ひとりで過ごすことはきらいではなかった。何をするのも、どこに行くかも、自分自身で決めて選びとる。その身軽さと真っ直ぐさが、ピチューの、ピカチュウの性に合っていたのだろう。
何をするのも、どこに行くかも、――誰とともにいるのかも。
ピカチュウはいつでも、自分自身で選びとり、そして後悔はしないのだ。
窓の外を白片が舞う。ふ、とついた息が白く、それでサトシは、窓の向こうを染めるものがなにかを悟った。
クチバにも雪が降るのだとはじめて知る。街なかが白に染まる景色を見るのは久しぶりで、だからいっそう不思議な感覚がした。すでに日常になっていた風景が異界に転じたようで、胸が高鳴る。息を吸った瞬間、左肩に重みを感じた。
「――ピカチュウ」
「ぴーか」
「雪だ。すごいな。クチバシティにもこんなに降るんだ」
ベッドから降り、手のひらを窓にひたりとつける。肩に乗った相棒は、そのちいさな鼻をガラスにくっつけた。
「ぴっ」
驚いたように身を引くので、サトシは思わず笑った。「冷たいから気をつけろよ」と、黒い鼻の先っぽを指で撫でてやる。湿ったそれは一瞬だけ冷たく、すぐに温かくなった。
「ちゃあ」
ふにゃりとした笑みは心地よさそうで、サトシの頬も自然と緩む。また窓に目を向けると、ピカチュウも同じ動きをしたのがわかった。外にはまだ、昨夜の名残のような暗さが残っているから、こちらの姿がわずかにガラスに映って見える。ふいに訪れた寒さにつられてか、夜明け前に目が覚めてしまったのだった。
「ゴウとヒバニー、まだ寝てるよなぁ」
「ぴかちゅ」
外はいちめんの雪景色と言ってさしつかえなかった。だれにも踏み荒らされる前の真っ白な地面は、とびきり上等なケーキを想像させる。どこもかしこもまっさらに白いから、夜明け前でもわずかな光を反射して明るかった。胸の高鳴りは止むことがない。できればみんなで共有したいところだったが、こんな夜更けに起こすのはさすがに気が引けた。
肩口を見る。こちらを向いた相棒と、ぴたりと目が合った。
「――ちょっとだけ、な」
「ぴかちゅ」
にし、と歯を見せて笑いあって、わずかに開けたドアからそっと滑り出た。
アローラはいつも暑いほどだから、雪景色とはほとんど無縁だった。地面が白く染まるのは、唯一、もっとも空に近いラナキラマウンテンだけだ。山の斜面を覆う雪はあっても、街並みがすっぽりと白を被るような景色はとんと見ることがなかった。だから、この景色を久しぶりに感じるのだろう。
玄関の扉をゆっくりと開け、ポーチに出る。この日最初の足跡を、真っ白な地面にふかりとつけた。そこから見る街並みは、すでに馴染みあるものになっていたはずだったが、今日はまるで別の街のように見えた。後ろを仰げば、サクラギ研究所は見事なほどに白く染まっている。
ひゅうと寒気が肌を撫でた。
「さむっ」
「ぴぃかぁ」
ほとんど寝間着のまま、いつものジャケットだけを羽織って出てきたのは明らかに失敗なのだった。肩口でピカチュウも毛並みを膨らませ、体をぎゅっと縮こまらせる。
「おいで」
左肩からすくいとって、胸のなかに抱く。はたと思いついて、ピカチュウを覆うようにジャケットを閉じ、チャックを中ほどまでひっぱりあげた。ちょうどポケットのようになって、ピカチュウはすっぽりとおさまる。ピカチュウの背中とサトシの胸がくっついて、お互いにぽかぽかと温かい。
「ちゃー」
満足げな声が聞けたので、サトシもうんと頷いた。両腕で、ジャケットの下から抱え上げるように支えれば、いっそう安定するし温かくなった。
「なんか」
「ぴ?」
「ガルーラみたいだなぁ」
サトシのジャケットはいま、ピカチュウを包むポケットだ。そうしてみると、あのおやこポケモンを彷彿とさせた。
その呟きを聞きとめてかこちらを見上げたピカチュウは、ぱちくり、と大きく瞬いた。茶色の瞳のなかの光が、白銀を反射してぴかぴかとまぶしい。
「ぴーか?」
ことん、首をかしげた。
「あれ」
伝わらなかったかな。
そんなこともあるだろう。ピカチュウはいつだってサトシとともに在って、サトシの心に寄りそってくれる。おなかがすいたなと思ってピカチュウを見れば、ピカチュウもおんなじ顔をしていることだってある。だからといって、心を透かすようにすべてが通じているわけでもない。それでいいのだった。
サトシがくすりと笑みを漏らすと、ピカチュウはぴくんと耳を立て、それから目線を前に向けた。じっと雪景色を見つめている。その視線をたどるように、サトシも前へと目をやった。
建物の向こうの空は、闇から紫へと、朝焼けの色に染まりはじめていた。クチバの街はそれでもなお、雪に守られるように、まだ眠りについている。
――ガルーラみたいだな。
そう呟いたサトシがなにを伝えたいのか、実のところ、ピカチュウはきちんとわかっていた。旅の途中で何度も出会い、目にしたポケモンの名前。大きくたくましいおやと、おやのおなかの袋のなかで温かく守られるこども。二体は必ずともにいる。おなかの袋はポケットに似ていた。だからサトシは連想したのだろう。
けれどもピカチュウは頷かなかった。サトシの伝えたいことに同意しかねたので。
なぜならば、ぜんぜん違うのだ。だいいち、サトシのつくるポケットは、布の肌触りがざらざらするうえ、チャックの部分が冷えてつめたい。おまけに、ピカチュウひとりを抱いただけでぎゅうぎゅうで、身動きはとてもできそうになかった。
仕方がないのだ。――サトシは知らないのだから。
そんなことに気がついて、ピカチュウはふいに懐かしいことを思い出した。
――けして広くはないけれど、居心地よく、やわらかく、温かい。いつでもいい匂いがして、ほっと心が安らいでいく。いつもとなりにはあの仔がいて、そして「おかあさん」に包まれている。
ピカチュウはそれをようく知っていたが、サトシは知らない。ピカチュウがまだピチューだった頃、長く過ごした日常の景色を、サトシはひとつたりとも見ていないのだった。
「ピカチュウ?」
サトシの声が静かに降る。ピカチュウはそれに応えず、雪の降りつもる景色を眺めた。ピカチュウの目線を追うように、サトシも前の景色に目を向けるのが気配でわかった。
しばしの沈黙がおりる。すうと息を吸いこむと、澄みきって痛いほどの空気が鼻腔を通った。はあ、というわずかな音とともに、頭の上のあたりがほんのり温かくなる。サトシも同じように息を吸って吐いたのだ。
そうやってただ自然のつくる光景を眺める時間は、このあいだまで過ごしたアローラの日々をも思い起こさせた。こんなふうにして、何度も景色を見たのだ。たくさんの地方で。サトシのとなりで。
あのやさしい、ガルーラのおやこと別れることも、ピチューだったピカチュウは自分自身で選びとった。その決意の背中を押すように、幼かったピチューを光が包み、立派なピカチュウへと進化を遂げさせたのかもしれなかった。
別れの夜は身を裂くようにつらかったけれど、大好きなふたりのことを想うと、これしかないのだと思えた。自分で決めたことなので、ピカチュウが後悔することはなかった。大きなものを乗り越えてうまれた新しい笑顔は、ピカチュウをひとつ強くさせた。
そうしてピカチュウは、サトシと出会う。強引に決められた出会いはピカチュウの望むところではなかった。だけどピカチュウは、また選んだ。大雨のなかで、自分がどうするか。
モンスターボールに入れ、とサトシは言った。だけどピカチュウは、入らないことを選んだ。自分で決めた。自分で決めたから、全身に力をこめた。サトシの背を駆けあがり、肩口を蹴って、大雨を吹き飛ばすほどの力を放つ。そうしてピカチュウはサトシの親友になった。
そんなふうにして、実のところ、ピカチュウは何度も自分自身で選びとってきたのだった。ピカチュウはもう、心の奥底から決めている。相棒と、親友と想う相手と、ずっと一緒にいることを。
そうして選びとってきたから、今朝もこうして、一緒に雪降る白銀の街を眺めている。
サトシのポケットは、ガルーラのそれに似ても似つかない。だけども間違いなく温かかった。身動きひとつ取れずとも、お互いにぴたりとくっついて、息がかかるほどのそばにいて、ときおり、頬をすり寄せあう。
「ぴかぴ」
見上げて、そっと呼ぶと、サトシはやわらかく笑んだ。
先ほどの、ピカチュウに伝わっていないと感じたことなど、もう気にしていないのだろう。ピカチュウが大好きでしかたないのだとよくわかるような微笑みで、「うん」と頷いてくる。
だからピカチュウも、サトシへの気持ちを溢れさせるように、
「ぴかちゅ!」
と、ひとつ鳴いた。
まっさらな白が世界を覆う、静かで、やさしい明け方のことだった。
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