森の奥深くにひっそりと、時が止まっているかのような静謐な雰囲気のある古い洋館が建っている。洋館その南側には広い庭園があった。そして館と庭園を世界から隔絶させる、あるいは隠してしまうかのように、背の高い木々に囲まれていた。外界に繋がるのは、庭園の端、館から南へまっすぐ通る道の先に設けられた正門から伸びる細い道のみ。この道をしばらく進み森を抜けると、街道へ繋がっている。それでも歩いて行こうとすれば、最も近い街まで数日はかかるほどの距離がある。
この社会から隔絶された場所にある洋館の正門前に、サタンは立っていた。
丁寧に使い込まれた黒い革のロングコートを身に纏い、中には胸元が大胆に開いた黒いティーシャツに、同じく年季の入った黒の革パンツ、黒のロングブーツ。夜闇に紛れるかのような格好だが、毛先を紅く染めた長い金髪を結ったポニーテール、遠くから見ても整っていることが窺われる端正な顔立ち、印象的な目元の黒点、常にどこか余裕があるように見える強者の風格、立ち姿。そして衣服のところどころにあしらわれた金の装飾。およそ忍ぶような出で立ちではない。おまけに身長も高く脚も長い。どこにいても目立つ風貌だ。
その装いが表すかの如く、サタンは堂々と門扉に手をかけた。
この館がサタンの住まいであるか? それは否である。
サタンがここを訪れるのは初めてであり、そしてもちろん用事があるから来たのだ。
時刻はすでに陽が沈みかけた夕刻。周囲の森では、夜行性の獣が活動を始める気配がする時刻だ。天気は快晴。夜になったら多少は雲も出るだろうが、周囲に灯りのないこの場所からは、星がよく見えることだろう。
門扉には施錠がされていなかった。もちろん衛兵の類も配置されていない。そもそも客すら滅多に訪れないのだ。街道へと繋がる道があるとはいえ、それは舗装もされておらず、長い間人が行き来することで自然と踏みしめられたものであり、ほとんど獣道も同然だ。
そんな正門を堂々と通り抜け、サタンは敷地内に足を踏み入れた。
広い庭園は主に畑と果樹園にされており、様々な野菜、穀物、果実が植えられていた。
事前に仕入れた情報どおり、ここはほぼ自給自足の閉鎖環境と言える場所だった。
サタンは庭園をまっすぐ進み、館の正面玄関へと向かう。豪奢な装飾のついた扉の、ドアノッカーを強く数度叩いた。
「おい、誰かいるか」
大きな声で何度か呼びかける。反応がない。人が動く気配は感じられるため、突然の訪問客にどう対応するか、悩んでいるのかもしれない。
「おい––––」
いっそこのままドアを蹴破ってやろうかと思ったその時、扉が内側に小さく開かれた。
中から顔を出したのは、妙に青白い顔をしたやや痩せ型の男性だった。髪を撫で付けるようにして整えている。タキシードを着用しており、喉元までしっかりボタンが留められた糊の効いた白いシャツに、黒のボウタイがきちんと整えられている。身長は中背で、サタンからは見下ろし、男からは見上げる状態だ。
「……こんな遅くに、どういったご用件でしょうか」
男は明らかに警戒していた。無理もないだろう。見ず知らずの、しかも明らかに体格の良い男が夜のはじめ頃に訪ねてきた挙句に何度も呼びかけてくるのだ。恐怖しない方が難しい。
「おう、悪ぃな。道に迷っちまったんで、一晩泊めてもらえねぇかと思ってよ」
もちろん嘘だ。
玄関口の男も困惑している。この付近の森に獣はいるが、近隣に暮らす者は他におらず、よって狩猟をわざわざ近くでする者もほとんどいない。
それに、この森は迷いやすいのだ。近くに目印になるものがなく、似たような景色が続くため日中であろうと方向を見失いやすい。それゆえ森に慣れた者であっても、不用意には踏み込まないのだ。
このような森深くにある古い洋館へわざわざ足を運んでくるのは、ここが目的地の者だけである。そのことを、サタンはもちろん、住人である目の前の男が承知していないわけがない。
男は小さく溜め息を吐いた。
「金品の類をご所望であれば、申し訳ありませんがお引き取りください。ここにはそのようなものは館の他にありませんので」
そう言って問答無用にと扉を閉めようとすると、サタンが素早く靴を挟み込む。
「なに、金には別に困ってねぇんでな。今は手持ちがないが、謝礼が必要であれば後日持って来させよう」
強気に口角を上げ、靴のついでに扉に手をかける。指にはこれ見よがしに金色の指輪がいくつも嵌められており、照明に照らされてぼんやりと光っている。
「怪しいのは事実か。さて、どうしたもんか」
わざとらしくとぼけたように振る舞うサタンだが、少し逡巡したようなふりをした後、あえて声のトーンを落とし、凄んでみせる。
「オマエたちを今すぐ一人ひとり殺して回っても、俺は構わねぇんだが」
相変わらず口元はにやりと不適な笑みを浮かべているが、目は全く笑っていない。拒んだら最後、本当にそうするだろうという確信を得て、大抵の人間は怖がって逃げ出してしまう。
だが、青白い顔をした男はサタンの圧に負けなかった。なおも「お引き取りください」と引き下がらない。
サタンは内心、男の毅然とした態度に感心していた。だが、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。長年探し求めているものの手掛かり、あるいはそのものがこの館にあるかもしれないのだ。なんとしてでもそれを手に入れたい。
このままでは平行線が朝まで続きそうな様相であった。相手はそれでもいいのだろう。サタンとしては中に入り、なんとか館内を調べたい。最終手段は不法侵入だが、可能な限り避けたい。誰が情報を握っているのかもわからないため、下手に抵抗されて相手を殺す羽目になるのは避けたい。本当にいざとなれば躊躇わずに相手を殺す意志はあるが、それは最終手段だ。
「ここまで言っても納得しねぇとはな。それなら俺を拘束でもして、牢屋かなんかにぶちこんでおいたっていい。大人しくしてたら、ちゃんと出してくれよ」
そもそも殺すつもりがあるなら、青白い顔をした男が顔を出したその時に、すぐに仕留めてしまえばよかったのだ。交渉など必要ない。問答無用に、不意打ちで殺す方がよほど楽だ。
男は流石に困惑した表情を見せていた。それはそうだろう。サタンの目的が不明瞭で、要求が意味不明だからだ。
言葉を返せずにいるのを見たサタンは、
「チッ、何言ったら納得するんだよオマエ。くそ、もういい。オマエの主人は? 直接交渉させろ」
気を緩めたように振る舞っても、じわじわと靴先を扉の内側へと滑り込ませるのは忘れない。
「主人は不在です」
「あ?」
思わず聞き返すサタンに、青白い顔の男は改めて襟を正し、背筋をピンと伸ばして毅然と答える。
「主人は現在不在です。ですから、館を守るのは我々使用人の勤めにございます」
どう返そうか一瞬思案して遅れたサタンが口を開く前に、青白い顔の男が続ける。
「そこまで引き下がられるのでしたら、承知いたしました。貴方のご提案通り、地下牢へご案内いたします。ただし凶器の類をお持ちでないか、確認はさせていただきます。それでよろしいですか?」
第一関門クリア。
忠義に厚そうなこの男は、一度言った言葉を容易く撤回はしないだろう。サタンも承諾の証として、靴先を引っ込める。もしもこれで再び扉を閉じられるのであれば、その時こそは窓からでも侵入してやればいい。可能な限り穏便に済ませたいが、手段を選んで足踏みするような男ではないのだ。
「ク・ク・ク……ああ、問題ない。なんなら服も脱いでやろうか」
「それは結構です」
サタンの反応に困る冗句をすげなく躱し、男は扉を開いてサタンを室内へ招き入れる。
そしてサタンへ向き直ると、腰を曲げ深々と礼をする。
「先ほどは大変失礼いたしました。貴方様を例外的な客人としてお迎えいたします」
男が顔を上げると、どこからともなく同じようにタキシードを着てきっちり黒いタイを締めた男たちが現れた。
「わたくしは、当『月光館』を主人の留守中預かっております、執事長のプラントと申します。そちらはジュモクとハタタでございます。申し訳ありませんが、凶器の類がないかどうか、確認させていただきます」
ジュモクとハタタと呼ばれた男たちはプラントより一回りは若そうで、見たところまだ十代半ばといったところだろうか。この年齢ですでに館の執事をしているのであれば、ここで生まれ育った子なのかもしれない。
ジュモクは背はプラントよりも高くひょろりとしてはいるが、顔に幼さが残る。ハタタは逆にプラントよりも小さく、ややずんぐりとしている。ジュモクよりも歳下のように見えた。若くとも、ふたりともプラントと同じように髪を撫で付け背筋を伸ばして立っている。
そのジュモクとハタタが、やや緊張した面持ちでサタンの身体を検める。服のポケットのみならず内側に縫い付けられている場所はないか。靴の中、中敷きの裏、最後に口の中を確認して、ようやくサタンは解放された。
「それでは地下牢へご案内いたします」
プラントが慇懃に言うと、サタンを先導して歩き出す。サタンもそれについて行く。ジュモクとハタタもそれに従った。
歩きながら、歩幅と歩数でおおよその地図を脳内に描く。どうやら北東方向へ向かっているようだ。しばらく進みいくつかの部屋を通り過ぎて行くと、それまでの豪奢な部屋とは明らかに雰囲気の違う場所へ出た。正面には分厚い鉄の扉がある。プラントがキーリングから鍵を取り出して錠を外す。中は地下への階段になっていた。
プラントがジュモクとハタタへ目配せをして、サタンに「こちらです」と声を掛ける。プラントについて階段を降りるが、ジュモクとハタタはついてこなかった。
進んだ先は、地下牢と呼ぶにはやや広い部屋だった。鉄格子の類もない。天井には鉄格子の嵌った採光用の窓があるが、そもそも天井がかなり高い。降りた階段の段数と照らし合わせても、あの先が地面であることは間違いなさそうだったが、気軽に手が届くものではない。ということは、先ほどの扉が唯一の出入り口か。
部屋の中央に、簡素な寝台が設けられている。シーツや毛布はやや埃っぽく、洗ってはあるようだがほのかに鉄の臭いがする。他には簡易便器がある程度だ。独房だからそうなのであろうが、質素だ。その割に妙に広い。独房ならもっと狭くていいはずだ。
「このような場所へご案内することとなり、申し訳ありません。ご覧の通り大変質素な場所ではありますが、こちらでお休みいただくことになります」
サタンは無言で頷く。
「扉は施錠させていただきます。くれぐれも、勝手に出歩いたりはなされませんよう……」
「ああ、心得ている」
「それではごゆっくりお過ごしくださいませ」
出迎えられた時と同じように深々と礼をした後、プラントはひとり階段を上り、来た道を戻ってゆく。やがて階上で施錠の音が聞こえた。
サタンは簡素な寝台に寝転がった。
陽はとうに暮れており、月が出ているようだ。天窓からは月明かりが差し込んでおり、照明の類の一切ない部屋であったが、多少明るい。満月は二日後だったか、と思い出す。
プラントは扉を開けに来るとひと言も口にしなかった。押しかけたとはいえ客人としてもてなすと言っておきながら、水も食料も与えず、放置するつもりだろう。この広さ、深さであればおそらくどれだけ叫んでも声は届くまい。そもそも彼はこの館の執事長だ。彼の決定に館内の他の従業員たちも従うだろう。
元よりそのつもりだった。厄介な客はここに閉じ込め、死ぬのを待てばいい、そういう対応をされることを見越してサタンも提案したのだ。まさか客が自ら言い出すとは思ってはいなかっただろうが。
来るまでの道のりを思い出す。彼らは皆隙だらけだった。サタンにここまでの道順もしっかり見せた。鍵も見せた。姿は見せなかったが身を潜めている他の住人たちの気配もあった。情報を与えすぎだ。最初から逃すつもりはないのだ。
逃げるだけならどうとでもなる。問題はサタンの目的だ。
そもそも目的があってこの館を訪れたのだ。それを果たさないことには、逃げようもない。何も得られずに手ぶらで逃げ帰るなど、自身のプライドが許さない。
敷地の広さ。畑の位置関係。館の大きさ。通ってきた道順から考えられる現在位置。分厚い鉄の扉。明後日の満月。
これまでに得た情報を頭の中で整理しているうちに、サタンは眠りについた。
月が沈み、太陽が昇る。サタンが目を覚ましたのは、階段を降りる足音が聞こえたからだ。横目で天窓を確認すると、太陽が出てしばらく経っているが、まだ昼にはなっていない時間帯に思われた。
元来眠りが浅く、平素であれば夜明け頃には自然と目を覚ます。だが、この館までの山道は並以上充分にあるサタンの体力をもってしても、楽な道ではなかった。馬を調達できればよかったのだが。
寝たふりをして、足音に耳を澄ませる。音の雰囲気からして、プラントではなさそうだ。裸足で、身長はプラントより高い。痩せ型だ。衣擦れの音からして女であろうか。
足音の主は気にするふうでもなく、サタンの横たわる寝台へ近づいてくる。カチャカチャと何かがぶつかる音がする。陶器だろうか。香りが気流に乗り、鼻腔をくすぐる。食事のようだ。
サタンの見立てでは、十中八九というよりほぼ十割の確率でプラントはサタンをここに放置するだろうと思われた。サタンも数日なら飲まず食わずでも精度は落ちるが活動はできる。そのつもりで踏み込んだ館だったのだが。
「起きているだろうか?」
声は、思っていたより近くから聞こえた。薄目を開けてみると、目の前に顔を覗き込んでくる瞳と目線が合う。思わず目を見開き、数度瞬きしてしまった。
(気配に気づかなかった…!)
咄嗟に身を起こし、身構える。いつでも踏み込める体勢をとる。
サタンは目の前の人物を素早く観察した。
月光のような銀色の長い髪。背が高く、サタンとあまり変わらないほどある。顔は中性的で男と言われても女と言われても、納得するだろう。右目は前髪で隠されている。先ほどの声音からして男だろうか。白く床まで届きそうな長いローブを纏っている。足音、覗く首、手や足の様子から痩せ型と判断する。単純な力の勝負になれば、体重のあるサタンが有利になるだろう。武器の類は持っていないように思われる。両手で長方形の盆を持っており、おそらくスープと思しきものと、スプーン、水差しとコップが乗せられていた。
明らかに警戒している様子のサタンを見て、目の前の相手は盆を少し離れた床に置くと、両手を広げる。
「大丈夫だ、敵意はない。昨晩は執事長が失礼した」
語りかける声は穏やかで、眼差しはまっすぐとサタンを見ている。言葉には偽りはないように思えた。
サタンはいつでも飛び掛かれるよう臨戦体勢を維持しつつ、ゆっくりと寝台から降りる。そろりと相手の背後へ移動する。
「動くな。何か変な真似しやがったら、すぐに殺す」
「……敵意はないと、言っているのだが」
「余計な口を利くな。振り返るな。質問にだけ答えろ。わかったら右手を上げろ」
声を落とし、感情を抑えて通告する。目の前の人間はスッ、と無駄のない所作で右手を上げ、元に戻した。
「よし。まず、オマエは何者だ。正直に答えろ」
目を鋭く光らせ、全方向へ警戒しつつ距離を取って壁に背をつけ尋ねる。
「私の名はベルゼブフ。この館に住む……食客といったところか。何者かと問われると少し難しいが、この館のとある役割を果たすため、ここに滞在している」
ベルゼブフの声は落ち着いている。この状況に動揺していないのは、肝が据わっているのか、それとも単に鈍感なのか。もしもこれで嘘をついているなら大したものだ。ベルゼブフ自身は隙だらけでサタンがその気になればいつでも殺せる程度には無防備に見える。これが作り出された隙であれば、もっと気配のようなものを感じるが、それはなかった。
「何のためにここへ来た」
「食事を届けるためだ」
「なぜオマエが来た。昨日の執事はどうした」
「彼らはオマエに関心がない。最初からここに閉じ込めたオマエを出すつもりはないのだ、食事を与える必要がない。それを知っているから、私が届けに来た」
「なぜオマエは俺に食事を届けようと思ったんだ」
「生きるためには必要だろう」
質問を繰り返し、サタンは半ば呆れたように警戒体勢を解く。こいつはまるで敵意がない。かといって善意というわけでもなさそうだ。善意であれば、見返りを求められるかもしれない。そう思っていたが、そうでもない。純粋にそうすべきだと思い、しているのだと感じられた。
「警戒を解いて貰えただろうか」
振り向かないまま、ベルゼブフが問う。ああ、とサタンが答えると、ベルゼブフは振り返り、寝台を背にちょこんと座る。
「毒の類はもちろんない。必要ならば私が毒味をしよう」
「いや、それには及ばねえ。疑って悪かったな」
飲まず食わずで数日は耐えて動けるが、それは極限状態の話のことで、目の前に質素とはいえ食事が差し出されれば肉体の本能が空腹を告げるものだ。
サタンは手を伸ばしてささやかな食事の乗ったトレーを手元へ引き寄せる。
細かく切った野菜の入ったオートミールのミルク粥のようなものだった。牛はいなかったはずなので、外から得たものか、あるいはオーツミルクやソイミルクの類かもしれない。決して贅沢品ではないが、ほのかな甘みのあるそれを、一気に掻き込むようにして口に含むと、咀嚼もほどほどに水で流し込む。あっという間に平らげてしまったあたり、実はかなり空腹だったらしい。満腹とはいえないが、腹が膨れすぎても動けなくなる。どうせ長居はしないのだ、この程度でいいだろう。
ベルゼブフはそんなサタンの様子をじっと見ていた。
軽い食事を済ませ人心地ついたサタンは、壁に背を預け体を休めながら、改めて目の前のベルゼブフと名乗った男(推定)を眺める。
美しい存在だった。
顔の造形の美しさも去ることながら、全身に漂う雰囲気がこの世のものならざる様相を湛えていた。具体的に言葉にするのが難しいが、目の前には確かに質量を持った人間が存在するのに、どこか神秘的で、触れたら消えてしまうのではないかと思われるような。著名な彫刻家の作品かと見紛うほどに、人肌を感じさせないような肌の温度感。血の通わない美術品であると言われても、驚かないほどだ。
敵意はなければ善意も悪意もない。意思の強そうな瞳と形の整った眉をしているが、実際には自らの意思など持ち合わせていないようにも見える。まっすぐ通った鼻筋、軽くきゅっと結ばれた薄い唇からは大人びた雰囲気を感じながらも、全体の印象としてはやや幼さを残している。不思議な人間だった。
じっと観察されても動じる気配すら感じられない。
「名前を尋ねてもいいだろうか」
問われて、そういえば名乗ってなかった、と思い出す。
長居もしなければここを出たら二度と会うこともないだろう相手に、あえて本名を名乗ることはあまりない。
だが、口から出たのは意思に反した言葉だった。
「サタン、だ」
これにはサタン自身が驚いてしまった。二度と会うことはないのだから本名を名乗っても差し支えはないが、これはサタンがこれまで生きてきた中で決めてきたポリシーでもあった。自らの意思でそれを破ったことなど一度もなかったのだが。
「サタン。そうか、美しい名だな」
男はフフ、と口元を緩めた。
––––笑った。
本当に生き物なのか疑うようなこの目の前の存在に、確かに血が通っていることを初めて実感した瞬間だった。
「なぜこのようなところへ来たのか? もし差し支えなければ聞いてもいいだろうか」
どのように答えるかサタンは逡巡した。目の前の男に害意はない。ただ興味本位で聞いているにすぎない。
サタン側の事情はやや複雑だ。ある目的があり、情報を得ていくうちにこの館にたどり着いた。だが、食客であるというこの男がそれを知っているかはわからない。この男から情報が漏れ、目的を取りこぼすことになっても困る。
しかしこれがチャンスかもしれないのも事実ではあった。これからなんとか脱出をして、館を探らなければならない。方法は後で考えようと思ってはいたが、今のところノープランだ。この男から情報を得られる、直接的な情報でなくとも、少なくとも館の内部情報は得られる。そう思えば、ある程度明かしてもよいのではないだろうか。
答えあぐねていると、そんな思考を察してか、ベルゼブフが再び口を開いた。
「すまない、尋ねる前に私のことをもう少し話しておくべきだったな」
ベルゼブフが身じろぎをする度に、髪が陽光を反射してきらきらと光る。彼の座るあたりはちょうど陽が差し込んでいるため、語り部がスポットライトを浴びているかのように見えた。
「私は食客と言ったが、実際には物心ついた時からここに住んでおり、それ以前の記憶はないに等しい。館の敷地から出た記憶はなく、また、この館からも滅多には外に出ない。そのため得られる情報には限りがある」
ちらりと天窓を見遣ると、瞼を伏せるようにして、話を続ける。
「畑を見ただろう。ここではほとんどの食物は自給自足している。塩や僅かな物資のみ、たまに訪れる行商人と、ここで生産したものと交換で得ているらしい、ということは知っている。そのやり取りはこの館の使用人たちが行っているため、私は具体的には知らない。外のことが知りたくて何度か本をリクエストして子供向けの絵本や娯楽小説は入手したことがあるが、それ以外のことはほとんど知らない」
サタンに眼差しを送る。瞳がきらりと光ったように見えた。
「だから外の人間と話をするのは実は初めてなのだ。普段は行商人の他に来客はないようだし、ましてや自分から進んで牢に入る人間も初めてだ。それで、オマエがなぜここに来ようと思ったのか、知りたかったのさ」
そこまで一息に話すと、疲れたのかふぅ、と深い息を吐いた。彼の話が正しければ会話はあっても昨日の執事たちとだけのようだし、実際に話をすることにあまり慣れていないのかもしれなかった。
サタンはこの男に興味を抱き始めていた。厳密にはこの男にではなく、彼が話した内容の一部についてだ。『行商人と物資のやり取りをしている』、これはサタンが得た情報の一部に関連がある。探りを入れてみることにした。
「俺は実は不治の病ってやつでな。今まで病状の進行を抑える薬を使っていたんだが、そいつが底をついてよ。なんとか入手できねぇかと情報をかき集めて、辿り着いたのがここってわけさ」
サタンの話を聞き、ベルゼブフは眉を顰めた。
「それは大変だな。心情を察して余りあることだ。病状を詳しく尋ねるのは不躾になるだろうか。命に別状のあるものなのだろうか」
あまりに深刻そうに心配をしてくるため、サタンは肩透かしを食らってしまった。慌てて前言撤回をする。
「おいおい、冗談だぜ、間に受けるなよ。そんな病気のやつが単身ここに乗り込んで自分から牢に入るかよ」
「む……それもそうか」
再びサタンの言葉を間に受けて、ベルゼブフは眉間に皺を寄せた。初めは人間みのない石像のように感じていたが、こうして話してみるときちんと血の通った人間であることを実感する。
「ったく、とんだ箱入りだぜ」
「……? 箱……?」
下手に濁すと言葉通りに受け取ってしまい、話が通じない。これは直球で尋ねるしかなさそうだとサタンは判断した。
「探し物をしている。病気は嘘だが、それに近いものを抱えている。信じるかはオマエに任せるが」
一度言葉を切り、ベルゼブフをまっすぐ見る。彼には純粋な好奇心、知識欲はあれど、他人を茶化す、あるいは否定するような意思は感じられない。元よりさほど恥じることもなくそれなりに堂々と生きてきているつもりだが。
彼の前では、自分の方が見定められる側なのだと、なぜか感じてしまうのだ。
この話を他人にするのは、初めてだった。
「俺は、呪いがかけられている。そのせいで老いることはねえが、逆にもう百年以上生きている。それがどういう意味かわかるか?」
サタンは真剣だ。これは冗談ではなく、歴然とした事実だからだ。
ベルゼブフが首を傾げる。館の外で暮らしたことがないのであれば、わからなくても当然かもしれない。
「人の群れの中で生きられねえんだ。……ま、別にそれ自体に困ってるってわけじゃねえんだがよ。何かと不便だ。長くても十年程度で定期的に住処を変えねぇとならねえし、仕事も探すのが面倒くさいし、その他諸々、面倒なことが多い」
話を信じたのかどうかわからないが、ベルゼブフは何も言わずに無言で聞いていた。下手に同情されるよりその方が居心地がいいとサタンは感じた。
「仕事とは、何をしているのだ?」
控えめに、だが隠しきれない好奇心を瞳に湛えてベルゼブフが尋ねる。
「ん? ああ……そうだな、猟師みてえなもんだな。あちこち旅して悪さする獣を退治してんのさ」
だから住まいがあっても常にそこに滞在しているわけではないのだが、とはいえ顔を覚えられる程度の交流はある。仕事の都合もあり、老若男女善人悪人問わず話をするし、それ自体は楽しいのだ。ただ、サタンにとって居なければ困る、必要とする特定の他人がこれまで存在しなかっただけで。
「話を戻すが、そういうわけで自分にかけられた呪いを解く方法を探している」
その後も、サタンは自身のことを語った。
とある伝手で呪いの症状を抑えられるという薬を買い、実際に効果があったため少しずつ飲んでいたこと。薬がもうすぐ無くなりそうなこと。薬を買った相手から製造元を突き止めたが、彼らも口伝で伝わった製法通りに製造しているだけということ。どうやらある特殊な原料が関係していそうだ、ということを突き止めた。そして、その原料はこの館から仕入れたらしい、ということも。
「これが俺がここに来た目的さ」
穏便に交渉ができる相手だとはサタンも最初から思っていなかった。なにせ得体の知れぬ呪いに対抗できる力のある材料だ。まともなものではあるまい。
だが、サタンは殺人鬼ではない。相手に戦う意志があるのであれば自身も武力で応えるつもりであったが、その気がない相手を嬲り殺すのは美学に反する。だから、最初に穏便にことを済ませられるかどうかを確認したのだ。
そして今に至る、というわけである。
話を聞くなりベルゼブフは神妙な面持ちになる。
「……関連があるかわからないのだが、少しだけ心当たりがある」
サタンが片眉を持ち上げてニヤリと笑う。
「へえ、言ってみな」
「私は外の世界を知らない。だが、この館がいささか普通ではないことは承知している」
やや俯き、伏目がちに視線を逸らしながらベルゼブフが語り始める。
「この館では食糧は庭園で育てたもので賄っているが、それ以外のものは定期的に訪れる行商人から購入している。使用人たちの衣服、ランプ用のオイルや蝋燭、陶器、金属類、本など、他にもあるが、ここで生産が難しいものだ。外の世界のモノの価値を私はよく知らない。だが、明らかにここで生産した食料品だけで賄えるものではない、と感じる」
サタンも頷く。庭園では多種の野菜、果実、穀物などが育てられていたが、どれも市場に一般的に出回っているものだ。菜園の規模的にも、この館で暮らす住人全員の分を賄い切れるかどうか、というところだろう。外貨の代わりとするにしても量、質共に不足しているのは明らかだ。
「満月の晩に行われている『儀式』が何か関係しているのではないか、と考えている」
「……ほう」
満月の晩。ちょうど明日だ。
「普段は儀式はここで行われている。だが今はオマエがここにいるから、おそらく離れで執り行うだろうな」
ここ、とは今ふたりが話をしている地下牢だ。訪問客の少ない山奥の館にこのように頑丈な地下牢があるというのは何か訳アリだろうとサタンは考えていた。そもそもこのような人里離れた山奥に館を建てて外界との交流を最低限まで減らして暮らしている時点で多かれ少なかれ訳アリでしかないのだろう。
逸る気持ちを抑え、深呼吸する。
「儀式ってのは何をしているんだ? 俺が聞いても構わねぇかは知らんが」
尋ねると、ベルゼブフは表情を曇らせた。
「実は、私にも何をしているのかはよくわかっていない」
サタンは眉を顰めた。それを見たベルゼブフが苦笑する。
「秘密にしようという話ではない。私には本当に何をしているのか、よくわからないんだ。儀式の最中はどうにも頭がぼうっとしてしまって、意識はうっすらあるのだがおよそ私自身の意思が消え失せる。我を取り戻したと思ったら、それは終わっているのだ。だから説明が難しい」
困ったように微笑むので、本当にわからないのだろうとサタンは思った。
しかしそれ以上に、困っているはずなのに、笑って誤魔化そうとしているベルゼブフにサタンの胸が痛む。ベルゼブフは自身の身に何が起きているのかよくわかっていないのに、笑って誤魔化す男なのか。
「何をしているのかと何度か尋ねたことはあるが、全て『大事な役目』としか教えてもらえなかった。だから私も尋ねるのをやめてしまった。ただ私が勤めを果たしていればそれでいいのだと、考えないようにしてきたのだ。だが」
ベルゼブフは深いため息を吐く。刹那、躊躇うかのように留められた言葉は、拳を固く握り締め、サタンをまっすぐに見つめる眼差しとともに紡がれる。
「もしかしたらオマエがこの現状を打ち破るきっかけになるのかもしれない、と、少しだけ期待している」
ベルゼブフの声音は震えている。だが、眼差しには光があった。
サタンがニヤリと笑った。白い歯が光る。
「面白え。気に入ったぜ、オマエが。俺は抗う者が好きなんだ」
腰を上げる。距離を取って座っていた壁際から、ベルゼブフの隣へ移動する。
「で、これからどうする? 俺は呪いを解く手掛かりが見つかりさえすりゃ、他はどうでもいい。オマエが望むなら終わった後にここから出ていく手助けをしてやる。何にしてもまずは情報だな。知ってることを分かる範囲でいい、話してくれ」
それは悪戯を計画して浮かれている少年のようだった。天窓から差す陽光を受け、サタンの黄金の髪がきらめく。
実際にはそんなことはないのに、この一声だけで、森羅万象この世の塵に至るまでが味方になったかのような心強さをベルゼブフは感じた。
だが喜びも束の間、表情を曇らせてしまう。
「感謝する。……だが、外の世界、か。夢想はしていたが、実際に行くことは考えていなかった」
「なぜだ。まあ、普段からそんな格好してたら、いくら道はあっても山を降りるのは難しいだろうが……」
伸びっぱなしで足元まであるのではと思われるような長い髪、布を簡単に縫い合わせただけのような簡素でゆったりとした全身を覆うローブ、そして裸足。動きづらいのは元より、裸足で山道を歩くのは至難の業だろう。
サタンの言わんとすることを察してか、ベルゼブフが笑う。
「ああ、そういう意味ではない。私は実際にこの館の敷地から出られない。オマエの言葉を借りるなら、そういう呪いがかけられている」
「……」
サタンは驚かなかった。彼自身の呪いについて話した時、ベルゼブフはそこに何の疑問も抱かなかったからだ。何か似たような事情を抱えているだろうとは察していた。
「館の周囲は森に囲まれているが、森の中に入ってしばらく進むと方向がわからなくなる。何度も何度も館が背後にあることを確認するのだが、気がつくと数歩先で森が開けていて、その先に館がある。麓へ続く道も同じだ。まっすぐな一本道だと聞いていたのに、気がついたら目の前に館の門がある」
ベルゼブフは無意識にか、足を撫ぜる。今は傷ひとつないが、その時は裸足で森の中を歩いて、足は傷だらけだっただろう。それを何度も繰り返した程度には、外の世界への渇望を胸の内に秘めているのだ。
「私はこの館から出られるかどうかはわからない。だが、オマエが自身の呪いを解く手掛かりを探しているということであれば、私の呪いもいつか解けるかもしれない。それが分かっただけでも、私には重畳だ」
ふふ、と控えめな微笑みをこぼすベルゼブフを見て、サタンは内心怒りを抱えていた。ベルゼブフに対してではない。彼をここに閉じ込めた者に対して。
ここで『勤め』を果たしていれば、彼の衣食住は保証されるのだろう。外敵は執事たちにより排除され、無知は安寧をもたらす。このまま何も知らず何も考えずゆるりと朽ち果てるまで暮らすのも、またひとつの幸福の形ではあるだろう。
だが、ベルゼブフはそれを望んでいない。諦めを口にはするが、『外』から来たサタンと出会ったことで、その好奇心は膨らむばかりだろう。
人は初めから希望を抱けない状況よりも、希望を抱いてから絶望する方がはるかに落胆が大きい。ベルゼブフはそれを身をもって知っており、だからこそ希望を抱きそうになる自身を抑えようとしているのだろう。
サタンは口には出さなかったが、心に誓った。自身の目的のためだけに訪れた館だが、ベルゼブフも必ず共に連れ出そう、と。
「……事情は理解したぜ。何にせよ情報が必要だ。まずはその儀式ってやつだが……まずは何してるのかから探らねぇとな。ベルゼブフ、オマエがその儀式の時間、意識が朦朧としちまうのはなんとかできるのか?」
「それは難しいだろうな。これも私の呪いに関係していると推測されるが、月が昇り始める時間から徐々に頭がぼうっとし始めるのだ。そもそも儀式の慣わしでな。明日は朝から食事を抜かなければならない」
それは低血糖では? とサタンは思ったが、黙っていた。
「日が完全に沈むと、迎えの者が来て私を部屋からここへ連れてくる。そして満月がもっとも高く昇る真夜中に儀式を執り行う、という手順だと聞いている」
彼自身その間は意識がはっきりしないということだから人伝てに聞いた話だろうが、使用人たちがベルゼブフに嘘をつく理由も今のところ見当たらないため、ひとまずはそれが正しい情報であると仮定して考えを進める。
「儀式の最中は外から鍵がかけられるだろう。邪魔をされると困るからな。私は月が沈む夜明け前頃にようやく自分の力で動けるようになる。その後三日三晩はそこで過ごすが、その間は鍵は開けられていて、私自身は自由に館内を歩ける」
聞いているサタンは正直意味がわからず、つっこみたい点ばかりだったが、如何せん自身ですら常識で測れない呪いを帯びた身だ。詳細は儀式とやらの実情を確認してからにしよう、と考えた。
「今回は俺がここにいるから、離れで行うと言ったな。俺がそこへ儀式の詳細を探りに行くことはできるのか?」
尋ねると、ベルゼブフがうむ、と小さく頷く。
「まさにそれを頼みたいのだ。この部屋で執り行う場合はそれも難しかったが、離れの方がおそらく隙があるだろう」
地下牢の出入り口はひとつ。サタンがここに入れられる時にも使用した、分厚い鉄の扉だ。天窓もあるのだが、おそらく見張りがいるとのことだった。彼自身は儀式の当事者のため当然見たことはないのだが、当番について話しているのを聞いたことがあるという。
ふたりとも筆記具はなかったが、指で敷地内のおおよその配置を描いて確認をする。
離れは敷地内の北西にある小さな小屋だ。普段は物置として使用されているらしいが、昨日サタンをここへ閉じ込めたため、今日は朝から物置の整理が行われているという。それに加え、
「ここは石で造られた部屋だし地下にあるため仮に外から覗けても、声までは聞き取れないだろう。だが離れは木造だ。壁もここに比べれば薄いし、外からでも様子を探りやすいはずだ」
とのことだった。
敷地内の建物の配置、導線をひと通り確認し終えると、サタンはベルゼブフに尋ねた。
「ベルゼブフ、普段はどんな生活をしてるんだ」
旅から旅へ、依頼があれば西へ東へという生活をしているためか、サタンは一箇所に長く留まったことがほとんどなかったし、それが性分にも合っていると感じる。人付き合いは嫌いではないし、他人のことを覚えるのも得意なため、一度会った人間の名前、顔、性格、職業など聞いたことは大抵覚えている。本当に一度しか会ったことがない人間も数多いが、そういう一期一会の出会いも楽しめる性質だ。
だから限られた空間で限られた人間とのみ接して長いこと暮らしているというベルゼブフの生活は、サタンからしたら想像もつかないのは当然のことだった。
「む……どんな、と言われても、私からしたら日常だからな、改めて語るのは難しい」
そう言いながらも、ベルゼブフは真剣に考え、そして楽しそうに話し始めた。
「私自身はこの儀式以外に特にすることはないのだ。ふむ…そうだな…。天気がよければ敷地内を散歩して、花を眺めたり、鳥の囀りを聞いたりしている。以前、気持ちがよかったので外で眠っていたことがあり、地面に寝転がるのはやめろと怒られ、日当たりの良い場所にベンチが設置された。以降はよくそこで昼寝をしている」
他にも、雨の日は主に本を読んでいるが、新しい本というのはそう頻繁には増えないため、同じ本を何度も繰り返し読んでは、書かれていることへ想いを馳せていること。ごく稀にベルゼブフに構ってくれる使用人がいるため、話し相手になってもらうこと。夜空を眺めて星を数えていること。星の並ぶ法則を見つけようとして観測していたが、筆記具を持っていないため結局やめてしまったこと。花びらの枚数を数えたりしていること。虫を追いかけて森に迷い込んでしまったことなど。
サタンからしたらずっと続いたら退屈してしまいそうだったが、外の世界を知らないがゆえか、ベルゼブフはそれでも一定の満足はしているようだった。だが、足るを知る者は富むと言うが、ベルゼブフは富を得ているとも言い難い。彼はもっと広い世界を知り、それから何を以って足るとするかを自身で選ぶべきだろう。
その他にもふたりは他愛のない話をした。特に百年もの間旅をして暮らしているサタンには話の種が尽きず、ベルゼブフはずっと楽しそうに聞いていた。
日が落ちる頃、肉体が空腹を訴え始めたところでベルゼブフが名残惜しそうに自室へ戻る、と立ち上がる。
「館の者は私の動向など気にかけていないが、いくつかある日課をサボると不審がられるだろう。今はそれを避けるべきだろうな」
持ってきたトレーと食器を拾う。本当は夕食も持ってきたいが、この後は都合が悪い、と申し訳なさそうにしているが、どう考えてもベルゼブフの責ではない。気に病む必要はないことを伝える。
翌日はベルゼブフは朝から儀式の準備に追われるため、深夜のうちに鍵を開け、簡単に食べられそうなものをいくつか物色して扉の中に置いておく、と伝えると、地上に続く長い階段を上り始めた。時折ちらとサタンの方を名残惜しそうに振り返るため、姿が見えなくなるまで見送った。
じきに日が沈む。夜中にベルゼブフが鍵を開けに来るというのであれば、今のうちに睡眠を取っておいて深夜から行動を始めた方が良いだろうと踏んでサタンは寝台に転がる。
明日は満月。ベルゼブフの呪いも月に関係のあるもののようだが、サタンにも無関係ではない。呪いを抑える薬はあと一回分。これを飲み切ってしまうのはリスクだが、致し方ない。その時はその時だ、と割り切る。
先ほどまで寝台に背を預けて話していたベルゼブフを想う。彼の境遇には同情するし、自由を求めて抗う意思があるのであれば力にもなりたい。
だがそれ以上に彼とは初めて会ったとは思えないほどの何かを感じていた。
彼は必ず助け、共にこの館を出なければならない。サタンの勘がそう告げている。
具体的な方法は後で考えよう。そう思い、サタンは瞼を下ろした。
(続)
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