千代里
2024-10-29 12:48:17
13177文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その6


「他に怪我をしている人、いませんか!?」
普段は使い慣れない声帯の奥の奥までを使い、オデットは声を張り上げて周りにいる人々に呼びかける。
点々と建てられた仮設のテントや天幕からは、時折苦しそうな呻き声や「いてて」と痛みを口にする人の声が聞こえる。そんな人の元に駆けつけ、許可をもらい、時には問答無用で治癒魔法をかける。それが、今のオデットの仕事だ。
果たして、今の自分は何人の傷を塞いだのだろうか。少なくとも、時折眩暈を覚える程度には魔力を使ったはずだ。
それでも、今はまだ数が少なくなっている方だ。他にいませんかと呼びかけられる程度には、治療を待つ負傷者の声は減ってきているーーはずである。
終わりが見えなくて途方に暮れそうになるが、挫けてなるものかとオデットは己を奮い立たせ、かぶりを振る。
……ゲルダさん。エーテル回復用の薬は、まだありますか」
「うん。これのことだよね」
「はい。ありがとうございます」
横から渡された橙色の液体が入った瓶を受け取り、流れ作業のように礼を口にするーーが、流石に手伝いとして付き添ってくれている相手にこの態度は失礼かと、オデットは傍にいる少女に顔を向ける。
真紅の瞳に、白銀の髪。大丈夫だろうかとこちらを見やる瞳は、周りの物々しさもあって不安に揺れている。
この状況なら無理もない。そう思いながらも、自身とて同様の不安はある。ただ、自分は傷を治すものとして不安を顔に出さないように注意しているだけだ。
「次、行きましょう。包帯や治療用の錬金薬はまだありますか」
「うん。半分くらいは残ってるよ」
「わかりました。では、それを持ってついてきてください」
今、ここにノエはいない。頼りになる大人は一人もいない。
だからこそ、自分がしっかりしなければ。
オデットは表情を引き締め、顔を上げた。

**

異端者と行動を共にしていた上に、実は竜に育てられたらしいという、かなり特殊な生い立ちを持つ娘ーーゲルダを同行者に含めた一行は、目標としていた街に向かい、チョコボを走らせていた。
街が近づけば街道も整備され、だだっ広い雪原が続くばかりだった光景にも石畳が姿を見せ始めた。
雪を溶かす錬金薬がかけられているおかげで、周囲のように分厚い雪に覆われていることもなく、チョコボでも走りやすい道がしばらく続いた。道中にはノエたちと同じような旅人や小規模な商隊を見かけるようになり、街の接近を予感させた。
これなら、街に着くまで二日三日とかからないだろう。久々に宿を取ってゆっくりと体を休められると皆が期待と喜びに胸を弾ませていた。
しかし、運命の女神はここで不運の糸を紡いで見せた。
「ここの街道は、一昨日から通行止めにしてるんだ。そこの峠に凶暴な魔物が出没して、大きな商隊が襲われるって事件があってな。やつが姿を消すまで人を通すなって、近くの街のお偉いさんからお達しがあったんだよ」
街道の管理人でもあり、街道沿いの宿の支配人でもある男が言うには、余計な負傷者を増やさないための予防措置であると言うことだった。
ご丁寧にも通り道である街道を横断するように立てた即席の柵には、明らかに昨日作られたと思える『街道封鎖中』の看板がかけられている。
道の途中に屯しているチョコボ車の団体を見た時から嫌な予感はしていたが、支配人の言葉以上に状況は悲惨だった。
一魔物の襲撃により被害を受けた商隊の面々は、傷の治療もろくにされずに宿の寝台に横たえていた。意識がある負傷者は宿に入ることができず、外に作った野営用のテントの中に押し込まれているという有様だ。
その規模から察するに、個人で切り盛りしている商隊ではなく、騎士団や領主お抱えのような公的な後ろ盾を持つ商隊なのだろう。しかし、そのような大規模な商隊につきものの護衛の傭兵たちの姿はなく、彼らがどのような末路を辿ったかを言外に示していた。
「討伐隊はまだ来ないのか」
「昨日、街に伝令を出したんじゃなかったのか」
「あの街に駐留してる連中じゃなあ……
宿はすでに負傷者で満室であり、通行止めによってあぶれた商人や旅人たちは声を潜めて不穏な噂を交わし合っていた。
「なあ、もしかしてその魔物、こっちに来るんじゃないか」
「冗談じゃない! それなら今すぐここを離れよう」
「でも、どこに行くんだよ。あの街で補給するつもりだったから、水も食糧も大して残ってないんだぞ」
途方に暮れる商人や旅人たちは、そこではたと気がついた。
たしか、今朝訪れたばかりの、武器を携えた戦う術を持つ旅人たちがいなかっただろうか。自分たちは戦う力を持っていないが、その力があるものなら魔物を退けられるかもしれない。
「なあ、あんたたち! その身なりからして、魔物と戦う心得があるんだろ。街道に出る魔物とやらを、あんたたちでやっつけてきてくれないか」
彼らがノエたちに白羽の矢を立てるのに、さほど時間は必要なかった。
街道の整備や付近に出没する魔物の掃討は、この領地の領主または地方を巡回しているイシュガルド正教の派生組織である騎士団が行うことだ。
領主から直に頼まれるか、少なくとも騎士団が傭兵として雇うという契約を持ちかけてきたならいざ知らず、一介の商人の口約束の頼み事など、ノエたちにとっては引き受ける方がリスクが高いーーはずなのだが。
……ここで待っていても、宿を襲いに来る魔物と戦うことになるかもしれません。それなら、先んじてこちらから打って出たいと思うのですが」
彼らの話を聞いて、しばしの思考の末にノエは自分の意見を口にした。
周りの反応は様々だった。商人たちは顔を明るくし、代わりにノエの側にいたオデットはしかめ面をしてノエの外套を引っ張った。
サルヒとオランローはフードの下で無言で瞑目し、ヤルマルは片目を瞑って思案の表情を見せる。ルーシャンはもの言いたげではあったが、唇を一直線に引き結んでいた。
「無用な戦いは避けたいところではあるけれど、今回はそうするしかないだろうね」
最初に口火を切ったのはヤルマルだった。
「多くの人を守りながら戦うよりは、慣れた面々だけで背中を預けながら戦う方がやりやすい。今回は、こちらから打って出た方が後々より悪い事態になるのを避けられる」
ヤルマルはノエの選択に乗る発言をした。彼女のいう通り、遅かれ早か宿に滞留している商隊を魔物が直接狙ってきた場合、巻き込まれながら戦うことになる。それぐらいなら、自ら戦機を選んだ方が良いとも言える。
だが、今回は解決しておかねばならない事項がもう一つある。
「ゲルダさんのことですが……どうしましょうか」
戦う術を持っていなさそうなゲルダを、魔物との死闘の場に連れて行くことには抵抗がある。かと言って、ここで待っていてくれと留守を頼み、万が一母竜が迎えにきても面倒なことになる。彼女が自主的に宿から離れてくれればいいが、それでも護衛もなしに魔物が彷徨く雪原に向かわせるには抵抗があった。
そんな逡巡に悩んでいると、
「あの、兄さん。わたしからも一つ頼んでいいでしょうか。もしできるなら、わたしはここに残って負傷者の方々の治療をしたいのですが……
宿では部屋に入らなかった負傷者が床に寝かせられている。屋根の下にいるならまだ良い方で、テントや天幕からも軽傷者の姿が伺えた。しかし、治癒魔法を使える術士がいないため、彼らは簡素な手当てをしただけで放置されていた。
室内ならともかく、外の気温はおよそ快適とはいえない。寒さと傷による体力の低下という要素が加われば、小さな傷でも最悪死に至る場合もある。
「お嬢さんは魔道士なのか! 治療を手伝ってくれるなら、ありがたい。じゃあ頼んでもいいかい?」
「はい、もちろんです」
助け舟の登場に喜ぶ商人たちに、精一杯頼もしく見えるようにオデットは笑顔を見せる。
もっとも、ゲルダを除く残りの面々は気がついていた。
歓喜に沸く商人の顔によぎった打算的な冷静な表情に。そして、その意味にも。
オデットをこの場に留め置けば、討伐に向かった五人が魔物を放置して先に進むという可能性を潰しておける。要するに、オデットがここに残るということは、彼らにとってノエたちの独断専行の可能性を抑制するための人質になるのだ。
もっとも、そんな水面下での腹の探り合いなどは微塵も見せず、
「なら、戦闘時の治療は俺が受け持つか。お嬢ちゃん、ついでにそちらのお姫様の面倒も見てもらえるか?」
「そうですね。ゲルダさんの件で動きがあったら、僕たちに連絡してもらえるかい」
ノエとルーシャンからゲルダを任されて、オデットは今度は別の意味で力強く頷いた。
今、自分はノエたちから頼りにされている。それは、普段から子供扱いされることの多いオデットにとってひどく新鮮なことだった。
「では、僕らは準備が終わり次第、出立します。オデット、無理をしすぎないようにね」
「兄さんこそ、気を付けてくださいね。皆さん、兄さんのことをお願いします」
「オデット、まるでノエの保護者みたい」
サルヒに言われて、ノエとオデットは違いに顔を見合わせ苦笑いをこぼす。ノエはやや弱った顔を、オデットは少しばかりの誇らしさが混じった顔をしている。互いが互いの保護者のような態度をとりがちな二人ではあったが、ここ最近はオデットの方に軍配が上がっていた。
かくして、一行は二分してそれぞれの前に立ちはだかる艱難への対処を始めた。
オデットは付き添いのゲルダと共に、負傷者の治療を。
そして残りの五人は商隊を襲い、傭兵たちを仕留めたと思しき魔物退治へと。

***

魔物が出没したという峠の周囲には、日がまだ経っていないために襲撃の爪痕がまだ生々しく残っていた。倒壊した荷車や、チョコボから流れ落ちたと思しき血痕は、雪に完全に隠されずにあちらこちらに残っている。とりわけ、後者については魔物の追跡をするにあたって重要な手がかりとなった。
「獲物を巣穴に持っていく魔物なら、魔物は巣穴付近にいるだろう。巣穴から離れた別の場所に保管する習性がある個体なら……姿は見えないだろうが警戒は怠らないように」
ヴィエラ族として、長らく森の狩人として生きてきたヤルマルは、追跡を開始するにあたってそのような警告を口にしていた。
「どちらにせよ、油断するなということだな」
「そうだね。相手が知性が高い魔物なら、この痕跡すら罠とするかもしれない」
オランローの要約に、ヤルマルは再度首肯する。ヤルマルの先導を伴い、一行は峠の街道から外れて血痕が続く雪深い森の奥へと歩み出した。
今回は当て所のない散策ではなく、明確な目印と目的がある。その分だけ、各々がやるべき行動もはっきりしていた。
「商人の護衛として傭兵たちが雇われていたと、襲われた商隊の方が話していました。彼らは生きているでしょうか」
「血の痕はあるが、足跡は流石に残っちゃいないな。最悪の事態も考えておくべきだろう」
ルーシャンのいう通り、真っ赤な血の染みは立木や木々にうっすらとこびりつき、どちらに獲物を連れていったかを示している。だが、これはヒトが流せる血の量ではない。恐らくは荷を引いていたチョコボたちのものだ。
だったら、戻ってこなかった傭兵たちはどうなったのか。魔物に返り討ちに遭い、チョコボと共に餌として食われたのか。それとも、魔物に背を向けて逃げ出したのか。できれば後者であってくれたらと思うが、楽観視はできない。
ノエは腰の剣に手を添え、いつでも抜けるように警戒の糸を張り詰めさせた。
「戦闘になったら、僕が前に出ます。サルヒさんはその援護をお願いできますか」
「分かった。じゃあ、ヤルマルとオランローは後ろからの攻撃に徹してもらいたい」
「任せて。ルーシャン、今回は完全に後衛に回ってもらえるかい」
普段はヒットアンドアウェイ(付かず離れず)を得意としているルーシャンだったが、この場で魔法による援護を期待できるのは、今は彼しかいない。貴重な戦力として切り札に徹するように、というのがヤルマルの考えだ。
「ああ。だが、俺はお嬢ちゃんほど魔法の障壁を張るのは得意じゃない。咄嗟のときの防御は、自前のもので頼むぞ」
かつてはオデットの指導役だったルーシャンだったが、オデットの魔法の腕は最近ではすでに彼が指導できる範疇を超えつつある。とりわけ、治癒と防御に特化した彼女の占星魔法は、ルーシャンが持っている幅広い知識を上回る技量を見せていた。
一行が、それぞれの立ち位置を確認し終えたころ。先頭を行くヤルマルが、片手で制止の合図を出した。
……あった」
降り続けるまばらな雪の音に隠れそうな小声で、ヤルマルが言う。
彼女が視線で示した先には、食いかけと思しきチョコボの死体が転がっていた。特徴的な首長の頭部が損なわれていたおかげで、最初それがチョコボだと気づけなかったが、周囲に散らばる、夥しい量の黄色の羽が獲物のかつての姿を皆に示していた。
手前に転がっている黒ずんだものは、乗り手がまたがるための鞍だろうか。
「魔物の気配は?」
「見たところはない。だけどーー」
ヤルマルの言葉が終わるより早く、それぞれが自分たちに近づく気配を探りあてた。
枝から地面へと雪が落ちる軽い音。それを聞き逃すような気の緩んだ狩人は、この場にはいない。
「いた」
「では、手筈通り、まずは僕が出ます!」
真っ先に音の出所を辿れたのは、ヤルマルの長い耳だった。彼女が瞳を動かした矢先、その動きにあわせてノエが前に出る。
足の裏で風のエーテルを爆発させ、己を一個の弾丸に変えたかのように、彼は魔物の元へと疾駆する。
突撃していく先に見えたのは、長く白い毛皮に覆われた四足獣に似た魔物だ。異常に発達した二つの牙に、前に突き出た鼻。見た目だけならば、猪と狼のあいの子のように見える。
聳り立つ角は、白ばかりの雪原の中ではよく目立つ紅色だ。太く強靭な四つの足には、これまた巨体を支えるのに相応しく大きな足指が見える。
(以前、雪原でも見たことがある。こいつはたしか……ミロドンだ)
ノエは、頭の中で己の知識の引き出しから敵の情報を取り出す。
肉食の獣で寒さに強く、五年前の寒冷化に伴いクルザス地方でも見かけるようになった魔物。本来ならば、雪山の奥深くで暮らしていたらしいが、寒冷化により棲息場所を広げたようだとウヴィルトータは話していた。
傭兵でもありノエの第二の師匠でもある彼女は、この魔物と何度か戦った経験があった。彼女と行動を共にしていたころ、ノエも幾度か遭遇している。
相手は未知の魔物ではない。だから油断はしない。しかし、不必要に怯える必要もない。
(まずは、一撃ーー……!?)
様子見も兼ねて、接近と同時に斬りかかるーーそのつもりだった。
しかし、ノエの予想に反して、あろうことか、ミロドンはその巨体を翻し逃走を開始したのだ。
凶暴な肉食獣でもあるミロドンとしては、らしくない振る舞いだ。とはいえ、ここでみすみす見逃すわけにもいかない。ミロドンの不可解な行動に疑問を抱いたものの、
「後を追います!」
リンクパールに指をかけ、自分の行動を仲間に伝えてからノエはミロドンの影を追いかけた。
先行した傭兵との戦闘で怪我でもしているのか、四足獣であるというのにミロドンの歩みは遅い。ノエの足でも全力で走れば、ミロドンの姿を完全に見失わずに追跡することができていた。
雪深い森林部分を抜けると、今度は下へと傾く斜面が続く。すり鉢状の構造になっている斜面の底は雪煙のせいか白い煙が揺蕩っている。
だが、そこでノエは気がつく。
……あれは、何か……いや、誰かいる?)
ノエの目は、そこに人影のようなものを捉えていた。もしかしたら、傭兵たちはミロドンにここまで連れ攫われたのかもしれない。
ミロドンは、その巨体を滑り落とすようにして斜面を下っていく。そして、人影を目にした以上、ノエがミロドンを追わない理由はない。
「どちらにせよ、ここなら追いこめそうだ」
ここを追跡の終着点にしようと、ノエは勢いをつけて斜面を駆け降りる。下へ下へと向かう力に身を任せ、転ばぬように細心の注意を払って彼は白一色の坂を駆け降りていく。
(それにしても、下に行くほど視界が悪くなってくるな。……霧、だろうか)
ノエが訝しんだのは、上から見ていたときも視界に入っていた、斜面の底を覆う雪煙の如き白い霧だ。黒衣森で見たようなミルクのように一寸先も見えないものではないが、うっすらと自分を覆う、紗幕のような白煙に似た何か。だが、完全に視界が覆われるほどではないと、ノエはそのまま坂の一番下に辿り着く。
ノエを迎え撃つかのように、ミロドンは距離を置いてこちらを見つめている。ここが狩場なら一目散に攻撃してくるかと思いきや、ノエの様子を伺うばかりだ。
(上からも見えていたけれど、ここだけ一段地面が低い。斜面の上からなら、ヤルマルさんとオランローが攻撃できる。サルヒさんも、じきに来るだろうから……
そこまで考えて、ノエは気がつく。
……なんだ、これ)
は、と口にした息が白く溢れーー眼前で、『凍りつく』。
細かな氷片となり、雪煙を乱反射して輝くそれはとても美しい。だが、今はその美しさに見惚れている場合ではない。
(何か……おかしい)
肌がちくちくと痛む。物理的な怪我を負ったのではない。ぴりぴりと苛むその感覚は、とりわけ冷えた朝に薄着で外に飛び出したときの感覚に似ていた。
クルザス一帯の気候は、寒冷の一言で表せるものだ。だが、それにしたって程度というものがある。
……寒いと感じている? 防寒具を外したわけでもないのに、どうして)
今までミロドンを追いかけていたせいで、寒いどころか運動によって生じる熱を持っていたはずの体すら、この場に踏み入った瞬間に急速に冷たくなっている。
手袋越しに感じていた剣の持ち手を握る感覚も、盾の持ち手にかけた指の感覚も消えている。
「まさ、か」
言葉を発するために唇を動かし、気がつく。その唇にすら、うっすらと氷が張っていたことに。
パキパキと硬質な音が自分の体の表面から聞こえ、ノエは意識してかぶりを振る。同時に、己の体から剥がれ落ちたのは、無数の氷片。
(違う。これは、霧でも雪煙でもない)
周囲を纏う白い靄の気配。それは、雪が撒き散らせて生まれた煙などではない。
その正体はーー超低温の冷気。あまりに温度が低いために、周囲との気温差で白い煙のように視覚化されているだけだ。
ノエは顔をあげ、目にする。自分の前に立ちはだかるミロドン。まるで何かを待つかのように構えているそれの後ろから現れたのはーー視覚化された氷の化身だった。
それは、正しく氷のエーテルの集合体だった。エーテルが偏ると生まれでる魔法生物であり、第七霊災後は氷属性のエーテルが活性化しているイシュガルドでは頻繁に発生しているものーーアイススプライトだ。
スプライト自体は、大して珍しいものでもない。環境に大きな変化をもたらすほどの力もない。せいぜい、自身の周囲数フルムを低温にするぐらいの力しかないはずだ。
ただし、目の前のスプライトの大きさは、並のスプライトの五倍はある。
巨大なアイススプライトが輝きを放った瞬間、周囲の白い冷気が一段と濃くなる。同時に、ノエの体の内を巡る熱が加速度的に失われていく。
(そうか。ミロドンは、寒い気候に強い生き物という話だった。だから、この異常発達して極大の冷気を撒き散らすスプライトがいる場所を、自分だけが有利に動ける狩り場として使って……
熱を奪われ、思考が急速に鈍っていく。その一方で、無性に体が火照り、衣服を脱ぎ捨てたいような衝動に駆られる。そんなことをしたら、一秒と保たずに文字通りに氷漬けになると分かっているのに。急激に低音の環境下に置かれて、錯乱しかけているのだと頭の中で冷静な自分がいる。
(熱を、体の内側に回すんだ。魔力を、使って……
クルザスに入ってから、野営のたびに寒い寒いとぼやいていたヤルマルに、ルーシャンがそのような指導をしていたことをノエは思い出す。あれはどうやってやるのだっただろうか。
思案している間にも、膝から力が抜ける。薄らぼんやりと滲む視界の中、急速にこちらへと迫ってきたミロドンが見え、ノエは咄嗟に盾だけを前へと押し出した。
ガツンと衝撃が走る。足が宙を浮いた感覚は、流石に分かった。短い滞空時間を経て体を地面に打ち、体の表層に張り付いていた氷が剥がれ落ちる。
だが、おかげで少しだけ意識を浮上させられた。新調した鎧のおかげで、大きな怪我もない。
冷気をなるべく吸わないように唇を強く噛み締め、ノエは剣を杖代わりに立ち上がる。姿勢を立て直す途中、目に入ったのは氷漬けのーーあれは、この極寒の地に迷い込んだ野生動物だろうか。
(いや……違う)
夥しい量の霜と氷で覆われているので定かではないが、そこに転がっている物体には、防具店で見覚えのある設えの鎧の一部が張り付いていた。
おそらくは、魔物を追跡して仕留めようとした傭兵たちの一人。ミロドンが誘い込んだ場所が氷結の狩場と知らず、そのまま氷漬けとなったのだろう。ノエが目にした人影も、同じように氷の彫像と化した誰かに違いない。
そして、このままではその姿は、ノエがたどる未来でもある。
(魔力を熱に変換するんだ。そしたら、少しは保たせられる)
ルーシャンの言葉を思い出し、ノエは己のエーテルを意識的に自分の内側に巡らせる。魔法の壁を外に作るときの感覚を真似すれば、先ほどよりは手指に感覚が戻ってきた。
ようやくしっかりと動かせるようになった腕を持ち上げ、リンクパールがついた耳に指をかけ、皆へと呼びかける。繋がる音を確認する前に、ノエは口早に言った。
「魔物の向かう先に、巨大な、氷のスプライトが……います。気温が非常に低い。迂闊に近づくのは、危険です」
そこまで言い切り、すぐさまミロドンの振り下ろされた前足を剣で弾く。
力を込めて受け止めるのはまだ無理だ。今は、無理に魔力で体を動かしているような状態である。あまりの寒さに指の感覚がないのは先だってと同じであり、踏ん張るなど土台無理な話である。一歩気を緩めれば、意識すればあっという間に掻っ攫われてしまうだろう。
ミロドンは、のこのことやってきた新たな玩具を遊ぶかのように、ふらつくノエを一思いに殺さず、付かず離れずの距離をとって攻撃を繰り返している。
急接近して、爪先でノエの体を抉るようなそぶりを見せたと思いきや、一撃で仕留めずに静観する素振りすら見せる。このような無駄のある動きをしているのは、思うように動けずに少しずつ命が削がれる獲物の姿を楽しんでいるからか。
(だけど、そこに油断があるのならーー隙もある)
何度目になるかわからないミロドンの突進を、ノエは転がるようにして回避する。
時間が経ったおかげで、ここに誘い込まれたときよりは、いくらか動けるようになっている。体内のエーテルを気温に合わせて調整していった賜物だが、このままではいつまでも決定打に移れない。
ノエが大型の魔物を仕留めるために使う魔法は、多量のエーテルを消費する。しかし、今は体温の維持にエーテルを使っているため、とてもではないが強力な魔法は打ち出せない。
このままでは八方塞がりだった。
もし、ノエが一人だったならば。
『ノエ、聞こえるかい』
ノイズの後に聞こえた、リンクパールからの声は馴染みのあるヤルマルの呼びかけだ。
『自分を守るための壁の準備をしておいてくれ。ルーシャンがとんでもない魔法の付与をしてくれてね。とてもじゃないが加減ができない』
「はい。わかりました」
初めて会ったときから頼もしさを感じていた先達の腕を信じて、ノエは頷く。
数度目の突進を試みるミロドン。それに対して、今までのように間一髪の回避ではなく、ノエが渾身の思いで魔法の壁を打ち立てた。
今まで、身の保全のためだけに使っていたエーテルが、突如壁となりミロドンの前に立ちはだかる。
…………っ」
激しい衝突音と衝撃。どうにかこれまでの戦いで少しずつ取り戻した熱を、この時に全て注ぎ込む。
(長くは、保たせられない……!)
魔力を他に回すだけで、体の表面が再び凍り始めている。しかし、彼女からの支援を信じて、この瞬間だけは物理的な衝撃を守るための盾を維持し続ける。
思いがけない反抗にミロドンはたじろいだが、それも一瞬。自分の頭部に生えている角諸共、再度突進を試みようと勢いをつける。が、

ーーボウ、と。
着火時の音すら聞こえるほどの熱が、ひと息の間に生まれる。

地面に積もる雪ごと溶かしかねないような火の海が、たちどころにミロドンやノエを巻き込んで荒れ狂う。
突如降ってわいたような異常な現象のように思えるが、実際は違う。
ノエは確かに見ていた。自分に激突するミロドンの頭上から飛来した、ありったけの炎魔法を宿した矢が地面めがけて落ちてくるところを。
炎属性のエーテルを矢に宿して、周囲を火の海にする技ーーフレイミングアロー。それを魔道士のルージャンが手伝ったとなれば、表面を舐める炎では止まらず、山火事すら思わせる広大な火の海になるのは必定だった。
ミロドンは突如湧き上がった炎が毛に引火してしまい、流石にこの状況は不利と判断したらしい。ノエを攻撃するのをやめて、一度大きく距離をとった。
「ノエ!」
ミロドンが退避したのと同時に、斜面を滑り降りる音が耳に飛び込む。ノエに駆け寄ってきたのはサルヒだった。
無策で飛び込んできたわけではあるまいと、来てよかったのかと不安も走る。
だが、顔をそちらに向けたノエはぎょっとして目を丸くした。
「サルヒさん、その姿は……!」
「大丈夫。前のように暴走したりはしない」
ノエが驚いたのも無理もない。サルヒの周囲を、禍々しい赤い闘気が渦巻いていた体。普段は黄金色の瞳は赤く炯々と輝き、冷気の渦の奥に逃げようとするミロドンを追いかけている。
それは、かつて寂れた館にて、己の中の獣に取り憑かれたサルヒが暴走した時と同じ姿だった。しかし、今の彼女はあの時のように理性を飛ばすことはなく、落ち着いて斧を構えている。
彼女の体の表面に氷が生まれていないのは、この沸き立つ闘気が一時的に異常な冷気を吹き飛ばしているからのようだ。
「旦那様。手筈通り、私があいつを引き受けます」
サルヒが声をかけた先には、同じように斜面を降りてきたルーシャンがいた。
「ああ、無理はするなよ。そんでもって若人、立てるか」
頷きだけ返すと、サルヒは斧を構えてミロドンへと肉薄する。
それを見送りながら、ノエはどうにか再び凍りつきかけていた体を起こす。
ヤルマルが放った矢は一時的に辺りを火の海に変えてくれたが、それも所詮はその場しのぎでしかない。
アイススプライトが再び放った圧倒的な冷気は、ヤルマルとルーシャンが作り上げた渾身の一撃すら圧してしまった。
「ルーシャンさん、いったいどうするつもりなんですか」
「この凄まじい氷属性のエーテルの渦をどうにかしなきゃ、俺もサルヒも結局は動けなくなる。そう言いたいんだろ」
「ええ、その通りです。今の状態では、この場に踏みとどまることすら難しい」
かといって、ミロドンはこの場所以外で戦闘をしようとしないだろう。かといって、ミロドンに手を出さずにいれば、商隊を襲う旨みを知ったこの獣は次なる犠牲者を出すだろう。
それに、スプライトの方も無視はできない。今はこの地にとどまっているが、何らかの理由で場所を移動して、街道の利用者を凍り付かせるかもしれない。
両者が同じ場所にいる今なら、二体まとめて仕留められる好機である。だが、それはこちらがもっとも不利な状況で戦うことになるということだ。
「魔力が残ってるうちは、動ける程度には体温を維持するように調整できますがーー」
「ああ、それな。その調整をやめる準備をしておいてくれ」
「え?」
ノエが呆気に取られている間にも、ルーシャンは腰にさしていたレイピアを抜き放ち、持ち手の先端にクリスタルを差し込む。一本の杖と化したそれを、彼は勢いよく地面に突き立てた。
「この寒さに拮抗する程度に、炎属性のエーテルを放出し続ける」
「炎を……
「ああ。そうすりゃ、あいつが用意した不利な環境を五分五分にまで引き戻すことができる。だろ?」
「それはそうですが、それを一体誰がやるというんですか」
答えなどわかっていたが、ノエは聞かずにいられなかった。そして予想通り、ルーシャンはレイピアに自分の手をのせた。
「そんなの無茶です! そんなことをしたら、すぐにルーシャンさんのエーテルが無くなってしまう!」
ノエが行っていた、自身の体温を維持するためのエーテル操作。ルーシャンは、それをより広範囲ーーこの狩場全域で行うと言っているのだ。
理論上ならば可能だろう。彼ならば、こちらが火傷しない程度に火属性のエーテルを放出し、周囲の温度をヒトが活動しやすいように調整するぐらいのことはしてみせる。
だが、瞬間的に攻撃として放つだけの一般的な魔法と、周囲の環境全体に一時的とはいえ影響を及ぼし続ける魔法では、範囲も時間も桁違いに違う。
ノエが思い出したのは、タムタラの墓所にて、ヤルマルが魔物の大群に向けて放った大技だ。あの時も、ヤルマルは自身のエーテルを空っぽにして、半ば死にかけた。
「エーテルが枯れれば死んでしまいます。僕は、あなたにそんな危険な真似はさせたくない」
「そうかよ。随分といっぱしの口をきくようになったな、若人。そんだけ元気になりゃ十分だ」
ルーシャンはにっと口角を釣り上げ、ノエの背中を強く叩いた。思わず、ノエが咽せるほどに。
「俺だって何十分、何時間もやっているつもりはない。こんな大道芸、十分も保たせりゃいい方だ。その間に、ノエ。お前はあの氷野郎を倒してきてくれ」
ルーシャンは、すでに杖と化したレイピアに手をかけ、術を発動しかけている。肌でに伝わる冷気が通常のクルザスで感じるものと同等のところまで落ち着いていると、ノエも気づいていた。
「オランローがお前の支援に回る。サルヒにはヤルマルがな。ちゃんと敵を惹きつけてこいよ、盾役さん」
……っ」
ルーシャンがすでに動き出している以上、二の足を踏んでいれば彼の決意をいたずらに無駄にするだけだ。ノエは唇をぎゅっと噛んで多くの言葉を飲み込んでから、先ほどよりは随分と感覚が戻ってきた手で剣の柄を握りしめる。
「わかりました。すぐに終わらせてきます!」
「おう。ぶっ壊してこい!」
ルーシャンの背中に押されるようにして、ノエは随分と動きやすくなった体を使って雪原を走る。
向かう先にいるのは、異様に成長し、今も冷たい死の世界を取り戻さんと冷気を放つアイススプライトだ。
通常の魔物や妖異と異なり、スプライトは自然発生する魔法生物と呼ばれる存在である。ならば、生命としての本能がないかといえば、そのようなことはない。
敵意を向けられれば警戒する。それが脅威であると判断すれば、もちろん迎撃にも打って出る。
足元に風のエーテルを爆ぜさせ、急激に迫るノエに向かって、どこが顔かもわからぬアイススプライトがその体を半回転させ、輝きを増す。即座に構えた盾の上を走る冷たい衝撃は、氷属性のエーテルを魔法としてぶつけたものだ。
「やっぱり、素直に近づかせてはくれないか……だけど」
今までは体を生かすために回していた魔力を、一転して戦闘にのみ集中させる。しかし、時間がないことに変わりはない。ノエが悠長に戦えば戦うほど、後方にいるルーシャンは自身の命を削ることになる。
『ノエ、いけるか』
耳にはめたリンクパールから聞こえるオランローの声に、彼には見えていないと分かっていてもノエは首肯を返す。
「合わせてくれるか」
「ああ。あんたは、ヤルマルほど無茶苦茶してくれるなよ」
「その期待には、悪いけど応えられないかもしれない」
耳の奥にまで聞こえる嘆息。それは、嘆きというよりかは、もはやお馴染みのやり取りを確かめるための相槌であった。
剣と盾を構え、攻め手を考えながらノエはスプライトに迫る。死と背中合わせのこの状況をひっくり返すために。