夜明 奈央
2024-10-26 13:20:22
16753文字
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DR2024新刊サンプル あの日の続きをしよう

僅かですが残部があるため、再度通頒を行います。→終了しました。ご利用ありがとうございました。
11/29(土)12時〜BOOTHにて開始。

2024/12/1 中太オンリー発行 会場価格¥700(通頒¥820 ※手数料値上げのため頒布額が変わっています)/A5/P.64(全編書き下ろし)
ポトマ時代森さんの策略で好きだけど離れた中太が三十路になった後、森さんの死をきっかけに徐々に歩み寄り、距離を詰めていく話

 太宰が首領室に足を踏み入れるのは、実に十二年振りだった。
 マフィアを裏切った後も、ポートマフィアの本部ビルには何度か忍び込んだことがある。けれど本部ビルの中でも最も警備の堅牢な首領室に入ったのは、森と仲違いしたあの日が最後だ。
 首領室には全面窓から陽光が射し込み、開放的な雰囲気が漂っていた。あの頃と同じ家具に、見覚えのない弾痕が付いている。知らない調度品も増え、年月の経過を感じさせるには十分だった。
 その中心で、森は得体の知れない笑みを浮かべていた。その不自然な笑みを視界に入れると、太宰の脳裏には嫌な記憶が蘇った。ただでさえ良くなかった機嫌がさらに下降したのを自覚する。
 視界の隅で、太宰をここまで案内した構成員が出ていくのを見送った。彼等の顔に見覚えはない。装備も太宰の知るものとは違っている。
 人払いが済むのを待ち、太宰はごほんと咳払いをした。
「こんな手間のかかる真似までして、一体何の用です? 大した用じゃなかったらポートマフィアの敵対組織に貴方の行動パターン言いふらして回りますけど」
「君が言うと冗談に聞こえないから、そういうのはやめてくれないかな?」
 森は執務机に腰掛けたまま苦笑いを溢した。森と直接顔を合わせるのは、数年振りだ。しばらく顔を合わせていない間に、その顔には随分と皺が目立つようになっていた。
「そろそろ私も首領を引退しようと思ってね」
「どうしてそれを私に?」
「君にはそれを知らせておく義務があると思ったからだが」
「貴方との縁は切ったつもりでしたが」
「そんな冷たいことを言わないでくれるかな。これでも私は、君の保護者代わりとしてそれなりにやってきたつもりだよ」
「貴方がどう思っていようと勝手ですけど、親子ごっこに私を巻き込まないでください」
「余命、数ヶ月だそうだ」
 森相手に物怖じするわけにはいかない。そう思って身構えていたつもりではあったが、その言葉は予想外だった。森の年齢はまだ五十にも満たない。腐っても医者であるからか、それなりに健康にも気を遣っているはずだ。寿命というには、あまりにも早い。
「癌でね。発見が遅くて、もう永くない」
 にこり、ととってつけたような笑みは、森らしいとも、らしくないとも言えた。毎日顔を合わせていたあの頃でさえ、森の考えは読みきれなかった。何年も会っていない今、森が何を考えているかなど、理解できるはずがない。
「こんな仕事だ。長生きできるとも思っていなかったが、まさかこんな最期とは思わなかったよ。まあ、長生きした方じゃないかな。君も苦しんで死にたくないのなら、健康診断は定期的に行くことをおすすめするよ」
「精々参考にさせてもらいます」
 森の用件は、本当にこれだけだろうか。ポートマフィアは、長らく裏社会に君臨してきた。その首領が入れ替わるとなれば、当然ひと騒動あるだろう。それを正式発表より先に知れた意義は大きい。これにより、取れる手段は文字通り桁違いに増える。
 けれどそれを事前に太宰に知らせる意図がわからない。言葉だけなら死ぬ前に一目会いたかったとも取れるが、そんな感傷が森に存在するだろうか。
「老い先短い私と違って、君たちはまだまだ若い。これからと言っていいだろう」
 君たち、という言葉に引っ掛かりを覚える。ここにいるのは森と太宰の二人きりだ。いつもは周囲をちょろちょろ駆け回っているエリスの姿も見えない。
 こういう時に森が指し示すのは大抵、かつて相棒だったあの男だ。相棒だった期間よりも、相棒でなくなってからの期間の方が、もうずっとずっと長いというのに。
「どういう意味です?」
「君なら説明しなくてもわかるだろう?」
 含んだような言葉は、森お得意のものだった。心当たりはある。けれど太宰が森の下を離れてから、もう十二年も経過している。その心当たりが当たっていたとして、あの頃に戻れるわけではない。全てが遅すぎる。森にだって、そのくらいはわかっているはずだ。
「それは貴方の合理的な判断ですか?」
「どうだろうね。でも君たちが疎遠になってしまったことには、少なからず心を傷めているよ」
「それは罪滅ぼしのつもりですか?」
「まさか。私は自分の判断が間違っていたとは思っていないよ。悪いことをしたとも思っていない」
 森の言葉を、額面通りに受け取るわけにはいかない。それでも、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている森からは、言葉以上の意味は読み取れなかった。
 時の流れは早い。太宰が失踪したあの時から、十二年。
 調度品や家具、それらの細かい傷の数々に、警備のシステム。あらゆるものがあの頃と変わっているのに、〝変わっていない〟と思わせるには十分だった。
 変わっていない。太宰の友人をあっさりと見殺しにし、太宰にもそれを要求したあの時と、森の手腕はちっとも変わっていない。耳に入るポートマフィアの悪行の数々から、それは嫌という程伝わっていたのに、改めて痛感させられた。
 これ以上ここに留まっても、有益な情報が得られるとは思えなかった。
「用件はそれだけですか?」
「次の首領は紅葉くんにお願いすることにしたよ」
「そうですか。ではお元気で」
 にこりとわざとらしい笑みを向けた。森は無理に引き止めるつもりもなかったのか、すぐに案内の部下を呼び寄せる。太宰もとっとと退散することにした。
 構成員が随伴しようとするのを断って、行きに乗ったのと同じエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの釦は色褪せている。このエレベーターは、太宰が在籍していた当時から使われているものだ。接触が悪くなっているのか、一度で釦が反応せず数度押す羽目になった。
 天まで聳え立つようなビルの頂上から、エレベーターはみるみるうちに地表へと降りる。地上が近づくにつれて、現実へと引き戻されるような気がした。
 森が近いうちに死ぬ。それは、太宰がずっと願っていたことであり、そうならないでくれと願っていたことでもあった。
 森には人生を散々に引っ掻き回された。良かった面が全くないとは言わないが、どちらかといえば恨みの方が強い。殺してやりたいと思ったことは数えきれない。
 けれどポートマフィアに、首領として森以上の適任はいなかった。紅葉も中也も幹部としては優秀だが、森の手腕に比べればいまいち精彩に欠ける。
 二人共、森を殺して自分が取って替わろうなんて夢にも思わないタイプだ。部下としては良い。だが、首領になるには、それくらいの大それた野望が必要だ。森を殺せば、裏社会は間違いなく荒れる。有力な後継がいなければ、裏社会は収拾がつかなくなることだろう。それは太宰の望むところではない。
 だからずっと、耐えていた。じりじりと、針山を渡るような慎重さで、均衡を保ち続けていた。その緊張から解放される。紅葉は首領を任せるにはまだ未熟といえよう。それでも、危惧している程の争いに発展することはないはずだ。これは一応、穏便な退職だ。それだけでも良かったといえる。
 あと、数ヶ月の辛抱だ。

 地上までの道程を中程まで進んだところで、エレベーターが停止した。誰か乗ってくるのだろうと、扉が開くのをぼんやりと見つめる。知り合いには会いたくない気分だった。心配せずとも、知り合いと言えるような人物ももう随分と減った。これで遭遇するなら、むしろ運が悪いといえる。
「げっ、なんで手前がいんだよ」
 だというのに、乗り込んできたのはよりにもよって中也だった。今日の太宰は相当に運が悪い。中也はそうしなければいけないという決まりでもあるように、太宰を睨み上げた。
「私だって来たくなかったよ。でも森さんがしつこくて」
「首領が?」
 中也が不審そうな視線を太宰に向ける。中で繰り広げられるやり取りなど意に介さず、エレベーターは再び地上へと動き出した。
 中也はこの話を、どこまで知っているのだろうか。外部の人間である太宰に話をするぐらいだ。五大幹部である中也が、首領の代替わりを知らないとは考えにくい。けれど太宰と森の間にある目に見えぬ攻防の存在を、森が明らかにするだろうか。
 この件に関して、森にはっきりと何かを言われたことはなかった。太宰が動かなければ中也は今頃無事では済まなかっただろうが、直接脅されたことは一度たりともない。先程のやり取りにしたって、自分が何かしたと認める気はなさそうだった。そうやって太宰を駒のように動かしながら「私は何もしていないよ」と嘯いてみせるのだ。
 私、本当はずっと中也のことがほしかったんだよ。
 頭の中に浮かんだ言葉は莫迦みたいだった。墓場まで持っていくつもりで中也を突き放したのに、こんなことであっさりと打ち明けてしまいそうになるなんて。本当に、莫迦みたいだ。
 こんなにも中也のことがほしかっただなんて、自分でも知らなかった。とっくに諦めたつもりだった。全然諦められてなんていなかった。けれどいくらなんでも、十二年は長すぎる。
 わかっているのに、それでも急に出てきた可能性に縋りつきたくなってしまうくらい、中也のことがほしかった。
 感情が喉の奥から湧き出てきそうになるのを、ぐっと押し込める。
「あの人、私の保護者のつもりらしいよ」
「あ? ンなこた言われなくても、……あー、いや、そうか」
 誤魔化すみたいな言い方をしたが、中也には伝わったらしい。押し黙って、深く帽子を被り直した。太宰を睨んでいた視線は行き場がなくなったのか、窓の外へと向いた。
 中也は優しいから、森の余命を知ったばかりの太宰に、いつも通りぺらぺらと軽口を叩くような真似はしない。下手な慰めを太宰が求めていないことも知っている。「嫌いだ」「嫌がらせだ」と言いながら、太宰が本当に嫌がることはしないのだ。
 太宰も同じように窓の外を眺めた。晴れ渡った空には雲ひとつ浮かんでいない。高度が下がるにつれて、雑多なヨコハマの建物群が近づいてくる。
 視界の隅に映るその姿を網膜に焼き付ける。相変わらず、抱きしめたくなるぐらいに小さいのに、縋りつきたくなるぐらいに大きな背中をしている。
「じゃあな」
 エレベーターが地上に辿り着くと、中也はそそくさと出ていった。太宰はその背をただ見送ることしかできない。
 中也とまともに顔を合わせたのも、数年振りだった。森程ではないにしろ、平和なヨコハマで手を組むような用はない。用がなければなるべく会わないようにしていたから、そんなものだ。久しぶりだというのに、随分とあっさりしている。
 四年振りの再会の時には、もっとどろどろと粘着質な執着を向けられていた。それがもうないのだと思うと、悔しくてたまらなかった。未だに囚われ続けているのは太宰一人だという現実を、突きつけられた気がした。
 ポートマフィアを裏切って以降、中也に会わないよう、ずっと気を遣って生きていた。ひとつは森に妙な勘違いをされないため。もうひとつは、中也の執着を跳ね返すより、会わない方がずっと楽だったから。
 もうその必要はなくなった。それは自由の始まりであり、迷いと困惑の幕開けでもあった。

 *

 中也と会わないようにする努力をやめると、面白い程にあちこちで見かけるようになった。仕事終わりに飲みに行った先や、依頼での外回り、日常の買い物。
 会おうとしているわけではないはずなのに、〝会わないようにする〟のをやめるだけで、こんなにも差が出るのかと驚いてしまう。行動範囲が被っているのはわかっていたが、ここまでとは思っていなかった。今までの努力が無駄ではなかったという証明ともいえる。
 ここまであちこちで出会うのなら、もう我慢する必要もないだろう。昔気に入っていたバーへと久しぶりに足を向けることにした。中也と遭遇するリスクが高いから、ずっと避けていた場所だ。とはいえ、必ず会うとは限らない。そう思っていたはずが、そこには図ったような先客がいた。
「何で手前が来んだよ」
「どこに行こうと私の自由でしょ」
「そりゃそうだけど」
 中也は一人のようで、カウンターでウイスキーのロックを嗜んでいる。葡萄酒狂いが珍しい。心配になって顔色を確認したが、平時と変わらないようだった。まだ一杯目なのだろう。
 当然のように隣のスツールに腰掛けても、一瞥されただけだった。丸くなったといえば聞こえが良いが、絶えず言い合いを繰り返していたあの頃が懐かしい。
 太宰が手早く注文を済ませると、それを待っていたかのように顔を覗き込まれた。呆れたような表情が癇にさわる。
「何で急に逃げんのやめたの?」
 いきなり核心を突かれて、さっと視線を逸らした。
「別に逃げてたわけじゃ……
 口にしてからすぐに、あの時と同じ言い訳だと気がついた。
 中也と会わないようにするのをやめた。それを〝逃げるのをやめた〟と評されるのは納得し難いが、間違ってはいなかった。まだ、中也に何をどう説明するのか、それともしないのか。自分がどうしたいのか、まるで方針が定まっていない。ただ、会ってもいいのだと思っただけだ。
 説明から逃れたくてマスターを視線で指し示す。聞かれているから、というアピールのつもりだったが、マスターはタイミングよく太宰のグラスを供すと、バックヤードへと引っ込んでしまった。ここのマスターは昔から口が堅いことに定評がある。なんせ太宰と中也が二人して気に入っていた理由のひとつもそれだ。
「逃げてただろ。じゃなきゃ同じヨコハマに住んでてあそこまで会わねぇわけない」
「ヨコハマどんだけ広いと思ってんの。生活圏被らなきゃ会わないのぐらい普通だよ」
「ふーん、じゃあ今日は俺になんか用でもあったわけ?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあなんで?」
 かつては、会うのに理由なんて必要なかった。何もなくてもそこかしこで顔を合わせるし、そうでなくてもいちいち何をしに来ただなんて聞かれることはなかった。用があることだってもちろんあったが、それ以上に顔を突き合わせて言い争うのが日常だった。お互いにそれを望んでいた。
 会うのに用事が必要な関係にしてしまったのは太宰だ。わかっていたはずなのに、本当に会うとは思っていなかった所為で油断していた。
「先代首領が辞めたのと、なんか関係あんの?」
……何か知ってるの?」
「別になにも。けどこのタイミングで無関係だと思う程莫迦でもないつもりだぜ」
 中也は煙草を一本取り出して、口に咥えた。ゆっくりと焦らすように火を点ける。それはまるで、太宰の返事になど興味がないかのように見えた。答えることを期待していなかっただけかもしれない。
 中也がたっぷりと煙を吸い込んで長く吐き出すまでの間、太宰はそれをじっと見つめることしかできなかった。
「ま、手前の秘密主義は今に始まったことでもねぇしな。何でもいいけど」
 吐き捨てたその言葉が、太宰の解答時間の終了を表していた。
「私、やっぱり帰るよ」
 出されたグラスには、結局触れることさえなかった。カウンターに代金を置いて立ち上がる。中也はその動作を視線で追っているだけで、引き留めようとはしなかった。
「首領交代で裏社会が荒れてる」
 背中越しに声を掛けられて、足を止めた。けれど振り返ることはしない。
「近いうちに、何かしらでかい動きがある」
「それを私に伝えてどうするつもりなの?」
「別に。情報を活かすも殺すも手前次第だろ」
 中也は戯けた仕草で肩を竦めた。
 グラスの氷が溶けて、カランという涼しげな音が響く。それを背中で聞きながら、その場を立ち去った。

(中略)

 今日は一日、森の葬儀に費やされた。残念ながら中也にとって葬儀はもう慣れたものだったが、やはり先代首領ともなると部下の葬儀とは色々と勝手が異なる。重要な来賓も多く集まるし、彼らに粗相をするわけにもいかない。警備は通常より厳重になり、気苦労も絶えない。せっかく捕縛した狙撃手を取り逃がすという失態もあった。こんな日は、軽く酒を引っ掛けてそのまま眠ってしまうのがいい。
 そう思って早めに仕事を切り上げたから、外に出たのはまだ陽が落ちようとする頃だった。こんなに明るい時間に帰宅するのは久方振りだ。贔屓にしているバーに向かおうとしたところで、目の前に太宰が現れた。太宰とは昼間別れたばかりだ。
「何の用だ?」
 ここのところ急に会う頻度が増えたのを、太宰は偶然だと言い張っていた。けれど、こんなところで会うのが偶然のはずはない。もしかして、あの狙撃手のことでも聞きにきたのか。己の痛いところに考えが及んで苦い気持ちになったが、太宰の用件は違うようだった。
「何って言うか、あー、その、飲みに行かない? 久しぶりに、二人で」
 太宰は笑ってみせたが、その顔は見たことない程に下手くそだった。自分の感情や表情をコントロールするのが上手い奴だから、そんな姿は珍しい。自分でもどうするのが正解かわかっていないのだろう。
 森が死んでまだ間もない。太宰にだって、思うところはあるのだろう。どちらにしろ今日は飲みに行くつもりだった。それに太宰がついて来たところで大きな違いはない。無言で背を向けると、太宰は心得たとばかりに後ろをついてきた。

 適当な店に入って注文を済ませても、太宰はくだらない話をぺらぺらと喋り続けていた。一人になりたくないとか、話し相手がほしかっただけなのかもしれない。別にそれでも良い。太宰の言うことはムカつくことばかりだが、変に気を遣わなくていいから会話していて楽だった。脳を通さず、脊髄反射で会話ができる。
 だから、突然太宰が言葉に詰まって沈黙を落とすまで、何を話していたかなんて意識していなかった。訝しんで、中也は一瞬前に口に出した言葉を回想する。
「じゃあなんで誘ったんだよ」
 深い意味があって言った言葉ではなかった。いつものように軽口を叩くから、同じように軽口で応戦しただけだ。
 太宰は楽しそうに喋っていた時のまま、上がった口角をひくりと引き攣らせている。何か明確な理由があって誘ったのに言い出せずにいたのだと、そこでようやく理解した。己の失敗には気がついたが、吐き出した言葉をなかったことにすることはできない。
 嫌な沈黙が流れた。その間を誤魔化すように、太宰はグラスを乾した。テーブルとグラスのぶつかる音がいやに重苦しく響く。
「なんで、か。君には悪いことをしたと思ったからかな」
「なんだよ、過去の悪事でも謝りにきたのか?」
「謝る気はないよ」
「ねぇのかよ」
「ないね」
 太宰が静かな笑みを見せて、張り詰めていた空気が緩んだ。いつの間にか詰めていた息をそっと吐き出す。グラスの中の赤黒い液体をひと口含んで、ゆっくりと飲み込んだ。
「じゃあなんなんだよ」
「あの頃、私は間違いなく君のことが好きだったよ」
 どくん、と心臓が大きく跳ねた。苦い記憶が、脳裏に鮮明に湧き上がってくる。
 太宰のことが好きだった。太宰からも好かれていると確信していた。だからキスをした。絶対に合意だった。なのに、それ以降突然避けられるようになった。碌に説明もされず、納得がいかないまま。そうして二人は相棒に戻った。相棒であることは確かだったが、キスする以前よりは確実に距離が遠くなった。
 もう遠い昔の記憶だ。誰にでもある、青春の苦い一ページ。黒歴史という程葬り去りたいものでもないが、綺麗な思い出と言える程昇華できてもいない。ただ、拒絶だけは明確に感じ取っていたから、仕方なく太宰の希望通りに離れた。
「手前が、逃げたんだろうが」
 声が掠れた。喉が異常に渇く。堪らずグラスに手を伸ばした。
「そうだね。否定するつもりはないよ。でも、あの頃の私には、君を守る方法なんてあれしか思いつかなかった」
「守る? 何から?」
「森さんから」
「は?」
「首領が俺に危害を加えるわけがない」と、即答できればどんなに良かったか。しかし悲しいかな、真っ先に浮かんだのは「森ならあり得る」だった。
 太宰の先程の言葉と、中也が当時感じ取ったものを信じるなら、あの頃の太宰は間違いなく中也に執着していた。脅迫の手段としてはこれ以上ない程に効果的だっただろう。太宰が大事にしているものなど、そう多くない。中也以外の候補なんて、織田と坂口ぐらいしかいない。それが森の策略で喪われたことぐらいは知っている。
 ついでに、太宰が急にふらふらと中也の前に姿を現すようになった原因にも合点がいった。森の脅しの効力が切れたのだ。
「何、言われたんだよ」
「『あんまり入れ込みすぎるな』」
「そんなの……
「私に他の手段があったと思う? 森さんに言われたら、平気で死地に飛び込んでいく相手に」
 悔しいが、反論の言葉など思い浮かばなかった。簡単に死ぬつもりはない。納得がいかない作戦であれば、可能な限りで抗うだろう。けれど最終的には従う。マフィアとはそういう組織だ。
「なんで、それを俺に言わねぇんだよ」
「言ったら君、私から離れてくれないじゃない」
 図星だった。当時それを知っていたら、きっと中也は太宰にどれだけ冷たく当たられても離れることはなかっただろう。諦めるなんてできるわけがない。そうなれば、太宰が危惧していた通りになっていたとして、おかしくはなかった。
「にしたって、今までいくらでも言う機会はあっただろ」
 マフィアを抜けると決めた時でも、再会した時でも良かった。死ぬかもしれないと覚悟を決めた瞬間もあった。でもその何れのタイミングでも、太宰はそんなこと噯にも出さなかった。もしどこかで死んでいれば、中也はこのことを一生知らなかったことになる。
「なかったよ、そんな機会。だって森さんは、私の行動次第ではいつでもそのカードを切れるんだ。常に綱渡りさ。それとも君、私が駆け落ちにでも誘えば一緒に逃げてくれた?」
 間違いなく、返事はノーだった。当時全てを説明されていたとしても、太宰の手を取って逃げるなんて考えられなかった。なのに、欠片も期待されていなかったことが悔しかった。

(中略)

 裏社会の諍いは、徐々に激しくなってきた。今まではほとんどいなかった、ポートマフィアの縄張りで喧嘩をする無法者が増えている。手痛いしっぺ返しをもらって収束する程度のいざこざでも、数が増えれば多少面倒である。
 ただ、その程度なら可愛いものだ。事は首領の交代である。水面下では、本気でヨコハマの勢力図を塗り替えるつもりの輩も存在することだろう。まだはっきりと観測されてはいないが、ヨコハマ中の裏組織がピリピリと神経を尖らせていた。
 それに伴って、中也とのデート中に監視の視線を感じる機会が増えた。中也も口には出さないが気づいているようだ。
 ポートマフィアの中で、中也は首領である紅葉の次に暗殺の対象となり得る重要人物だ。森は円満退職といえるのでマフィア内での派閥争いなどはないが、外部からはじりじりと狙われ続けていることだろう。
 太宰が知るだけで、既に二回は中也の暗殺未遂が起きている。本人から直接聞いたわけではないから、太宰の耳に入っていないものもあるかもしれない。最年少幹部として内外から狙われていた太宰であっても、そこまで短期間で集中的に狙われたことはなかった。
 そんな状況でも、中也との逢引は続いていた。どちらも辞めようとは言い出さなかった。少なくとも太宰は辞める程のことではないと思っていたし、おそらく中也も似たようなものだろう。お互いに命を狙われるのには慣れっ子だった。
 それでも警戒はしているようで、待ち合わせの場所は毎度異なる場所であったし、帰りに太宰を降ろす場所もランダムだった。
 社員寮の近くで車を駐め、シートベルトを外す。もう定番となってしまった所為で、この後の行動が読めてしまう。定番となる程繰り返したにも関わらずどうにも慣れなくて、毎度照れ臭くて堪らない。
「太宰」
 名前を呼ばれると、小さく心臓が跳ねる。ただ待っているのが居た堪れなくて、中也の頬に手を添える。
 キスくらい、昔はもっと上手くやっていた気がするのに、今までどうしていたのかちっともわからなかった。もっと何もわからなくなるくらいぐちゃぐちゃにしてくれればいいのに、莫迦みたいに丁寧に、大事に触れるだけのキスをされるから、余計に恥ずかしい。
 本当は、中也の方もこれ以上どうしていいのかわからず困っているのかもしれない。ほとんどずっとただの元相棒みたいにしておいて、別れ際にキスをするその時だけ、突然恋人みたいな顔をするのだ。そうしてまた、ただの元相棒みたいな顔をして送り出される。甘い睦言で送り出されるのもどうかと思うが、その切り替えの早さも如何なものだろうかとずっと思っている。
 いつものように、中也の唇が近づくのを確認して、瞳を閉じる。微かな吐息が唇にかかる。早くしてくれと心の中ではほとんど祈っている。
 けれど触れる直前、発砲音が聞こえた。反射的に回避行動に移るが、予期せぬ弾丸を避けられる程の反射神経は有していない。
 弾はサイドウィンドウを貫通し、そのまま反対側の窓を突き破った。ガラス越しのためか軌道が逸れ、太宰にも中也にも直撃はしなかった。咄嗟に身を伏せたところで追撃され、窓に穴がもうひとつ増えた。
 更なる三撃の前に中也が車を発進させる。アクセルを全力で吹かせたお陰で、三撃目はアスファルトを掠めただけで終えた。
 その場から撤退し、幹線道路に出る。まだ電車も動いている健全な時間帯だが、日も落ちて久しいため道は空いていた。しばらく道路を転がすが、追ってくる不審な車は見当たらない。追加の狙撃もないようだった。
 信号待ちで停車すると、隣に並んだ車の運転手がサイドウィンドウの弾痕を見て悲鳴を上げた。
「悪い、最近こんなのばっかで」
 中也は苛立たしそうに頭を掻き毟り、胸ポケットから取り出した煙草を一本咥えた。しかし、その後少しばかり悩むと火を点けずに灰皿へと突っ込む。懸命な判断だろう。おそらくこれ以上の追跡はないだろうが、カーチェイスが始まらないと断言はできない。
「いいけど、あれ追わなくていいの」
「もう逃げてんだろ。いちいち相手すんのももう飽きた」
 その台詞だけで、太宰の知らない暗殺未遂が一度や二度でないことは明白だった。
 中也が太宰を降ろす場所はその日によって違っていたが、「社員寮の近く」「人通りも車通りも少ない」という条件を考えれば、選べる場所は限られてくる。住宅地は死角が多く、狙撃ポイントには事欠かない。だからどこかにヤマを張ってじっと待ち続ければ、いずれ必ずチャンスはやってくるという計算だ。
 けれど中也に狙撃が効かないのは有名な話だ。正確な発動条件はわからずとも、一度でも異能を使っているところを見れば、重力を操っているのはすぐにわかる。前線で嬉々として銃弾を撃ち返す姿はよく語り草にされている。
 それでもなお、狙撃を選んだということは。
「あの人たち、私の異能のこと知ってるんじゃないの?」
「かもな。昔程じゃねぇが、手前も十分有名人だ。調べるのはそう難しくねぇ」
 そこまで知られているのであれば、逢瀬を続けるのは危険だろう。少なくとも、今までと同じようにとはいかない。
 夜の街が、窓の外を流れていく。中也は適当に車を走らせているのかと思っていたが、その景色にはどうにも覚えがあった。
「ねぇ、これどこに向かってるわけ?」
「俺ん家」
 答えは太宰の予想通りのものだった。
「何ちゃっかり連れ込もうとしてるの」
「危ねぇだろうが。さっきの今で一人にできっか」
「狙われたのは君でしょ。私は関係ない」
「んなもんわかんねぇだろうが」
「だとしても君に守られる筋合いはない」
「俺のためとか抜かして勝手に身を引いた手前にだけは言われたくねぇよ」
 痛いところを突かれて口を噤む。
 中也と太宰は、ずっと相手の足だけは引っ張りたくないと思っていた。だから足手纏いのような扱いをされれば、腹を立てるのは道理だ。そして、それを最初に破ったのは太宰の方である。
 中也は小さく唸り声を上げたが、やがてゆっくりと続きを話し始めた。
「手前は異能力相手と頭脳戦には強いが銃火器の類には弱い。俺はその逆。それは手前も認めてんだろうが。死んでほしくねぇのは俺も同じなんだから、お互いの長所で短所を補い合えばそれでいいだろ。手前が俺を守るのと同じように、俺にも手前を守らせろよ。昔もそうだっただろ」
 納得したわけではないが、太宰の分が悪いのは明白だったので大人しく身を引くことにする。だから行き先はそのまま、中也の家だ。
 連れ込む、なんて表現したが、もしそうなったら実際どう振る舞うかは決めていなかった。別れ際のキス以外には一切そんな素振りを見せないから、そんなつもりはないか、あったとしてももっとずっと先の話だろうと思っていた。
 かつては、当たり前のように中也とセックスしたいと思っていた。中也と一緒にいた頃はセックスの快楽を知ったばかりで、その快さに夢中だった。中也とできればどんなにいいだろうか、と邪な妄想をしたこともある。
 歳を取った所為なのか、色々な諦めの所為なのか、はたまたセックスに飽きたのか。原因は自分でもはっきりしないし、おそらくひとつではない。ともかく今は、セックスそのものに対して昔程の興味がなかった。昔のようにセックスの相手を探して街で女性に声を掛けるようなこともめっきりなくなっていた。
 男とセックスするための後ろの穴は、何年も使っていない。中也とこういう関係になってから、おそらく今のままでは中也のものは入らないだろうと気づいていた。だから、もし中也とセックスがしたいと思っていれば、太宰はこうなる前に準備をしていたことだろう。けれどしなかった。
 中也がしたいのなら、相手をしても良いと思う。けれど積極的にしたいとは思わない。だから準備などする気がなかった。だけど、拒否しているのだとも思われたくない。我ながら面倒くさいなと思う。
 中也がどう思っているのかは、全く読めない。

(中略)

 武器庫が襲撃された、という連絡を受けたのは、中也が帰宅後、家で寛いでいる最中だった。報せを受けて真っ先に思ったのは「またか」だった。
 最近はこの手の莫迦をやる連中が多い。大抵は本当にただの莫迦だ。マフィア側も警戒レベルを数段引き上げているから、ほとんどの者はすぐに捕まるか殺されるかして、中也の下へ来るのは事後報告だ。そういう莫迦をやる連中に有力な対抗組織が関与していることはほとんどないから、生捕にしたところで引き出す情報もない。
 けれど今回は違っていた。警備システムが突破されたらしく、警備の者が気づいた時には有用な物は粗方盗まれた後だった。当然、犯人は逃走済み。残っていたのは、ガラクタと言っていいものばかりだった。しかしそれだけでも、そこらの有象無象とは明らかに異なることがわかる。盗みに入る前に、中の物に目星を付けていたとしか考えられない。つまり、事前に武器庫の収容品が漏れていたということだ。
 呼び出しに応じて赴いた武器庫は、中身がすっかり減っている以外は綺麗なものだった。大きく破壊されたり無駄に荒らされたりといった場所はない。手際がいい。
「侵入経路は?」
「はい、正面の扉を正規のパスで解錠されたようです。その所為で警報が鳴らず、発見が遅れました」
 今回の侵入を発見したのは、警報ではなく定期巡回だった。正面の扉や窓、壁などを正規の手順を経ずに解錠または破壊した場合、それを検知して警報が鳴る仕組みになっている。システム全体をハッキングして機能を停止させでもしない限り、正規パス以外でそれを回避する手段はない。
 となると、どこからかパスワードが漏れたということだ。漏洩の経路を洗う必要がある。故意か過失かに関わらず、内部に犯人が存在する。
「パスの持ち主は」
「それが、持ち主は存在しないようで……
「存在しない?」
「はい、詳細はまだ調査中なのですが……
 そう言って困惑を滲ませながら続いた説明は次のようなものだった。
 本来、パスワードは解錠の権利を持つ者の数だけ発行される。同じパスワードを複数人で使い回すことはない。また、そのパスワードは定期的に変更される。しかし、昨今の争いの影響で、パスワード所持者のうちの一人が命を落としてしまった。所持者が当時使っていたパスワードはすぐに使用不可に設定されたが、連絡の行き違いで定期変更の新しいパスワードが発行されてしまった。本来ならそれも使用不可に設定する必要があったが、死亡の事後処理をしていた面々は新しいパスワードが発行されていることを知らず、使用停止措置がされないままになっていたという。今回使われたのはそのパスワードだった。
 あまりにもできすぎた話だ。パスワードを知っている者を脅迫や買収して吐かせるよりずっと難しい。内部に諜報員が紛れ込んでいるとしか考えられない。それも、かなり優秀な。そんな手駒を有しているとなれば、武器庫の襲撃程度で終わるはずがない。もっと大きな何かの布石のはずだ。バックには森や太宰、ドストエフスキー級の者がいると思って良いだろう。どこもまだ大きな動きはないが、水面下で状況が進行しているのは間違いなかった。
 ここ数年は落ち着いていたから、ずっと張り詰めた緊張状態を保つのに慣れていない者も多い。組織全体として、疲れが見え始めていた。

 夜半に呼び出されたはずが、気づけば夜が明けようとしていた。各方面の調整や捜査の指示などに飛び回っているうちに、思っていた以上に時間が経っていたらしい。部下の顔にも疲労が浮かんでいる。
 裏社会に労働基準法などというものは存在しないが、心身が疲弊した状態での労働は効率が悪い。可能な限り別の者に引き継がせ、夜半より活動していた部下たちを解散させた。
 中也も疲れていた。こんな時、太宰ならもっと上手くやるのだろうと思う。こういうのは、中也より太宰の方が得意な領分だ。いない人間のことを考えても詮ないこととはわかっているが、時折こうしてどうしようもない思考が顔を出す。
 きっと、ここのところ急激に距離を縮めている所為だ。最も近しい距離にいたあの頃よりはまだ幾分か距離はあるが、わけもわからず拒絶されていた頃よりは確実に近づいている。ただの相棒だった頃とはまた違っているから、容易に比較することはできないが。
「中也さん、ご帰宅ですよね。車、出しましょうか」
 同じく帰路に着く部下に声を掛けられたが、断った。相手も疲れているのだし、余計な仕事を増やすべきではない。断った理由はそんなものだったが、自分の車に乗り込んでから、小さな思い付きが湧き上がった。
 どうせなら、このまま太宰の顔を見に行こう。行ったことはないが、家は知っている。この時間なら誰かに見られる心配もない。約束はしていないが、そんなことは今更だ。相棒だった頃は、そんなことで遠慮する発想すらなかった。嫌ならはっきりそう言うだろう。

 地平線の下に太陽の気配は感じられるが、辺りにはまだ夜の気配が色濃く残っている。新聞配達や早朝ランナーをちらほらと見かけるぐらいで、通行人はほとんどいない。
 少し離れた駐車場に車を駐め、太宰の社員寮へと向かった。扉の前でチャイムを鳴らそうとして手を伸ばし、思い直してノックに変えた。
 こんな時間の来訪だ。通常なら寝ている時間だろうし、起きていたとしても家を訪ねるには非常識な時間だ。ノックなら、相棒時代に取り決めた二人だけの合図がある。音だけで来訪者が中也だと伝わるはずだ。応対する気がないならそれでも良い。チャイムを鳴らして妙な警戒心を抱かせる必要はない。
 太宰と取り決めた独特のリズムでノックをするのは、久方振りだった。しばらくはしんと静まり返ったままだったが、やがてガチャガチャと金属音が響く。扉が小さく開いて隙間から太宰が顔を出す。扉にはご丁寧にチェーンロック。さっきの金属音はこれだろう。
「どうしたの? こんな時間に」
 寝巻き姿だった。その割には寝起きの気配は感じられない。また寝られていなかったのかもしれない。
「ちょっと、あー、なんだ、会いたくて」
 衝動的に来たから、言い訳なんて何も考えていなかった。有りのままを告げると、自分でも何を言っているのだこいつは、という気になってくる。「会いたい」という感情そのものは嘘ではないが、そんなありきたりの恋人みたいな台詞を太宰相手に吐く日が来るとは思わなかった。
 なんだか居た堪れないような気になって、語尾は尻すぼみに消えていく。普段の逢瀬だって会う以外の目的などあってないようなものだ。だから今更といえば今更なのだが、それとこれとは話が別である。
 太宰も予想外だったのだろう。虚を衝かれたような顔をしたと思えば、そのまま扉を閉めてしまった。
 機嫌を損ねてしまったかもしれない。そう危惧していたが、金属が擦れるような音の後で、扉はゆっくりと開かれた。今度は先程よりも大きく開いている。見ればチェーンロックが外されていた。
「そういうの、似合わないよ」
 呆れたように笑いながら、奥へと消えていく。これは入ってもいいということだろう。どうやら機嫌を損ねたわけではないらしい。
 慌てて太宰の後を追おうとして、三和土に置きっ放しにされていた太宰の革靴を踏んづけた。汚してしまったかと思ったが、中也が踏んづけた所為ではない泥跳ねが多数付いていたので、気づかなかった振りをした。ずぼらな太宰がこの程度、気にするとは思えない。
「今、仕事帰り?」
 座布団すらない床に座るよう勧められながら、話を振られる。太宰の声が耳に優しく届く。
「ああ」
「そっか、お疲れ様」
 太宰の手が自然に伸びてきて、ふざけたみたいに頭を撫でられる。心地よくて、もっと太宰の体温を感じたくて、太宰に近づいて抱きしめる。太宰は驚いたように一瞬身を強張らせたが、すぐに背中に腕が伸ばされた。中也が腕に力を込めると、応えるようにぎゅうと抱きしめ返される。
「甘えたいの?」
「ああ」
「そっか」
 目を閉じて、服越しにじんわりと伝わってくる太宰の体温に集中する。抱きしめる腕に力を込めると、子供にするように背中を撫でられる。もっと、と主張するようにすり寄ると、耳元に太宰の吐息がかかる。目を開けるとすぐ近くに太宰の首筋があった。それがなんだか美味しそうに見えて、惹かれるままに舌を這わせた。太宰がびくりと身体を跳ねさせる。汗のしょっぱさに混じって仄かに甘い味がした。
 首を伸ばして、太宰の唇に口付けた。季節柄太宰の唇は乾燥して硬くなっていたが、やがて馴染んでわからなくなる。身体の奥と、太宰と触れ合っている部分の両方から、ゆっくりと熱が回ってくる。冷えた身体が熱を求める。もっとほしくて、唇の中へと侵入する。唾液が絡む。柔い舌を捉える。太宰自身の熱を探し求めて手を這わせていると、右手が服の隙間を捉えた。
「やだ」
 唇の隙間から声が聞こえて、はっと我に返った。慌てて唇を離すと、太宰が遠慮がちに離れていく。
「悪い」
 他に言うべきことが思い浮かばなくて、素直に謝罪の言葉が飛び出した。太宰の返事はない。乱れた服を直し、口元の唾液を拭っている。
 真綿で首を締められるように、じわじわと呼吸が苦しくなる。ゆっくりと、太宰の言った言葉が腹の奥へと滲みていく。理解するにつれて、身体の熱が急速に冷めていった。
「中也、あのね」
 太宰が囁くような声で呼び掛ける。けれど、それ以上聞きたくなかった。
「悪い、帰る」
 いつの間にか落ちていた帽子を拾い上げ、部屋の外へと足を向ける。
「え、ちょっと中也!」
 太宰の声が背後から追ってくるが、それを遮断するように玄関の扉を力いっぱい閉めた。外に出ると、足が勝手に走り出す。乗ってきた車の運転席に座ったところで、ようやくひと息ついた。
 ハンドルに体重を預けた拍子にうっかりクラクションを鳴らしてしまって飛び上がる。慌てて周囲を見回すが、幸い人通りは少なかった。あれからまだ幾許も経っていない。特にこちらに注目するような通行人がいないのを確認して、大きく息を吐き出した。
 太宰は確かに「やだ」と言った。始まりの時にも散々ごねていたし、キスの時にも最初は拒否しようとしたことを覚えている。そういうことに積極的でないことは、ずっと理解していた。
 けれどあの日、キスを強請られたのも事実だった。だから、本当に嫌なわけではないのだろうと理解していた。少しばかり調子に乗っていたかもしれない。
 弁解するなら、あの場でセックスしようと思っていたわけではない。太宰が拒否しなければそうなっていたかもしれないが、明確にそういう意図があったわけではないのだ。ただ太宰に触れて、その体温を感じたかっただけ。我ながら、言い訳にしか聞こえないが。

(後略)


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