シノハラ
2024-10-25 23:39:05
2486文字
Public アベンシオ
 

シの発表動画を寝落ち用ASMRにしてるチュのアベンシオ

2024/2/25初出

 彼は抑揚が少なく、淡々と喋る人物だと思い込んでしまっていたらしい。そう、彼との初めての接触を終わらせてから彼の言葉を一つ一つ検討する間にアベンチュリンは反省する。
 集めていた情報のほとんどはそんな口調を示唆していたわけではなかったと言うのに、いつの間にか偏った音声情報を唯一の真とアベンチュリンは断じてしまっていた。アベンチュリンを惑わせた原因になったのは、僅か三十分にも満たない学会発表の動画である。
 情報とは万物の基本である。ギャンブルしかり、仕事しかり、それがなければ始まらない。故に、アベンチュリンはベリタス・レイシオと名乗る学者と同じ仕事をする事になると分かったその日の内に彼の公的な情報を掻き集めた。
 元々彼の存在はなんとなくは知っていた。あれだけメディアでドキュメンタリーが制作されていれば、誰だってちらりと見た事くらいはあるだろう。アベンチュリンだって例に漏れず、彼の顔――いやあれは顔ではないのだが――自体はすでに本屋で見かけてはいたのだ。
 そうでなくても彼が所属する博識学会はスターピースカンパニーが資金提供を行う組織である。その中でも著名人である彼を全く知らずにいられるはずもない。とはいえ、共に仕事をする上でアベンチュリンが優位に立つためには情報が全く足りなかった。
 彼の人となりを紹介する本の中でも評価が高い物を選んで目を通してから、アベンチュリンは学生達が集まるコミュニティを横断する。彼らの愚痴や嫉妬、はたまた心酔を眺めているうちに、最新の学会発表のURLが目に留まった。新鮮な情報を提供したらしい投稿の横についている評価は飛び抜けて高い。
 動画を再生したとしても、これっぽっちも分からないことくらいタイトルからして予測できた。それでも一応は開いてみれば、件の石膏頭の彼がポインタを手に登壇する。
 予想はしていたものの、一言目から何を言っているか分からなかったのは少々面白かった。アベンチュリンも習得している言語を使っているはずで、極一部を切り取れば理解可能な単語と接続詞が散見されるのに、一文として見た時にこれっぽっちも分からなくなる。全貌が掴めないせいか、改めて発された言葉を再現しようとしてもうまくいかない。
 いかんせん専門用語が多すぎるのだが、学会での発言であるのだからこれといって不思議な話でも何でもない。むしろ疑問符を浮かべる事すら放棄しているアベンチュリンの方がこの動画のターゲットから大きく離れており、場違いな存在なのだ。
 早々に発表内容に耳を傾けるのを放棄して、アベンチュリンは中断していたコミュニティでの評判集めに戻ることにする。そうするうちに、次第に眠気を覚え始めた。たしかに生徒達の投稿は眠たいものばかりだが、だからといって特別影響を受けるほどのものでもない。その程度であくびをしていては、アベンチュリンは日に何度も船を漕がなければならなくなってしまう。
 首を傾げながら熱くて甘いコーヒーを淹れて戻ってきて、アベンチュリンは自身の鼓膜を穏やかに揺らす存在に気がついた。レイシオの声である。低めで抑揚が少なく、淡々とした男の声はほとんど言葉として理解できずとも音としてアベンチュリンの耳に届いていた。
 絶えず流れる水のようなそれが、どうやらアベンチュリンの睡眠欲を誘っているらしい。これでは仕事にならないとアベンチュリンは動画を止めて、その晩再びそのページを開いてみた。彼の声が自分にとって入眠効果があるかを確かめたかったのだ。
 おそらく彼が発表のために用意した時間など、ほとんどないのではないかと思う。それでも彼は一時も淀まず、迷いなく本来は言葉であるはずの音が紡がれていく。
 ベッドに潜り込んで枕の横にスマートフォンを転がすと、アベンチュリンは瞼を落とす。一応ループするように設定はしたものの、二巡目を聞くことはなかったように思う。アベンチュリンは一度眠ると途中覚醒はほとんどしないが、寝付くまではいつもそれなりに時間をかける。新しい仕事が始まる前は尚更で、頭に詰め込んだ情報を無駄に吟味してしまいがちだった。
 今回はそれが全くなかった。情報収集のターゲットの声を聞いていてその反応はいかがなものかとも思わなくもないが、貴重な睡眠時間を食い潰すだけの効果があるとも思っていないので構いはしないと思い直す。
 すっきりとした頭で目覚めて丸一日別の仕事をして夜が来て、アベンチュリンはもう一度動画を再生する事にした。一度だけの事象であれば、昨日のアベンチュリンが疲れていてただやたらと寝入りが良かっただけの可能性も排除できないからである。
 何度目かになる彼の言葉はやはりはっきりと理解できるものではなく、ゆるゆるとアベンチュリンの意識の表面を撫でるばかりで内側に入り込もうとはしなかった。ただ、音としては違う役目を果たしているようで、じんわりと彼の声が滲むように入り込んでくるのが分かる。
 音楽に近いかもしれないそれに身を浸してうとうととまどろむうちに、どこかで誰かが授業中の先生の声は眠気を誘うものなのだと言っていたのを思い出す。アベンチュリンには全く経験のない出来事ではあるが、もしかしたらこういう感覚を指しているのかもしれない。その気づきがその晩のアベンチュリンの最後の記憶だった。
 そういうことがあってから今日の対面に至るまで、アベンチュリンは度々彼の発表や講義の音源を有効活用させてもらっていたのだ。まさか、自分の声がこんな使われ方をしているとは彼だって夢にも思っていないだろう。
 先ほどのやり取りの調子を思えば、きっとアベンチュリンの悪用を知った途端に彼は気分を損ねてしまうに違いない。今後関わる事があったとしても、おくびにも出さない方がいいだろう。
 そう結論付けてから、アベンチュリンはドリームプールに身を浸す。ピノコニーの夢に沈んでいくその瞬間、鼓膜の奥に潜んでいたらしいアベンチュリンにも分かる意思を宿した彼の声が意識の内側にじわりと滲んだような気がした。