◆
それは、数年に一度という物凄い嵐が街を襲った、翌日のこと。
まさかあんな出会いが待ってるなんて
……俺は、想像もできなかった。
今日もパン種を仕込むため、早朝から起き出し工房へと向かう。竈門ベーカリーは代々この街でパン屋を商っているので、開店から買いに来てくれる常連のお客さんが沢山いるのだ。彼らは雨だろうが雪だろうが嵐だろうがやってくる。そんなパン好きな人たちに応えるため、店主であった父が亡くなってからも、俺、竈門炭治郎は一日として欠かさずパンを焼いている。高校生が働けるのは朝晩だけなので生活は苦しかったが、家族みんなが協力してくれていて、俺は、この慎ましい暮らしに十分満足していた。
その日、いつものように身支度をして出掛けると、台風一過の空は透き通るような青色で、まだ肌寒い気温にもかかわらず、今日は暑くなりそうだと直感した。一旦戻って水筒に氷を入れ、塩飴をポケットにしのばせてから再び玄関を出る。これで暑さ対策は万全だ。けれど暑すぎてあまりパンが売れないかもしれない。今日は焼成数を減らした方が良さそうだ、発酵はむしろ早く済むだろうし、教室で予習ができるかもしれないな
…などと思案しながら歩いていると、道のど真ん中で『それ』が、行き倒れている姿が目に飛び込んできた。
「!? えっ
…あの
……だ、大丈夫
…ですか
……?」
困っている人を見過ごせない質でつい、思わず声を掛けてしまったが、『それ』は
……いや、『彼』は、その時の俺にとっては見るからに怪しい姿をしていた。
黄色い髪、黄色い羽織、裾を絞った股引のような下衣に、足元は植物性の蔓を編み込んだ履き物で、恐らくは草履とかいうものではないだろうか?昨今こんなものを常用している人がいるとは思えないが、『彼』がそれを履いているのはごく自然に思えた。なにせ『彼』は
……体長が、ほんの10センチほど
……俺の片手に乗るくらいの大きさしか、なかったのだから。
(これは
…人、か?人形のようだ
…でも汗と血が
……それに、あれは
……涙
…?)
返事がないので恐るゝ手を差し伸べるが『彼』は気を失っているらしく身動きひとつしなかった。脇道とはいえ公道にこのまま放っておけば、いつかは往来する車に轢かれてしまう。でなければ野良猫や鴉の餌食になってしまうかもしれない。どちらも気分の良いものではないだろう。『彼』にとって見知らぬ巨人となるであろう俺に連れ去られるのと、どちらがマシだろうかと一瞬迷ったが、『彼』が小さく呻いたのが聞こえて、共に連れていくことを決心した。
『彼』は譫言で泣いていたのだ━━「助けて」と。
工房へ着いて早々に冷房を強め、よく風の当たる場所に椅子を置くと、その座面に布巾を敷いて『彼』を横たわらせた。着物の袷を少しずらして楽にする。草履も脱がせ、足元に揃えておいた。するとあちこちに擦り傷や切り傷、打撲傷だろうか、怪我をしているのが見てとれた。左足首が特に酷い。真っ赤に腫れ上がっていて、これは歩くのも辛そうだ。血を見た時から分かっていたことだけれど、こんな小さな身体に無数の怪我を負っていて、一体何があったのかと心配でならない。ともかく手当てをしようと、手拭いをぬるま湯に浸して、顔や手足の汚れをそうっと拭き取っていった。本当は着物も洗濯したいほど泥や埃で汚れていたが、流石に『彼』の同意を得ず服を脱がすことは躊躇われたので、やめておく。『彼』は身動ぎしたものの目は覚まさなかった。
救急箱から湿布を探し出し、小指の爪くらいの大きさに切って一番痛いであろう左足首にそっと貼り付ける。出血を伴う細かな傷には軟膏を塗る。少し考えて、水筒から氷を一つ取り出し、砕いて粒にしたものを綿布に包んで小振りの氷嚢を作った。それを左足首の患部に当てて、冷やしてやる。これで少しは痛みが引くかもしれない。身の丈10センチの人の掛け布団代わりはハンカチで事足りた。『彼』はまだ眠っている。耳を近付けて穏やかな呼吸を確めると、今できることは一通りやったと感じたので、静かに救急箱の蓋を閉じた。
容態を案じながらも製パン作業に取り掛かる。
火を入れた窯の近くにパン種を置き、発酵を促す。発酵が済むまで惣菜パンの具材や菓子パンに包むクリーム、ジャム、餡などの調理を次々にこなしていく。手慣れた作業は考えずとも体が勝手に動いてくれる。時折『彼』の具合を確かめるため手を休めながらも、きっちり少な目に準備したパンの焼成は滞りなく進んでいった。
全てのパンが香ばしく焼き上がる頃、聞き慣れない声がぽつんと呟くのが耳に届き、うっかり吹き出した。少し高めで、掠れた小さなその声が、「ごはん
……」と、切なげに呟いたものだから。
「おはよう。気分はどうだ?」
腰を落とし目線を『彼』に合わせ、囁くように語りかける。ただでさえ俺は大きいのに、これ以上脅かしてしまったら申し訳ない。『彼』は、まだぼんやりしていて状況を把握できていないらしい。けれど、そのお腹からキュクルルル、と可愛らしい音が聞こえてきた。こんなに小さな人でも、俺たちと同じ空腹の音がするのだなぁと妙に感心してしまう。焼き上がったばかりのロールパンをひとつ、『彼』にどうかと思ったが、手の平大のロールパンでも彼の体と同じくらいの大きさだ。ちょっと多すぎるかもしれないと考えて、ロールパンを四つ割りにする。ふんわりと軟らかな生地から香る焼き立てパンの匂い。この優しい匂いが『彼』の不安を拭う助けとなってくれますように。一欠片をそっと『彼』の手元に置く。ほんのり甘くて温かい匂いに、『彼』はガバッと布団から起き上がり、パンの欠片に飛び付いた。
「むぐ、はむっ、んんん!」
「落ち着いて。ゆっくり食べるんだ。パンは逃げないよ」
「んー!ムンンム!」
「うん
…?なんだろう?」
『彼』が必死に胸元を叩き、何かをジェスチャーしている。手に掬って口に運ぶ仕種
……をしながらも、モグゝとパンを口一杯に頬張っているのでまるでハムスターかリスを見ているようで微笑ましくて仕方ない。『彼』が憤慨してンムンム!と唸りながら暴れるので、慌ててコップ代わりになる器を探しに行った。『彼』が、喉が渇いた!と主張しているのは明白だ。俺だってパンを食べるなら飲み物がほしくなるものな。だが、俺のコップでは大きすぎる。さきほどは両手で掬って飲むような素振りだったけれど、折角ならきちんとした食器を使わせてやりたい
……あぁ、花子のままごと道具に、丁度よい小さな食器があったなぁ。あれ、少し借りられないだろうか。
工房にあるものでコップ代わりに使えそうなものは見当たらなかった。仕方なく一番小さな匙で、水筒からお茶を掬ってそっと口許に差し出してみる。『彼』は匙を奇異の目で見たが、喉の渇きに負けたのか、大人しく匙の端に口を付けた。
(おお、飲んでる。飲みにくそうで申し訳ない
……それにしても、なんだかこれ
……三三九度みたいだな
……)
平たい匙が『彼』の両手にあると盃に見える。緊張してるのか性格なのか、『彼』が正座をしているせいで余計に想像を掻き立てた。彼らのような小さな人たちがどんな儀式をするのか知らないが、聞けるものなら是非知りたいと好奇心が疼く。もし『彼』と友達になれたら、色々聞いてみようと期待に胸を膨らませた。
けぷ、と小さく音をたてて、『彼』は満足したようにちょっぴり膨らんだお腹を撫でた。四つ割りロールパンをペロリと平らげて、匙二杯分のお茶を飲み干して、ようやく人心地が着いたようだ。『彼』は辺りをきょとゝと見渡して、見知らぬ場所に連れてこられたことを把握した。寝床の布巾と、ハンカチとを触って確めている。簡易氷嚢に触れた時は冷たさに驚いたのか、「ヒャッ」と甲高い悲鳴を上げた。身体のあちこちに塗られた軟膏の匂いをクンゝと嗅ぎ、それから足首に貼られた湿布に気付いた。萼を思わせる小さな手のひらが、細い小枝のような足首をそ、そ、と撫でている。まだ痛むのだろうか?『彼』は少し震えているようだ。震えながらもゆっくりと顔を上げて
……目が、合った。
ぱちっ、ぴりっ、小さな火花が弾かれる。なんだろう、これは?こんなこと、初めてだ。
鳶色の瞳を白茶が縁取る印象的な琥珀が二粒、俺をじっと、見つめている。その唇がフウゥーッと強めに息を吐き、次に開かれた時、涙ながらに声を張り上げた。
「ありがとう助かったよ~!この恩は忘れないよ~~っ!!お前は命の恩人だよ~!!!」
暫し感動に浸る。『彼』は、俺に向かって話しかけてくれた。つまり、会話ができるということだ
……意思疏通が図れるということだ!しかも俺のことを恐れていない。勿論、俺に悪意があるわけではないけれど、見知らぬ人に見知らぬ場所へ連れてこられたら、矢張り怖いものだろうと思う。その相手が、自分より何倍も大きい相手なら尚更。小さいけれど『彼』は勇気がある。強いんだなぁ。
沸き起こる尊敬の念が、自然、姿勢を正させた。
「気にしないでくれ。人のためにすることは、巡り巡って自分のためにもなっているものだから。それより、具合はどうだ?」
「随分よくなったよ
……実は、昨日から何も食べてなくって
……今まで食べたご飯の中で、一番美味しかった。ご馳走さま」
「え?!そ、そうだったのか
……でも、どうしてそんなことに?」
「うん、まぁ。俺って、運が悪かったんだよね」
決まり悪そうに頭を掻く、『彼』。俺が拾った小さなお人は、『ぜんいつ』と、名乗った。
ぜんいつは、昨夜の嵐でこの街まで吹き飛ばされてきたという。元の住み処が何処であったか、地図の読めない彼には、地理がわからなかった。それでもあっけらかんとしたもので、「まぁどこでもそれなりにやってくよ」と大して落ち込みもせずに云う。判断が早い。切り替えが巧い。ぜんいつの大らかさに、またも感銘を受けた。
ぜんいつは特に怪我の手当てや食事の世話をとても有り難がった。何分突然の天災に見舞われたもので、今後は身一つでやっていかねばならない。土地勘がなく、顔見知りもいない街中を、怪我と空腹を抱えて独り流離うのは、非常に心細いことだった、とぜんいつは身を縮こまらせて嘆息した。
勝手に連れてきたことを申し訳なく思っていたが、どうやら正解だったらしい。ぜんいつの話からすると、寝泊まりにも困る緊急事態だったようだ。本当に拾ってもらえてよかった!と、ぜんいつが泣いて感謝するので、此方まで気分が昂って目頭が熱くなる。暴風雨に飛ばされ、身体中を怪我し、ご飯も碌に食べられず、家族と離れゝになってしまうなんて、とんだ災難に遭ったものだ。物凄い苦労だなぁ
……ほろり。
幾らでも話をしていたかったが、いつの間にか時間が押していた。これでも製パン作業は早めに終わったのだが、ぜんいつと話している間にかなり時間が過ぎていたらしい。登校時刻に間に合わせるには、そろゝ出ないと電車に遅れてしまう。かといってぜんいつとこれでお別れするなんて、とても寂しい
……離れたくない
……そう思っている自分に驚きながら、ぜんいつに自分の事情をすっかり話して聞かせた。そして、できれば、自分が帰宅するまで此処にいてほしい、と願い出る。
「
……いいの?俺、此処にいても?」
「! 勿論だ。ぜんいつが良ければ是非そうしてくれ。夕方には帰ってくるから」
「
……分かった。実は俺、もっとソレ、食べたいと思ってたんだ」
ロールパンの残りを嬉々として受け取り、氷嚢の中身を舐めて喉の乾きを癒すと決めたぜんいつは、ハンカチを風呂敷に、それら一式を包んで背負う。身を隠す場所がないかと聞かれたので、工房の隅に設置された食材置き場へ連れていく。ぜんいつは早速粉袋の隙間に潜り込んで姿を消した。ちらりと覗くと、小さな人影がごそゝ身動きしている。塒のようなものを拵えているらしい。覗き見している俺に気付いたぜんいつは、笑いながら手を振ってくれた。
「いってらっしゃい!戻ったら、呼んでね」
素敵だ。できれば自分も一緒に小さくなって、彼の住み処にお邪魔してみたいものだと思った。
調理道具をざっと片付けた頃、母親が寝坊助な妹の禰豆子を連れて工房へとやって来た。工房とそれに併設する店舗は自宅とは離れにあるので、いつも俺が先に工房へ来てその日に売るパンを焼いている。それから下の兄弟たちの朝の支度を済ませた母親が、店を開けるため、家族を連れて遅れてやって来るのだ。下の兄弟たちを学校まで送るのは俺の役目で、日中店と工房へは母親か一番下の六太くらいしか出入りしない。ぜんいつが見つかることはないだろう。
ぜんいつの承諾を得た俺は、いつものように
……いや、いつもよりほんの少し朗らかな気分で店を後にする。帰ったら、ぜんいつと話したいことが山ほどある。ぜんいつは俺を待っていてくれる。俺は、安心して学校へ向かった。
登校中、授業中、休み時間も、お昼時も、真面目に学校生活に取り組んでいたつもりだった。けれど、ふとした拍子に気付くと、いつの間にか彼のことを考えている。小さな身体に秘められた、大きな心
……彼、ぜんいつ、というお人のことを。
どんな風に暮らしを立てていたのだろう。何を食べて、どんなことをして、どのようなことを思いながら日々を送ってきたのだろう。衣や履き物は一昔前の俺たちと似通っていたから、少し前の時代━━例えば電化製品や自動車のない頃━━の生活を思い描けばいいのだろうか?でも、彼らには郵便や新聞などの情報伝達が難しそうだし、そもゝ地図すら知らなかったのに、文字という文化が生まれているだろうか?口頭語は発達しているようだけど、仲間同士でも同じ言葉を話すのかな?気を遣って俺にだけ分かるように話してくれたのかもしれないし
……あぁ、ぜんいつに聞きたいことがどんゝ増えていく。こんなに一遍に話したら、ぜんいつが疲れてしまうぞ。病み上がりなのに無理はさせられない。だけど、でも
……ぜんいつの話が聞きたいなぁ。
電車で変質者を捕まえた時も、冨岡先生から逃げ惑う間も、意識がフワゝと工房に隠れているであろう彼の元へ飛んでいた。今日の俺は気も漫ろで、下校時刻が只管待ち遠しい。この眼でもう一度、確かめなくては不安だ。夢を見ていただけだったらどうしよう?本当は、ぜんいつはいないのかな?そう思うと悲しい。悲しくて胸がジクゝ痛む。同じクラスの伊之助に「なにソワッソワしてやがんだ」と頭突きを食らい、漸く正気を取り戻したほどだった。
「伊之助は、小さなお人に出会ったことがあるか?」
「は"ぁーん?」
猪に育てられ、今も山野を駆けずり回っている伊之助なら、小さなお人について何か知っているかもしれない。ぜんいつのことを仄めかすのは躊躇われたが、少しでも彼のことを知れるなら、聞いておいて損はない。俺たちによく似た姿をした、けれども、身の丈10センチほどの人々のことを━━期待を込めて問い掛けてみると、伊之助は眉目を顰め、握り飯に齧り付きながら面倒そうに応えた。
「ババアが云ってたな、そんな奴のこと」
「えっ!?ひささん、何か知っていたのか!?」
「さぁな。俺に分かったのは、ちっちぇー奴らはつまんねぇってことだぜ」
「つまらない?」
伊之助は何を評してそんな風に云うのだろう。少なくとも俺は、ぜんいつに出会えた瞬間から此方、ずっと興奮覚め遣らぬというのに。
「色んなとこに隠れて、いつもウジャコラ集まってんだと。一匹じゃ弱ぇからな。放っといても死ぬから、俺が手ェ出すまでもねぇんだ」
「死
……って、それは、いつかは寿命が来るだろうけど」
「違ぇよ。群れから離すと死ぬんだよ。そういう弱っちいイキモノなんだ。だからババアは見つけても、見ない振りをして、放っておけって」
「え」
「巣から落っこちた雛鳥みてぇなもんだろ。あいつらもすぐ死ぬしな」
間食の握り飯を平らげ、指をぺろりと舐めた伊之助はつまんねぇ奴らだ!と鼻を鳴らした。耳障りな言葉たちが脳裏を滑って行く。親を失った雛と、小さなお人を同列で語ってよいものかは疑問の余地があるが、ひささんが伊之助に伝えようとした内容は、確り理解出来ていた。
ひささんの言が本当なら、ぜんいつが一人でいるのはよくないことだ。なぜ、小さなお人たちは集まっていないと命に危機が迫るのか
……いや、俺は
……既にその答えを知っている
……
(現に、ぜんいつは、死にかけていたんだ)
野鼠や土竜、小鳥、蜥蜴、蛙、昆虫など小さな生き物たちは、小さいというだけで大きな不利を被っている。他の生き物の餌食となるだけでなく、人や車に踏み潰される危険があるし、寒波や日照りなど気候変動の影響も甚大だ。彼らは土の中や木の虚に籠ったり、活動時間を夜に絞ったり、擬態や冬眠や仮死したりと様々な知恵を絞って一生懸命生きている。それでもやはり彼らは、俺たち大きな生き物と比べると、短命であると云わざるを得ない。
ひやり、冷たい感覚が背筋を這い上がる。
彼の話を聞きたいと思った。友になり、彼の暮らしの様々なことを知りたいと。けれど、その好奇心は、彼の
……ぜんいつの、生命を脅かす可能性があったのだ。
なぜ、俺は、今まで小さなお人に出会ったことがなかったのか?俺だけではない、世の中大抵の人たちは、小さなお人が存在することすら知らないだろう。それは、彼らが巧妙に俺たちから身を隠して暮らしているからだと伊之助は云う。小動物は、圧倒的な捕食者たちの目を逃れるため、常に隠れながら生きている。自身の命を守るために。それと、同じことではないだろうか。
(秘密を暴くことが、命を奪うことに繋がりかねない。俺は
……無意識に、彼を危険に晒すところだった
……!)
懸命に動揺を抑え、机の下で拳を握り締める。危なかった。自覚できてよかった。腹が満たされた友は、話に飽きて眠る態勢に入っている。授業が始まっても伊之助の起きる気配がないように、俺の気も、休まることはなかった。
小さな、小さなお人、ぜんいつ。彼は人だ。小さいけれど、小さな人だ。俺たちと同じように話し、食べ、怪我もするし、眠るし、泣いたり、笑ったり、怒ったり、喜んだり、悲しんだり、思いやったり、そういった感情や思考を、俺と共有することもできていた。心があるのだ。そうであるならぜんいつには、どうしたって仲間が必要だ。人は、一人では生きていけない。助け合わなければならない。でもぜんいつは、元の家には帰れないといった。ならば、代わりに。代わりに━━
俺が、
(いけない。駄目だ。そうじゃない
……助けてやらなくては。探すんだ。仲間を。きっと見つかる。頑張ろう。俺に出来るのは、頑張ることだ
……)
じりゝと心を乱す焦燥に焼かれながら、炭治郎は、授業が終わるのを待った。
木立の下生え。石垣の割れ目。建物の狭間。積まれたがらくたの奥━━鴉が鳴く先に目を凝らし、鳩が休む木陰に耳を澄ませ、雀が跳ねる日溜まりの匂いを嗅ぐ。見つからない━━小さな集落はおろか、その人影や痕跡すら一向に見当たらない。そもゝ小さき人が実際に存在していたことが驚きなのだから、当然彼らは簡単に見つかるような所にいないのだ。
「もういいよ、炭治郎がいてくれるから大丈夫」
胸元から強がる声がする。照り付ける夕陽を避けて、シャツの胸ポケットにちんまり収まっているぜんいつは、俺の不安を一笑に付した。俺たちの寿命はお前らより長いよ、と。思ってもみなかった真実に度肝を抜かれた。小さなお人は優に三桁年生きるという。つまり江戸時代から生きてる小さなお人もいるということか
……想像を絶する。
「申し訳ないが
…俺じゃ駄目なんだ、ぜんいつ」
だが、それとこれとは話が別だった。確かに寿命の長さにちょっと安心したのは認める。でもだからといってぜんいつが死にかけていた事実は消えない。
まだ日中の蒸し暑さが残る夕刻、少な目に出したパンが殆ど売り切れていたので、店は早仕舞いして買い出しに出た。製パンの粉類や調味料は業者に頼むが、具となる青果は鮮度を求め近くの農家に卸して貰っている。明日必要となる食材を仕入れるため、近隣の山へと入っていった。勿論、ぜんいつを連れて。諦めるつもりはない。
きっと何処かにぜんいつの仲間はいる。必ず見つけ出してみせる。それまでは俺が面倒をみよう。だが俺は、ぜんいつにとっては『大きいひと』だ。本当の意味でぜんいつの仲間になることは、不可能なのだ。
「どうしてよ?俺、俺が、━━━」
ぜんいつの悲壮な声に驚いたが、言葉を全て聞き取ることは出来なかった。決意を新たにした、その機会を待っていたように、俺たちの前に『彼ら』が現れたから。
山道を登る俺の横を、焦ったように足早で駆け降りていく人。黄色い頭の少年。何処かで見覚えがある。すれ違い様、ブツゝと何事か呟いているのが聞こえてきた。小声で諍っているような
……
諍い?誰と?彼は一人だし、スマホやイヤホンを持ってもないし、辺りには俺とぜんいつしかいない。思わず振り返る。少年の耳元でちらりと物影が動いた。
「!!」
考えるより先に身体が動いた。人。人だ。小さなお人。思わず走る。黄色い少年を捕まえた。過剰なほど驚愕して叫ぶ相手に、周章てて弁明する。
「ごめん、ちょっと待ってくれ、話をしたいんだ」
何気ない振りをして耳元を覗くと、少年が反射的に耳を覆う仕草をした。つい、頬が緩んでしまう。彼は庇っている。小さなお人を認識している。耳元から小さな頭がチラッと此方を覗いた。凄いぞ。『彼』は好奇心が旺盛なんだな。ぜんいつと違って黒髪だけど、確かに同じ小さなお人だった。
「俺は竈門炭治郎と云います。あなたの友達に紹介したい人がいるんです」
おいで、と優しく呼び掛けると、胸ポケットで縮こまってた小さなお人が、渋々ひょこっと頭を出した。と同時に少年が「痛っ」と(恐らく噛まれた?)手を離し、耳元から飛び出た小さなお人が、彼の肩口から此方をまじゝと凝視した。
「ヒィッ!!だっ、だ、
…誰なの?!」
怯えるぜんいつに、『彼』はほんのり赤みのある瞳をきらゝ輝かせ、小さなお日様のように明るく笑った。
「はじめまして!おれはたんじろだ。君は?」
小さなお人というものは、俺を驚かすのが得意なのだろうか?まさか俺と同じような名前をもつ小さなお人がいたなんて
……
ぜんいつも戸惑っているようだ。呆気に取られている俺が動かないと見るや、ピャッと胸ポケットの奥に引っ込んでしまった。少年が恐ろしげに息を飲んだので、はっと我に返る。ぜんいつに代わって「彼の名はぜんいつだよ」と紹介すると、今度は少年の方が悲鳴をあげた。
「そっちは俺と同じかよ!?」
どうやら、彼もまた『ぜんいつ』という名前らしい。少年は我妻善逸だと名乗った。高校一年生で、なんと俺と同じキメツ学園の生徒だった。
「道理で見覚えがあるはずだな」
「えーっ!!会ってるだろうが会ってるだろうが!お前の問題だよ!記憶力のさ!!」
「え?どこでだ?」
「毎朝校門で見逃してやってるの俺だから!」
「!! そうか、風紀委員か!!」
そういえば、冨岡先生に追いかけられる回数が減ったのは、一度捕まった風紀委員の人に訳を話して謝った後からだ。あれは、善逸だったのか。あの日からずっと、こっそり庇って見逃し続けてやってんだぞ!、という叫びに、心がほっと温まる。善逸は本当にいい奴だな。
思わぬ出会いに高揚する。二人目の小さなお人、たんじろ。彼はぜんいつの仲間になってくれそうな気がする。火を付けたばかりの花火みたいに、好奇心が弾けている。
そして、たんじろを匿っていた同級生、善逸。彼の優しさは信頼できる。そんな気がする。甘い匂い
……とても芳しくて、心地いい匂いが。
「なんだよ、お前、鼻が利くな。これ、じいちゃんちの桃。たんじろと食べるつもりだったけど
……お前らも食べる?」
聞けば山の農家は善逸の知り合いで、この時期になると旬の果実を分けて貰うのが毎年の恒例なのだという。いや、桃の香りの話をしたわけではないのだが
……折角の厚意を断るのも申し訳ないし、引っ込んでいたはずのぜんいつが顔を出して涎を垂らしているので、ありがたく相伴に与ることにする。
倒木の幹に腰掛け、半分ほど皮を剥いてやった桃を置くと、ぜんいつは立ったまま顔を埋めるようにして勢いよく果肉に穴を開けてゆく。食い付きが違う。桃が好物だったのか。なんだか凄く
……虫みたいなんだが
……。
苦笑しながらぜんいつの世話をする俺と違って、善逸は寧ろたんじろの世話になっているようだ。たんじろは爪楊枝ほどの刀で器用に桃を切り分け、一口大にした欠片を善逸に手渡している。善逸はそれを葡萄の粒のように口に含み、皮だけ舌に乗せて吐き出していた。たんじろは皮ごと手に持ち、西瓜やメロンを食べるようにシャクゝと囓り付いている。二人とも行儀がよくて、桃を食べているだけの姿がとても上品に見える。ぼんやりと惚けている俺に、善逸が意味深な目配せをした。
どくり。
心臓が妙な波打ち方をする。息が詰まり、慌てて視線を逸らした。どうしたことだろう?自分でも分からない。変な風に思われていないといいが。桃を味わう咀嚼音だけが辺りに響く。何か云った方がいいかな?でも、まだ食べ終わっていないし
……もう少し後でも
……このままで
……
優柔不断な俺に代わり、しびれを切らしたのは、善逸の方だった。
「時間、大丈夫なの?もう日も沈むけど」
「あぁ、
……そうだったな。引き留めてごめん。探していたものが見つかって、興奮してしまって
……ぜんいつの、仲間を、探してたんだ」
「その子の仲間
……たんじろのことか?」
話題に上がった小さなお人たちは、汁気たっぷりの桃を十分堪能し、満足げな顔で其々の世話人を見上げた。
昨夜から今までにあったこと、聞いたこと、考えたことを詳らかに話す。小さなお人たちの先行きを直接左右するものだったし、善逸なら、秘密を守り、共に考えてくれるだろうと━━信頼がおけると思えた。
善逸の所にいる小さなお人は、ぜんいつの知人ではなかった。たんじろは、この山で育った者だと穏やかに告げる。ぜんいつ同様、嵐の折りに鉄砲水で流され下流の人里まで来てしまったそうな。普段はもっと奥山に居を構えており、家族や仲間も其方にいるから何れ帰らなくてはならない、としっかりした口調で語った。
小さなお人は情緒不安定なものかと思っていたが、彼を見るだにそんなことはないらしい。落ち着きがないのは、ぜんいつの性格だったのか。当のぜんいつはハキゝと話すたんじろにビクつきながらも興味は惹かれるようで、俺の服の裾に隠れつつたんじろの話を聞いている。たんじろはぜんいつに温かく笑いかけ、俺たちに話すより一層優しい声で話しかけている。
どこから来たんだ?あの嵐は大変だったな。俺は街をはじめてみたよ。ぜんいつはよく知ってるなぁ。
ぜんいつの住み処は山ではなく街だった。しかもこの街よりもっと都会で、往来が多く人の出入りも激しい都心部だったという。街の忙しない人々は足元を気にしないし、怪しんでも敢えて近付いてはこないものらしい。
家屋はマンションの空き部屋を拝借し、不要品の繊維類から着物を仕立てる。公園の花壇や街路樹から花蜜や木実を頂いて腹を満たす。時には子どもが落とした菓子屑なども頂戴し嗜好品とする。中々に贅沢な暮らしを送っているようで驚きだ。狸や狐など野生の天敵がいない都会は、小さなお人たちが暮らしていくのに思ったより適しているのだった。
俺も聞いたことがなかったような話を、たんじろは巧妙にぜんいつから聞き出した。二人は徐々に打ち解け、いつの間にか隣り合って座って話せるようにまでなっていった。眩しそうに眺めていた善逸と目が合い、笑みを交わす。俺はホッと安堵していた。せっかく出会えた仲間だ、仲違いしてほしくない。
「一緒に来ないか、ぜんいつ。俺たちの山へ」
誘いは理に適ったものに思えたが、ぜんいつは愚図ゝと言葉を濁して即答を避けた。会話の合間にちらり、ちらと何度も此方を見る。俺に遠慮をしているのだろうか。或いはたんじろに応えられない訳でもあるとか。それとも他に何か?
暫く考える時間が必要だと判断した俺は、善逸と連絡先を交換し、また後日会う約束をして別れた。善逸もやや緊張が緩んだのか、自分からも何かあれば連絡するとスマホを振ってくれた。俺はそれを嬉しく感じた。小さなお人の話ができる相手と知り合えた俺は、ぜんいつにとってそれがどういうことなのか深く考えもせず、ただ素直に出会いを喜んでいた。
帰宅すると、幼い六太と禰豆子は既に眠っており、茂と竹雄は居間で額を集めて宿題に取り組んでいた。俺の分の夕飯を並べ直してくれている母に聞くと、花子は風呂らしい。花子は長風呂でいつもは先に入られると困るのだが、今日は都合がいい。
「先に、父さんに果物を供えてくるよ」
母にそう伝えて仏間へ向かう。背後から、やったー桃だ~!と喜ぶ弟たちの歓声が聴こえる。胸元のぜんいつが「お、俺の分も残しておいて」などと焦るので俺はまた吹き出してしまった。
善逸から分けて貰った桃を幾つか仏壇に供え、鈴をひとつ鳴らして手を合わせる。ぜんいつのことをどう伝えたらよいか迷ったので、善逸と知り合えたことだけ、胸の裡で報告して済ませた。残りの桃は明日のため別途袋詰めにして取っておく。薄切りにし、砂糖煮にして生地に乗せたら、見た目も可愛らしいし、味も引き立つに違いない。ぜんいつが幸せそうに頬張る姿
…そこには何故か、たんじろと善逸もいて、一緒に俺の焼いたパンを味わっている。皆の笑顔が嬉しくて俺は相好を崩す。それからハッと我に返り、燥ぎ過ぎていると自覚し、羞恥に頬を熱くした。
頭を冷やそうと、急いで棚を探る。此処へ来たのは仏壇に供えるためだけではない。仏間には、普段使わない道具を仕舞ってある棚があるのだ。花子のままごと道具も此処にあるはずだ。さして時間を掛けることもなく玩具籠は見つかった。六太の積み木や、茂のミニ自動車に混じって、花子の飾り箱が収まっている。若干の罪悪感に身を縮めつつ、そっと飾り箱を開いた。
(花子、申し訳ないが借りるよ。必ず返すからな)
箱の中には小さな椅子や小さな机、ミニソファーにミニベッド、人差指ほどの戸棚や箪笥、食器類もお皿やカップだけでなく、ティーポットからナイフにフォーク、なんならテーブルクロスまで、ぜんいつサイズで揃っている。実際に灯りが点る、電池式のフロアランプまである。
さ、最近の玩具は凝っているんだな
……
作り物の野菜や果物、ケーキにお菓子類、それとヌイグルミも多かった。人形で人形遊びをするんだろうか
……?ちょっとよく分からない。でもこれらはぜんいつには必要ないだろう。それよりも着替えがほしい。
箱を探ると奥の方から綺麗な宝石を模したガラス玉がついた宝箱が出てきた。これはどうかな?鍵が壊れていたので簡単に開く。中には人形サイズの服が何着か納められていた。これならなんとか着られそうだ!しかし、どれもこれも女の子用のワンピースやドレスばかり。禰豆子や花子の玩具だったからしょうがない。俺にはこんな小さな服を作れる技術はないし
……悪いとは思うが、ぜんいつには着物を洗濯する間だけでもこれで我慢して貰おう。
なるべく装飾が少な目な、黄色地に白い花模様のワンピースを選び、その他の道具と共に借りることにする。箱ごと持っていくと怪しまれそうなのでそちらは断念し、代わりに風呂敷を仕舞っていた籠をひとつ空け、それに家財を並べて部屋として使うことにする。屋根がないけど、閉じ込められるよりはいいかもしれない。そういえばぜんいつは、今までどんなところで寝泊まりしていたのだろうか?できれば快適な住まいを提供したい。後で必要なものを聞いてみなくては、と炭治郎は頭の中に書き留めた。
手早く道具を纏め、それらを自室へ隠し、夕飯が冷める前に急いで居間へ戻る。明日の弁当を仕込む母の背中と今日の出来事について会話しながら箸を進め、時折こっそり胸元のぜんいつにおかずを分けた。ご飯を一口分、煮豆を一粒、千切った厚揚げの煮物、等々をフゥゝ云いながら嬉しそうに食べている姿が堪らなく愛らしい。幼い頃の弟妹たちよりも更に小さなぜんいつだが、食欲は彼ら並に旺盛なのだ。もっと食べさせてやりたいなぁ。
明日の支度を終えた母に変わって台所に立ち、いつものように空の食器を洗う。母が弟たちを寝かし付けに行った頃合いを見計らって湯を沸かし、湯飲みに茶を淹れた。こうしておけば戻ってきた母が一休みしてくれるだろう。
自分の湯飲みには白湯を注ぎ自室へ戻る。風呂上がりの花子と行き違った時にはギクリとしたが、「お兄ちゃんおかえり~」の一言だけで見送ってくれたので助かった。
自室に戻りやっと肩の力が抜けた。湯飲みを机に置くと、部屋をよく眺められるよう、ぜんいつもまた同じ机に乗せてやる。小さなお人は興味津々といった様子で早速あちこち見渡し始めた。
その間、隠しておいた籠から道具を取り出し適当に並べる。食卓、椅子、戸棚とベッド、あの点灯するライトも借りてきた。ハンカチをカーペット代わりに敷いて、小さなお皿に一袋開けたあられを幾つか置いてやる。ティーポットに湯呑みから白湯を掬ってカップを側に添えれば、ぜんいつが好きな時に飲んだり食べたりできる。簡易的な宿としてはなかゝの出来映えだ。うん、満足した。
「ぜんいつ、ちょっと見てくれ。足りないものや、欲しいものはあるか?」
「いや、十分。前に住んでたとこより豪華だよ。こんな部屋初めて~!ありがとっ」
「そうか?なら、よかった」
ぜんいつの目線へ籠を置くと、真っ先にベッドへ駆け寄り、硬度を確かめている。ふわっと両手を押し返す感覚を楽しみ、ぜんいつはクスゝと笑った。
「あのねぇ、炭治郎。俺、本当は━━」
ぜんいつの機嫌が良い内に、と机から包帯を取り出し5センチほど切る。これはタオル代わりだ。白湯は程よく熱が冷めている。包帯の切れ端を渡しながら、湯浴みをしたらどうかと提案した。
「え?!いいよ、そこまでせんでも」
「だが着物が汚れてしまったろう?洗うよ」
「いやでも、ほら、着替えがないし」
「一応
……探しては来たんだ」
出し渋っても仕方がないので、えいや、と気合いを込めてワンピースを差し出す。案の定ぜんいつは眼を丸くして絶句した。服を見つめたまま、ぽかんと口を開けて目元を潤ませ、だんゝその頬が上気してくるにつれ、心苦しさで胸が一杯になる。
「洋服だけど、手足を通すだけだから着方は簡単なんだ。その、すまないが、こういった女の子のものしかなくて
……」
一言もなく俯いてしまった小さなお人に、そこまで衝撃を与えてしまったのかと思うと、自分まで小さくなった気分だった。今までの心身の疲労を癒せればと用意した簡易湯船も、ぜんいつには響かなかったらしい。俯いたまま首を横に振り、「いらない」と弱々しく呟いて布団に潜り込んでしまったぜんいつに、為す術もなく肩を落とす。
小さな身体が微かに震えていた。俺はぜんいつの尊厳を傷付けてしまったのだ。胸がギュ、と締め付けられ、心臓がどくゝと煩い音を立てた。ごめん。ぜんいつ、ごめんな。切なすぎる。
傷付いたのはぜんいつなのに、自分まで立ち直るのに時を要した。随分時間が経ってから、布団の小山に向かって謝ったけれど、ぜんいつが許してくれたかどうかは分からない。布団に籠ってしまって、表情も読み取れない。もう眠っているのかもしれない。明日、改めて謝ろう━━無反応を悲しく思いながら、俺は、そっと部屋の明かりを消した。
翌朝、工房へ出掛ける準備を済ませ、不安を抱えながら籠を覗き込むと、なんと脱いだ着物が畳んで置いてあった。布団の小山は今だ健在で、優しく呼び掛けてもうんともすんとも云わない。けれど、ワンピースは確かに消えていたし、恐らく布団の中で女装に耐えながら縮こまっているのではなかろうか。昨日、俺は、ぜんいつを傷付けてしまったのに、ぜんいつは今日、妥協してくれた
……!
「すぐに洗ってくるから、待っててくれ!」
小声でそう伝えると、大急ぎで洗面所へ向かった。泡立てた石鹸で柔らかく汚れを包み、温めの流水で丁寧に濯ぐ。真新しいタオルに包んで上から叩き大まかに水分を吸わせ、ドライヤーで残った湿り気を乾かす。最後はゆっくりアイロンを当ててやれば、下ろし立てのように輝く稲穂色の着物が仕上がった。
本来の美しい色味に感心しながらも、ふと裾の解れに気付き、今度は仏間へ向かう。母の裁縫箱も戸棚に仕舞ってある。解れを縢るくらいなら俺にもできるはずだ。まだ皆の眠る大部屋を静かに横切り、仏間でぜんいつの着物を縢る。黄色い糸
…刺繍糸でいいかな?元の素材と違うのでちょっと不恰好だが、ともかくこうしておけば着物が解れる心配はない。ふっくら洗い上がった羽織りからは、仄かに草花の香りがした。石鹸は無香料だったはずだが、小さなお人は着物に不思議な術を使って仕立て上げているのかもしれない。繕った羽織をしげゝと眺め、満足感に浸る。ぜんいつの役に立てたことがとても嬉しい。
ぜんいつのことを考えると楽しくて自然と心が躍るのだ。幼い頃のわくゝする感覚や、キラゝ光る希望を、ぎゅっと小さく丸めて集めたような感じがする。あの頃とても大切で、なのに今や忘れかけていた純粋な気持ちが、ぜんいつを見ていると、ふつゝと胸に沸き上がるのだ。ぜんいつを大事に思う時、自分自身のことも大切にしたいと思えてくる。ぜんいつを守ることは、自分の心を守ることにも繋がると気付いて、改めて秘密は守らなければと決意した。
なぜ、たんじろと行くのを躊躇っているのか。ぜんいつが健やかに暮らすには、仲間と共にいた方がいい。渋る理由は分からないが、ちゃんと話し合って、きちんとお互い納得した上で気持ちよく送り出してやりたい。たんじろは信用がおける。善逸があれだけ頼りにしてる相手だし、ぜんいつにも真摯な態度を崩さなかった。二人は仲良くやっていけるだろう。善逸は寂しいかもしれないが
……いや、本当に、寂しいのは。
しんと静かな仏壇を見遣り、後ろめたい気持ちでそそくさと部屋を出る。こんな不甲斐ない俺では天国の父にも呆れられてしまうだろう。
部屋に戻って羽織を差し出すと、布団の端から目元だけ出したぜんいつは、「もういいよ、でも
……恥ずかしいから、こっちみないで」とくぐもった声で呟いた。怒ってはいないらしく安堵する。
俺の前で着替えるつもりがないようなので、仕方なく俺が戻るまで矢鱈歩き回らないよう言い含めて一人で工房に向かった。僅かに布団が動いたので頷いたのだと思うが、本当に大丈夫だろうか?週末の家は朝から弟妹の遊び場だ。ぜんいつが見つかれば厄介なことになる。
(工房へ一緒に行く方が安全だったのに、ぜんいつは布団から出なかったしなぁ。布団ごと持ち運んだらきっと怒るだろうし、かといって店を開けないわけにもいかない
……)
一抹の不安を抱えたまま仕込みを始めるも、気が散って綿棒を落としたり成形を間違えたり散々だ。開店寸前でどうやら売り物になりそうなパンが焼き上がったが既に精神的にへとゝだ。これはいけない。今日の店仕舞いも早めにしようかと悩み始めた頃、手伝いに来た竹雄の言葉に寸の間息が止まった。
「兄ちゃん、ドールハウスで遊んでたんだって?」
なぜ、それを━━バレるにしても早すぎる。しかも持ち主の花子ではなくなぜ竹雄が?混乱する頭で考えてみても答えは出ない。幸い竹雄は、その理由をニヤつきながら話してくれた。
「花子が怒ってたぜ!兄ちゃん、玩具を出しっぱなしだっただろ~遊んだら、ちゃんと片付けないとなーへへへっ」
失策った。しっかり者の花子は日常的に玩具をきっちり管理していたのか。持ち出すのはまだしも、部屋に置いたままだったことが彼女の逆鱗に触れたらしい。
「いや!でもあれは」
ぜんいつの部屋なんだ
……などとは口が裂けても云えない。置きっぱなしにするのではなかった。机の下にでも隠しておけば良かったのだ。部屋が見つかったということは、もしや
……
「その、
…で、どうしたんだ、花子は?」
「兄ちゃんの代わりに片付けてたよ。ぷんすか怒りながらね。後で謝った方がいいと思うな」
「そう、か
……そうだな
………分かった
…」
軽快に話しながらパンを店頭へ手際よく並べてゆく竹雄は、花子が完全に片付け終える姿を見てはいなかった。少なくとも、竹雄自身はぜんいつの存在に気付いていないということだ。しかし、目敏い花子の方はどうだろう。
(ぜんいつは無事なのか?巧く逃げ果せたのか?)
部屋から無闇に出るなと忠告したのが仇になった。必死に動揺を隠し何とか開店まで漕ぎ着けるが、接客に身が入らない。挨拶を忘れ、お釣りを間違え、商品を渡し忘れたところで流石に竹雄から「ぼーっとしてんなよ兄ちゃん!」と文句を云われた。ごめん、竹雄。それどころじゃないんだ。今すぐ戻って無事を確かめたい。だけど竹雄だけに店番を任せられないし、昼休憩までまだ何時間もある。気ばかり急いて落ち着かない。
(どうしたらいいんだ?どうしたら
……ぜんいつ!)
俺の自室は元々納戸で、書斎として使っていた父さんが亡くなった後、受験のため勉強部屋として明け渡された部屋だ。ぜんいつが隠れるための隙間や物陰は多いはずだが、注意深い花子なら皿の菓子屑やティーポットの雫など不審に思い、鼠や虫でもいるのかと部屋中を探るかもしれない。もし、ぜんいつが見つかってしまったら?ぜんいつが、捕まって、しまったら━━
(俺の責任だ
……!)
小さいお人が何百年と積み重ねてきた秘事が、見つかってしまったら、台無しになってしまう!
(俺のせいで
……!)
俺が不甲斐ないばっかりに。俺が、もっと人目に気を付けてやらなければならなかったのに
……
手が震える。呼吸がし辛い。頭が痛くて、視界が狭まる。不安で胸が潰れそうだ。何もかも投げ出してぜんいつの元へ駆けつけたい。しかし身体は動かなかった。いや、動くことが出来なかったのだ。
そんなことをすれば、店はどうなる?ただでさえ弟妹が多いのに、父が亡くなった今、俺が家業を支えなければ家族は食べていけない。ぜんいつの暮らしと家族の暮らし
……それらを天秤にかけることは
……俺には
……
ヴヴヴ、とポケットから伝わる振動にビクリと身が縮んだ。緊急時のため常日頃から肌身離さず持ち歩いているスマホの着信だ。確認すると送信元は善逸だった。
『今日、お店やってるよね?たんじろに食べさせてやりたいから、連れていってもいい?』
メール内容に目を走らせ、思わず歓呼した。善逸が来る。全部知っている善逸なら、きっと助けてくれる。善逸が俺たちの救世主だ!!
店内の視線を集めてしまったものの、竹雄も驚いて此方を見たので「ちょっと抜ける!」と声を掛けて工房へと引っ込んだ。折り返し電話を掛け、面食らっている善逸に息急き切って窮状を明かす。彼は俺の期待を裏切らず、事態を深刻に受け止めてくれた。
『すぐ助けに行くから、待ってて!!』
忙しない通話が切れた後、力なく画面を覗き込んでいたスマホに、ぽとり、ぽと、と水滴が落ちる。驚いて瞬くと更に滴が幾つも溢れた。文字が読めない。拭っても、拭っても、文字は歪み益々見え辛くなっていく。そうして俺は、滴の出所に気付いた。
善逸の言葉で。その一言をどんなに。俺が。
……俺は。
大黒柱であった父が亡くなり、長男である俺が家族の拠り所となった時、俺はそれを幸せだと思った。伴侶を亡くした母にも、まだ幼い弟妹にも、どうしても助けが必要で、その助けに俺がなってやれるからだ。率先して仕事をこなし、学業に励み、地域の治安にも助力した。ぜんいつを助けた時だって同じだ。皆の助けになれるのが嬉しくて、心地よくて、幸せで、心からよかったと思えた。その気持ちに偽りはなかったはずだ。俺は、本当に幸せだった
……
“待ってて”
電話の向こうで慌てて物を落としたり、躓いたりする気配がして、善逸は俺の焦燥を分かち合ってくれるのだと知った。俺の不安を分かって、共有してくれる。なんて心強いんだろう━━忘れていた。こんな気持ちは長らく忘れていた。助けてもらえることが、助けを待てることが、こんなにも、安心できることだったなんて。
(待っていいのか
……俺も、待っていても)
握り締めたスマホに向かって呟いた名がどちらを指していたのか、自分でもよく、分からなかった。
駆け付けてきた善逸は俺の前掛けを奪い取ると、店番を代わるから早く探しに行け!と背中を押してくれた。たんじろが「お助けします!」と素早く俺の内ポケットへ身を滑り込ませる。二人へ手短に感謝を述べ、家へ向かって駆け出した。唐突な交代に虚を衝かれた竹雄の叫びが背に追い縋るが、耳を塞いで走り抜ける。
後でいくらでも謝るから、今は、許してくれ。ぜんいつの無事を確認することが何よりも最優先だ。
息を切らして自宅に辿り着くと、庭先で花子と六太がままごとに興じる明るい声が響いていた。ぜんいつの声は聞こえない
…匂いもしない、とたんじろに云われ、僅かに希望が出てきた。そっと玄関に滑り込むと母と禰豆子の靴がない。恐らく買い物にでも出掛けたのだろう。なるべく足音を立てないように、しかし急いで自室に駆け込み、愕然とした。竹雄の云った通り、ぜんいつの部屋はなくなっていた。のみならず、部屋が粗方掃除されており、積まれていたはずの本や書類さえ綺麗さっぱり片付けられていた。
(隠れ場所が減ってしまっている
…!!)
血の気が引いた。矢張り花子は怪しんだに違いない。玩具を片付けるだけではなく、部屋の隅々まで目を光らせながら掃除をしたのだろう。
「ぜ、ぜんいつ
…すまない!頼む
……出てきてくれ
…っ
……ぜんいつ!!」
小声で呼ぶ。どこもかしこも整理整頓されていて、物陰などひとつも見当たらないというのに。整然と片付いた部屋をこれほど恐ろしく思うのは生まれて初めてだ。手足が冷える。気分が悪い。痕跡が見当たらない。ぜんいつ
……
「
……お願いだ
……」
「炭治郎さん、大丈夫です。匂いがします」
「
…え、」
たんじろが鼻をひくつかせて辺りを見回す。俺を送り出す善逸が、たんじろは犬並みに鼻が利くから、きっと俺より助けになるよ!と胸を叩いていた。俺はその言葉を微塵も疑っていない。たんじろが、善逸が、そう云うならば。俺は信じる
……ぜんいつ。
「たんじろ、匂いは一体どこから
……」
「━━炭治郎?」
「!! ぜんいつ、?!」
微かに聞こえたその声は、なんと頭の上から降ってきた。見上げると照明器具の光の向こうでチラゝと影が動いている。俺に気付いて貰おうと盛んに手を振っているようだ。どうしてあんなところに?花子どころか俺でも背が届かない。
「ぜんいつ!!どうやって」
「待って、今、降りるから」
そう云うとぜんいつは、器具の影に引っ込み、勢いをつけて其処から一番近い書棚の上に飛び乗った。呆気に取られる俺をよそに、小さな身体は書棚の僅かな出っ張りを手足掛りに、軽業師のような身のこなしでヒョイゝと降りてくる。それを見たたんじろがパッと駆け出し、最後にピョン!と床に向けて飛び降りたぜんいつを、確りその腕の中に受け止めた。キャア!と驚き叫びつつも、しっかと抱かれたぜんいつは心なしか楽しそうにしている。俺には聞こえない小さな声で何事か二言三言囁き合った後、ぜんいつは、たんじろに手を引かれ嬉しそうに走り寄ってきた。
「早いね!もうお仕事終わったの?」
「えええええ、いやっ
……ええっ?!」
俺は、小さいお人の力を侮っていたらしい。その身体能力は完全に想像を超えていた。動揺する俺を置き去りに、ぜんいつはたんじろと親しげな言葉を交わしている。無事で良かった、と満面の笑顔を向けられ、ほんのり頬を染めて、心配してくれてありがと
…なんて殊勝に返す余裕まである。たんじろは絶対俺ほど心配していなかったと思うんだが。
(裏を返せば、それだけぜんいつを信頼していたということだな
…)
善逸の元へ戻る道すがら、ぜんいつの話を聞けば、俺が部屋を出た後、すぐに照明器具の上へ身を潜めたという。あまりにも都合よく出来すぎた人形の部屋に、初めから危険を感じていたらしい。街中で暮らしていたぜんいつは、俺たち大きな人の危うさと盲点をよく知っていた。曰く、大きな人は珍しいものに目を引かれる。それが床に置かれた小さな部屋ならば、足元を具に観察し隠された何かを見つけ出そうとする。だがその時大きな人は頭上を見ない。何故なら床に置かれた部屋の住人が、己の頭上を越えるほど高みに行けるなどとは考えもしないから。
若干耳が痛いような話だが、小さいお人に伝わる大きな人像は、概ね正しいと云える。自身がすっかりその人物像に当てはまり、足元だけ探して見当たらず嘆いてしまったのだから、弁解のしようもない。まさか上から降ってくるとは
……何百年も身を潜めて生きてきただけあって、小さなお人は案外強かだった。
ぜんいつとたんじろを連れ店へ戻ると、そこには大惨事が待ち受けていた。慣れない店仕事で天パンを引っくり返した善逸が、商品の大半を潰してダメにしまったのだ。竹雄は怒り、善逸は泣き、逆に常連のお客さんたちが二人を宥めたり慰めたりしていて店内はてんやわんやだった。俺が抜けていたのはほんの三十分かそこらなのに、こんなにも混乱してしまうとは
……しかしぜんいつの無事を確かめた今、こんな惨事は些細なことに思える。つい吹き出してしまうと、込み上げた笑いは止めることができなかった。
「あは、あははは!善逸、か、顔に、クリームが、ついてるぞ
…っ、ふふ、はははは!!」
呆然とする一同を前にヒィゝと大笑いする俺につられ、お客さんたちもクスゝと笑みをこぼし始める。笑いは皆に伝染し、混乱した空気はいつしか、和やかなお祭りムードへと取って変わっていた。
「申し訳ありません。今日は売れるような品物がなくなってしまいました。でも、折角来て頂いたので、この潰れたパンでもよければ、皆さんお土産にお持ち帰りください」
「あっ!!味は凄く美味しいよ!!それは保証できるからね!!!」
泣き喚いていたはずの善逸が俺の言葉を補足する。知ってるよぉ!だから此処に来たんだからねぇ!とお客さんたちに返されて、善逸はあたふたと俺の背後に隠れた。暖かな笑いに包まれる中、耳元で優しい声がする。
「愛されてるね」
うん。そうだ。そうなんだ。俺は皆に助けられているんだった
……
潰れたパンたちはひとつ残らずお客さんたちに貰われて行った。中には食べるのが難しそうなほど粉々に砕けたパイなんかもあったのに、それでもこの味はこの店でしか食べられないから、と喜んで持ち帰ってくれたのだ。
母と妹の禰豆子が昼食の弁当を持って店へ来た頃、俺たちはまだ片付けに追われていた。女手二人が加わって漸く片付け終えたのは、それから更に二時間後だった。結果的に早仕舞いとなったので、俺は善逸を遅めの昼食に誘った。俺の昼食にはパンを焼き、弁当は善逸に食べてもらうつもりだったが、竹雄が弁当を譲ってくれたのには驚いた。「すみません。怒ったのは大人げなかったから、お詫びです」と。善逸は感動し竹雄に抱き付いて泣いて喜ぶ。俺は間髪いれず二人を引き剥がし、家族に後を頼んで弁当を掴むと、善逸共々外へ出た。
「近くの公園で食べよう。行くぞ」
「えっえっ?いや行くけど
…いたた、何?引っ張るなよ。離せよ。なんで引っ張んのよ?」
「
………分からない」
「どゆこと???」
抱き付かれて嫌がるかと思いきや、照れただけだった竹雄。それを見たら胸がざわりと騒いだ。善逸は俺のなのに。俺の
……
「いや、俺のものではないな」
「おわっ?!ちょ、いきなり離すのやめて?!」
「どうしたんだ善逸、そんな変な声を出して。大丈夫か?」
「お前のせいだからね!?!」
「?」
俺たちのやり取りに、小さなお人たちがコロロと笑い出した。善逸が胸ポケットのたんじろに必死に抗議している。俺はといえば、ぜんいつの視線がたんじろをじっと追っていて、急な寂しさに見舞われていた。どうしたことだろう。こうなることを願っていたはずなのに。ぜんいつの興味がたんじろに移れば、一緒に暮らしていってくれるのではと、期待していたのは俺なのに━━
夏の空は明るく、正午を大分過ぎた辺りでも強い日射しを投げ掛けている。大樹の木陰に空いているベンチを見つけ、二人で隣り合って座った。弁当はいつも母さんの手作りだ。梅干しのおにぎりに、焼き魚に、天ぷら、おひたし、卵焼き、漬物、酢の物。保冷剤の下には桃のゼリー。水筒には冷えた麦茶もある。俺と善逸の腹が同時に鳴った。突然の空腹に襲われた俺たちは、爽やかな公園の木陰も、穏やかな午後の空気も味わうことなく、ただひたすら無言で弁当を掻き込んだのだった。
「やっぱり家で暮らすのは無理だ。狭いし、家族が多いからいつかは見つかってしまうよ」
ゼリーに頬を蕩けさせていたぜんいつに、ぽそりと呟く。人心地がついた後、考えるのはぜんいつの身の安全だった。今日みたいなことが続けば、いつか必ず小さいお人のことが露呈してしまう。彼らをこれ以上危険に晒すのは嫌だった。
「俺もそう思う。たんじろは好きだけど、一緒には暮らせねぇよ。俺たち、違いすぎるもの」
善逸も頷く。たんじろは既に帰還の目処をつけ、明日にも善逸に連れられ故郷の山へ帰るという。二人は互いに納得済みで、ぜんいつをもう一度誘いに来てくれたのだ。ここで決めなければ、ぜんいつに暮らしを立てる術はない。それは、誰より一番ぜんいつ自身が分かっていることなのだ。
「
……俺はね、炭治郎。一生懸命俺の世話してくれたから、お前は、きっと俺を好きになってくれたんだって、思ったの。だから一緒に居たいって思った
……でも違ったんだね」
「ぜんいつ、俺だってお前が好きだけれど、」
「ううん、いいの。さっき分かった。俺、耳が良いんだ。お前の善逸へ向ける音、俺の時とは全然違ったもの。しかたねぇよね」
「
………えっ」
「は?なんで俺??」
首を傾げる善逸に、たんじろがため息をつく。
「善逸、どうしてそんなことも分からないんだ?炭治郎さんが可哀想だろう」
「どゆこと???」
「あっいや!あの!いいから!!俺のことはいいんだ、たんじろ!」
「炭治郎もたんじろくらい男気を出した方がいいと思うんだよな」
「は?」
「ぜ ん い つ!!!」
小さいお人たちはケラゝと笑って互いの手を取った。二人は見つめあい、優しく微笑んで仲良く俺たちを見上げる。それは俺が望んだ姿だったはずなのに、何故か、目の奥が熱くなるような光景だった。
「炭治郎。お前に助けて貰えて嬉しかった。本当に、ありがとう。俺、たんじろと行くよ
……またね」
そうして、ぜんいつはあっさりたんじろの山へ共に行くことを了承したのだった。
楽しかった日々はあっという間に忙しい日常へと飲まれて行く。小さなお人が側にいたことなど、まるで始めからなかったかのように。夏が過ぎ、秋が終わり、初雪が降る頃、いつしか俺は、幸せな夢を見ていたのではないかと思うようになっていた。
「クリスマスは家族で過ごすの?」
「うん。でも、少しだけ抜け出してくるよ」
「いいのかよ?炭治郎、長男なのに。家族が泣くんじゃない?」
「俺に会えなくて泣くのはお前くらいだな」
「云ったな~!」
「それに俺はお前に泣いてほしくない」
「
………そっか」
火照る顔を逸らしながらも、繋いだ手を握り返してくれる。心が躍る。甘やかな匂い。優しい声音。嬉しい。心地好い。心から想えること、想いを返してもらえることは、とても幸せだな。
小さいお人との別れは、俺たちにとって大きな悲しみだった。その悲しみを慰めてくれるのは、お互いの小さいお人に関する思い出話。度々会って話す内に、俺たちは互いがかけがえのない相手だと気が付いてしまった。あの公園で茶化された日、たんじろとぜんいつはこうなることを分かっていたのだろうか?俺たちが、互いに惹かれ合うことを
……
ふと山並みが目に入り、立ち止まる。手を繋いだ善逸も歩みを止め、俺と同じように遠くを眺めた。山頂は既に白い衣装で着飾っている。彼らも今、幸せでいるだろうか。
善逸が静かに囁いた。
「寂しい?」
「うん
…でも、これでいいんだ」
「そうだね
…たんじろにはぜんいつがいるし」
「俺にも善逸がいるからな」
「!! 知らんよ
……ばか」
手を引いて抱き寄せる。求める唇を善逸は拒まない。優しく触れて、密やかに睦言を交わす。
幸せだ。善逸。本当に、俺は。
こんな出会いが待ってるなんて、予想もしていなかったんだ。
「これからは俺が━━━」
善逸の耳にだけ届くように呟く。俺たちはきっとまた、夢の続きを見られると思うんだ。だって。
「お前の炭治郎になるよ」
ぜんいつは、さよならを云わなかったのだから。
了
~~~
ぜんいつを養うたんじろ、って小さい方だったんだよな~
オマケ▼
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