シノハラ
2024-10-25 23:43:53
872文字
Public ルムメ
 

鍋とルムメの走り書き

2024/2/20初出

 鍋が一つ増えていた。と言うと認識に齟齬が生じるかもしれない。正確性を期すのであれば、この家には一つも鍋がなかった事を付け加えておいた方がいいだろう。
 少し前にこの家で暮らし始めた男が台所から出てきて、鍋が見つけられないと言い出したのは二日ほど前のことである。どこかにしまい込んでしまってはないかい。そこまで節穴になったつもりはないんだけど。そんなことをぼやく彼に、アルハイゼンは従前の通りの事実を告げた。
 ない。と、彼はアルハイゼンの回答をおうむ返しにする。まるで音を真似ただけで、意味をまるで理解できていないような様子を見て、この家には君が求める調理器具はないのだと改めて説明してやった。
 鍋がないなんてことないだろう。ないものはない。そんな、確かに汁物を面倒がっていた記憶はあるが、そこまで徹底しなくても。どうして食べたくないものをわざわざ作る必要があるのか。それはそうだけど、煮物とかどうするんだよ。一人分くらいならフライパンで十分だよ。
 君がいくら主張したところでないものはないと改めて事実を告げれば、彼はようやく諦めたらしかった。ぶつぶつ言いながら台所に引っ込んだ後、しばらくしてから出来上がった夕食は彼が用意するにしては少々ちぐはぐだったようにも思う。
 予定が狂った、と言い訳めいたことを口にする彼の料理は早くもアルハイゼンの舌に馴染みつつある。
 そういうことがあってから二日である。くつくつと緩やかな火にかけられて煮えているそれが汁物なのか煮物なのかをアルハイゼンはまだ知らない。
 あの晩彼に出くわさなければ、こんなことは当分起きなかっただろう。それなりの将来にアルハイゼンが衰えて柔らかい物を好むようになったりすれば、こういう事も起きるかもしれないが。
 たとえば、必要とも感じていなかった調理器具が突然我が物顔で鎮座していること。これが他者と暮らすということである。そう、くらくらぷつぷつと音を立てる鍋がアルハイゼンに告げてくる。思いの外饒舌なそれを黙らせるのは、これが食卓に上がってからでもいいだろう。