたたちの目なんか容易くかいくぐるよ。どんな権力振りかざしたって、あの子は掴まらない。絶対にね」
「……お前……なんてことをしてくれたんだ……」
「それじゃ、失礼しまーす。母さんが釘を刺したことも守ったからね。左足のこと。さすがに性癖のことまでは言われていなかったし」
「菊司ッ!!」
そのままエレベーターに乗り込み、下まで降りる。
そしてそうか、やっぱりそうだったのかとぼんやり考えた。
自分は定之のことが好きだったのだ。どうしようもないくらいに。ここまできたら後戻りはできない。清陵院から除籍されても仕方のないことをしたのだから。そうなったらそうなったで身軽になる。家がどうなるかは分からないけれど。
家に一泡吹かせてやった。心は自分でも驚くほどに軽やかだ。
清陵院の家は刀遣いの一族ではない。それだけは幸運だった。レストランから出ると、空はまだ真っ青だった。大きく呼吸をして、「アハハハ」と笑ってみせた。奇妙なものを見るような目で通りすがる人びと。関係ない。今はちょっとだけいい気分なんだ。すこしくらい許してほしい。
「あるじ、おみあい……とやらはどうなったのだ」
「あーね。おじゃんだよ全部。向こうから断ったんだから、くだんねぇプライドは守られたんじゃない」
「ぷらいど……誇りのことか」
「そそ。ごうも賢くなってるねぇ」
「かしこい」
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