【カブミス】さよならと雪の日

雪の日の夜遅くにミスルンを訪ねるカブルーと、そんなカブルーを雪の中で待っているミスルンの話。

 さよならが終わりでないことを教えてくれたのはあなただった。
 他でもないあなただったんです。
 
 
 秋が終わり、メリニにも冬が来た。雪が心身と降り積もり、春はまだ遠く、その姿の欠片すら見せていない。
 宰相補佐に与えられる執務室の暖炉にも火が灯され、俺はそこにくべられた木がたてるぱちぱちとした音を聞きながら、羊皮紙に羽根ペンを走らせる。いつまで経っても仕事は終わらない。きっとヤアドが認めてくれたのだろう、俺に与えられた書類は多く、このままでは今日は帰れそうになかった。
 俺はそんなことをぼんやりと考えながら、暖炉の中の、ゆらめく炎を見つめる。そして愛しい人のことを思い出す。彼の寝室にも小さな暖炉があって、俺たちはそこに火が灯されるのを眺めながらよく話をした。俺は仕事中に起きたアクシデントや、少し笑える話を、彼は打ち捨てられた迷宮に潜って起こった出来事や、そこでフレキとしたやり取りなどを。俺たちはお互いが不在の間のことを語り合って、それぞれがいなかった頃の寂しさを埋めた。その象徴が穏やかな火の明かりだった。
 それにしても、仕事は山のようだ。信頼されるのは嬉しいが、こんなに仕事に囲まれては、休憩も満足にできない。別にそれはつらくはない。真実つらいのは、思うようにあの人に会えないことだ。ミスルンさんに会いたい。昨日さよならしたばかりなのに、もうあの人に会いたかった。俺は心の中では子どもみたいにぐずっていて、会いたい、会いたいとぐずっていて、愛しい人との逢瀬を望んでいるのだ。
 そんなことをぼんやりと考えていた時、俺は突然ヤアドに呼び出された。何事かと思えば、大雪で遅れていた他国の大使との会議の開始時刻が、ようやく決まったのだという。俺は慌てて資料を用意し、彼の補佐にあたる。今回は貿易交渉が主で、それはこの国にとって大切な事柄だった。少しも気は抜けない。あの人に会いたいとか、そんなことは考えてはいられない。そう分かっているのに、俺はいつまでも恋しい人のことを考えていた。仕事に集中するふりをしながら、ずっとあの人のことを考えていた。
 
 
 会議が終わる頃には、あたりは薄暗くなっていた。時刻から言えば夕暮れ時だが、その光は国を覆う雲で見えない。空を覆う雲ははらはらと雪を降らせている。温暖なメリニにも、寒い冬がやってきたのだ。そう改めて思わされる。
 俺は冷え切った水で喉を潤わせ、窓を開けて冷たいが新鮮な空気を吸う。暖炉がぱちぱちと音をたてる。風が吹いて、花びらみたいな雪が舞い込む。春の花が散るように、それは執務室を白く染めようとする。
 窓からは、農民たちの小さな家が見える。雪が等しく降り積もるその家々にもきっと暖炉はあって、みんなかじかむ手をその前でさすっているのだろう。雪が降っている間、彼らの多くは木彫りの置物や、それぞれの人種が持つ伝統衣装を編む。けれど冬の間に彼らに与える新たな仕事を考えるのは、俺に与えられた急務だった。国民が少しでも裕福に暮らせるように、彼らに仕事を作り出すのが俺の急務だった。
(一体何がいいのかな……。ウィスキーでも作るか? いや、まだ食料自給率がそんなに高くないんだから駄目だな。それに手間がかかりすぎる。その手はもっと先だ)
 そんなことを考えながら外を眺めていると、頭に雪が降り積もって、身体もいつの間にか冷えていた。そろそろ仕事に戻らなくちゃならない。ミスルンさんの家も訪ねたいけれど、それはまだ先だ。このままじゃ夜遅くになってしまうかもしれない。あの人と長くともにいられないことは寂しいけれど、ひとときでも一緒にいられて、俺は喜ぶべきなんだろう。でも本音を言うと、もっと長くあの人と一緒にいたかった。朝別れを告げる時の悲しみを持ち越したくなかった。まぁ、そのおかげで再会した時の喜びは、信じられないくらい強いものなのだけれども。
 俺は窓を閉め、安楽椅子に座って、少しだけ目をつむって暖炉の前で休憩する。
 あなたがいなきゃ息も出来ないって思っていたのにな。
 うたた寝をしても、悪夢にうなされるって思っていたのにな。
 なのに今の俺の心は凪いでいて、彼にさよならを言った時から、俺はミスルンさんのいない日常に一人で戻っていた。それは寂しいことだったけれど、さよならを言っても、それが真実の別れじゃないってことも、俺は知っていた。それは他でもない彼に教えられたことだった。だから俺は彼に会うためにも仕事に戻るのだ。彼がこの国でよりよく暮らしていけるように、多人種が分け隔てなく暮らせるように、少しでも多くの人々が、惑わず生きていけるように。
 
 
 結局、馬車を走らせることができたのは、日付が変わりそうな頃合いだった。一応は文を飛ばしたけれど、ミスルンさんに伝わったかどうかは分からない。もう眠っているかもしれないし、扉は固く閉じられているかもしれない。でも、俺はそれでも彼の側に行きたかった。彼が眠っているのなら、外からおやすみなさいを言いたかった。
 あれほど執務室では凪いでいた心は急いて、俺も現金だなあって思う。確かに俺は望めばあの愛しい人に会えるだろう。それでも、明日の朝、いや、ほんの数時間後には俺はミスルンさんにさよならを言わなくちゃならない。それが終わりでないことは知っていても、やっぱり寂しかった。
「そろそろ着きますよ。いつお迎えに上がりましょう」
 冬の装いをした馭者が窓を開き、ランプを掲げて俺に尋ねる。俺は朝早くの時刻を彼に伝えて、もしミスルンさんが俺を受け入れてくれなかったら、あの庭で冷たくならなきゃいけないな、なんて馬鹿らしいことを思った。
 もうすぐ、ミスルンさんの屋敷が見える。俺は馬車のカーテンを開け、それを眺める。するとなんてことだろう、屋敷の前には薄着のままのミスルンさんがいて、彼は雪に降られながらも、遠くからランプ片手に俺が乗る馬車を見つめているではないか。
 俺は馭者に、ここでいいとすんでのところで言って、慌てて馬車の扉を開く。馭者はわかりました、と、馬を止める。俺は足を雪に覆われた土地におろし、そしてミスルンさんに向かって駆けて行く。
「ミスルンさん!」
 あたりに積もった雪が、俺の声を吸収してしまって、それは果たして彼に届いたかどうかは分からなかった。ランプの明かりは小さくて、何も持たない俺には彼の表情は見えなかった。でもそれでも、俺は愛しい人が出迎えてくれたことが嬉しくて、いつの間にかミスルンさんの元に駆け寄っていた。
「どうした? 疲れたのか? 足がふらついてる」
「雪に足を取られたからですよ。ミスルンさんこそ、髪が雪まみれだ。いつから俺を待ってたんです?」
 俺は灰色がかった、彼の銀色の髪から雪を払う。すると彼は猫や犬みたいにふるふると頭を振って、自分にかかった雪を振り落とした。でも、それでも肩や胸元には、真っ白な花びらみたいな雪は積もっていたけれど。
「早く家に入りましょう。あぁ、でもその前に」
「その前に?」
「ただいまのキスをさせてください」
 俺はそう言って、彼の冷たい肩を抱きしめる。そうして空から落ちる、花びらみたいな雪の中で、俺たちは口付けをする。二人を照らすのは、ミスルンさんが持ったランプだけだ。それも油が切れかかっていて、不規則にゆらめいていた。だからこそあたりの冬の花々は宝石をばら撒いたようにきらめき、目に褒美をもたらしたのだけれども。
「最近毎日あなたに会えて嬉しいな」
「お前が懲りずに会いに来るからだろう? 仕事が忙しいくせに」
「だって、あなたがいなきゃ生きてる心地がしないんだ……
 俺はまた、ミスルンさんに口付ける。すると彼は「熱烈な告白をありがとう、カブルー」って、初めて今夜、いや、日付が変わった日に俺の名を呼んでくれて、俺は心からはしゃぎそうになってしまった。
 ミスルンさんは笑っている。それは雪の花がゆらめいてほころぶようで、俺は胸が少しだけ苦しくなった。この人に会いたかった、何をおいてでも会いたかった。そして今それは叶った。
 雪が降る。俺たちはその中、ミスルンさんの屋敷に入る。中からは懐かしいこの人の匂いと、精油の香りがした。そういえば、俺はまだ風呂にも入っていない。俺はそれを少し恥じて、でももう我慢できそうにない、と、彼の腕を引いて廊下を歩く。暖かな寝室に向かって、ミスルンさんに確かめもしないで。
 さよならは別れの言葉だ。でも、それですべてが終わるのじゃない。それを教えてくれたこの人に、俺は何もかも捧げたかった。雪が降るこの日に、芯から温めあいたかった。睦言を交わして、そして何も分からなくなるまで、俺はこの人を強く抱きしめていたかった。