梶木鮪
2024-10-25 02:04:52
5541文字
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心配

drfキド夢の続き物。
忠告の続き。

 ここだけの話、店長のカンは何かとよく当たる。特に、人を見る目や感情の察知に関しては、今まで会ったどの人よりも冴えていた。お客さんのニーズに応えて相手を楽しませ、しかし無法者は即刻つまみ出す判断力。そういう人を見る力があるからこそ、カフェのお客さんともいい関係を築けているのだろう。長い間、店長の側でその手腕を見てきた私は、そう考えたうえで彼の審美眼を信頼していた。
 だから、店長からすれば、この事態も予想の範囲内だったのかも。薄暗い寝室の中、震える手で布団を抱えてそう考えていると、肩に手を置かれた。外が土砂降りだったせいか、その手袋に覆われた手はひどく冷えている。あの、キッドさんと初めて会った雨の日と同じ、冷たい手。あの時と今とで違うのは、彼がとても怖い顔をしていることなくらいだ。

「えと、あの、キッドさん? お、落ち着いて」
「おいおい、この状況であんたがそれ言うのか?」

 何とか笑顔を形作って声をかけた私に、そう冗談めかして返事をするキッドさん。だが、その声には隠しきれない怒りが滲んでいる。いつもの、愛おしさや優しさが透けて見える声とは違う、鋭いナイフのような冷たい声。そんな、真っ黒な感情を抱えた彼が恐ろしくて、ぎゅっと唇を噛んだ。そもそも、どうして彼はこんなに怒っているのだろうか? 薄暗い寝室の中、何とか必死に考えを巡らせるけれど、うまく頭が働かない。
 夕食を作っていなかったから、怒っているのかな。そうネガティブな感情が脳裏をよぎるが、いやいやと頭を振ってその考えを否定した。彼は、そんなことで怒る人じゃない。じゃあ、いったい何が原因なのか。それが分からなくて、彼の冷えたアイスブルーの瞳を涙目で見上げた。

「キッドさん、何でそんなに、怒ってるんですか」
「何で、って……そりゃあ、好きな女が誰かに怪我させられて、怯えて布団で震えてたらこうもなるだろ」

 恐ろしく平坦な声でそう言ったキッドさんが、私の手をそっと取った。ぎゅっと固く握っていたそれが彼の手により解かれると、そこには赤い血が付いていた。……えっ? 待って何これ、どこで付いたの? まったく記憶に無い予想外の事態に、一瞬で恐怖も何もかもが吹っ飛んで目を見開いた。だが、そんな私をよそに、キッドさんはさらに言葉を続けていく。

「なあ、誰にやられたんだよ。誰が、あんたにこんなことしたんだ。教えてくれ」

 あんたをここまで怯えさせた奴に、たっぷり礼をしてくるからさ。そう優しい手つきで手のひらの血痕を撫でるキッドさんに、冷や汗が止まらない。どうしよう、完全に勘違いしている。事情を説明しようにも、私自身どこで怪我をしてどこで血が付いたのか分かっていない。しかし、このままだとキッドさんは、架空の犯人に突撃してしまう。それだけは避けなきゃと思って、彼の顔を見て慌てて口を開いた。

「あの、キッドさん! 私、大丈夫ですからっ! この血も、誰かに傷つけられたとかじゃなくてっ」
「何だよダーリン、犯人を庇うってのか? ……ってことは、身内にやられたのか」
「違います‼︎ まず私、どこをどうやって怪我したかも」

 分からないんです、と続けようとした言葉は、雷鳴にかき消された。カーテン越しにも見える閃光と鼓膜を揺るがす轟音に、声にならない悲鳴をあげてキッドさんに飛びつく。怖い、怖い、怖い。ゴロゴロと断続的に鳴る大きな音を堪えるように、ぎゅっと彼の胸に顔を埋めた。家の中にいても、怖いものは怖い。そう半分泣きながら恐怖をやり過ごしていると、キッドさんの手がおそるおそる肩に回された。

「このタイミングで聞いていいのか分からねえが、あんたってもしかして……
「お恥ずかしながら、雷が大の苦手、です」

 相手の胸から顔を上げて、そう涙声で打ち明ける。小さい頃、大雨の中ひとりぼっちで留守番させられた日から、雷が苦手になった。これでも、一人でなければ何とか耐えられるほどには克服したのだけれど、恐怖心ばかりはいくつになっても払拭できず。子供っぽいから何とかしようとしてはいるんですが、としょもしょもと落ち込んで彼の胸に顔を隠した。恥ずかしさのせいか、耳や頬が熱を持っている気がする。

「今日だって、雨が降り出したから急いで帰ってきたんです。買い物を済ませて、何とか家に着いたはよかったんですが……家に着いた瞬間、大きなのが落ちて。もう怖くて仕方なくって、買い物袋も玄関に落としたままで」

 ぐすぐすと半泣きで怖かったことを打ち明けていると、そこではたと気がついた。雷が鳴って、買い物袋を落とした時に、足に卵のパックの端が当たったような。そう思いついて、彼の腕の中でもそもそと体を動かし自分の足を確認する。ちょっと掠ったくらいかな、と思っていたそれは、シーツの上にシミを作るほどにふくらはぎを切り裂いていた。思っていたよりも多い出血量に、自分でも驚いてしまう。
 パニック状態で寝室に駆け込んで布団に包まったから、気にする余裕がなかった。結構ぱっくりいってたんですね、と傷口をちょんちょんと突きながら言うと、その手をぱしっと取られた。驚いて彼の顔を見ると、呆れ半分安心半分といった様子の彼がいた。どうやら、自分が勘違いしていたことに気がついて、ちょっと冷静になったらしい。よかった、もう怖い顔じゃない。
 そう安心したのも束の間、今度は布団から体を引き出されて抱えられ、急な浮遊感に悲鳴が出た。いわゆる、お姫様抱っこの形で抱き上げられて、慌ててキッドさんの首に腕を回す。声をあげた私に、キッドさんは「悪い、痛かったか」と聞いてくれたけど、気にするところはそこじゃない。

「キッドさん、急にどうしたんですか⁉︎」
「傷痕残ったら大変だし、怪我の処置すんだよ。ついでに、一緒に風呂入っちまうぞ。洗濯はその後だな」
「えっ、そこまでしなくても大丈夫ですよ……? 歩く分には問題ないですし、ね?」

 お風呂だって一人で入れますよ、と困惑しながら言うと、キッドさんがこちらを見た。その、綺麗な瞳にじとっと見つめられて、だんだん気まずくなる。ああ、これは何か不満がある時の顔だ。

「雷、怖いんだろ。怪我しても気づかないくらいパニックになるなら、あんたを一人になんてしておけねえよ」
「でも、ご飯だってまだ作れてませんし、これ以上ご迷惑をおかけするわけには」
「いいから。今日は、全部俺に任せてくれ。頼むよ」

 あんな、肝が冷えるようなことは、もうまっぴらごめんだ。だから、今日はもう大人しくしててくれ。そう若干拗ねた口調で、懇願するように言われてしまえば、彼を突っぱねることなどできなくて。結局、彼と一緒にシャワーを浴びることとなった。何とか体の前はタオルで隠していたけれど、それでも顔から火がでそうなほど恥ずかしかった。
 そうして丁寧に体を洗ってもらって、冷えていた体が完全に温まった頃。ドライヤーで髪を乾かして、それぞれ部屋着に着替えた後、またひょいと抱えられてダイニングまで運ばれた。その途中、救急箱のありかを尋ねられたので答えると、そっと食卓の椅子に座らせられた。そのまま、小さい子にするように「怖いかもしれねえが、ちょっと我慢してくれ」と頬に口付けられて、顔に熱が集中した。
 怪我の処置なら、自分でできますよ。申し訳なさに耐えられなくなって、そう言って椅子から立ち上がりぱたぱたと部屋の中を駆け回る。しかし、次の瞬間には、彼に捕まって抱えられ、椅子の上に戻されてしまった。そのうえ、いい子で待ってろと頭を撫でられてしまっては、もうどうしようもない。さすがに諦めて、面目ないなと俯きながら、救急箱を持ってきた彼がテキパキと処置を済ませていくのを黙って見つめていた。
 外の雨はだいぶ弱くなったのか、響いていた雨音も随分小さくなった。雷鳴も、耳を澄まさないと聞こえないほどに遠い。けれど、稲光はまだこの部屋に届くらしく、視界が白く染まるたびにびくりと体を揺らしてしまう。彼がいてくれるからマシになったとはいえ、やっぱり少し怖い。足の先からじわじわと登ってくる恐怖に、また泣きそうになっていると、そっと頬を撫でられた。すっかり体温をとりも出した彼の手に、心が落ち着いていく。

「雨降りのたびにこうなってるんじゃ、心配になるな。もういっそのこと、一緒に住んじまうか? 俺の家来ていいよ、無駄に広いし」
「えっ⁉︎ いやでも、それは流石にキッドさんに悪いので」

 大丈夫ですよ、そこまでしていただかなくて。そう慌てて断ろうとしたら、むにっと大きな手に頬をつままれた。みゅ、と悲鳴をあげた先、不満気にこちらを見つめるアイスブルーと目が合う。

「嫌なのかよ」
「うっ……いや、じゃ、ないです」

 拗ねた犬のような、むすっとした表情。罪悪感をちくちくと刺されるその顔に耐えられず、はいと返事をしてしまった。すると、相手はよかったと言いたげに表情を緩ませて、私の頬から手を離した。作業を再開した彼との間に、また静寂が訪れる。しとしとと降る外の雨を気にしながら、彼の手元を見てぽそりと呟いた。

「なんか、手慣れてますね。キッドさん」
「まーな。仕事柄ちょっとした怪我もするし、何より相棒……仕事仲間のブッチってやつが怪我しがちな男でさ。気づいたら得意になっちまってた」
「お仕事、警備関係の仕事って言ってましたもんね。ところで、ブッチさんってあの、この間カフェに一緒に来てた、ふわふわの黒髪の猫っぽい人ですか?」
「そう、あいつ」

 悪いが、あんたには絶対紹介しねえぞ。あいつ、有名な女たらしだから、話しかけられたら全力で逃げろよ。そう、真面目な顔で釘を刺すキッドさんに、ふふっと笑いが込み上げてくる。さっき見せた、震え上がるほど怖い顔とは違う、いつものキッドさんの顔。そんな相手にほっと息を吐きつつ、しかしさっき見た顔だって夢じゃないと胸を押さえた。
 ……店長の見立てのとおり、彼は確かに心の内に暗い感情を抱えているのだと思う。つい先ほど、私に見せたあの怖い顔は、きっとその一部分が顔を見せたのだろう。自分の大切なものが誰かに傷つけられたことへの、激しい怒り。そして、怯えた私が自分を避けるかもしれないという恐怖。そんな、どす黒い感情が溶けたアイスブルーの瞳は、雷の何十倍も怖かった。それこそ、自分の意思に関わらず、体が震えてしまうほどに。
 でも、だからといって彼を嫌いになるわけではないし、その感情を無かったものにする気もない。仮に、またあの怖い顔になった彼が、私の腕を掴んで閉じ込めたとしても、彼を拒んだりはしない。だって、そんなことをしてしまうぐらい不安定な状態の彼を、一人になんてしておけないもの。ひとりぼっちの寂しさは、痛いほど分かるから。壊れ物でも扱うかのように、優しく丁寧に触れてくる彼を見ながら、そう考えた。

「よし、これでもう大丈夫だろ。ああでも、無茶はすんじゃねえぞ。出血は止まってるが、またいつ傷口が開くか分からねえし。少しでも様子がおかしくなったらすぐ言え、医者に見せる」
「はい。キッドさん、手当てありがとうございました」

 ふくらはぎの上に綺麗に貼られた、大きめの絆創膏。足を動かしてそれをよく見ながら、彼にお礼を言うと、ふっと微笑まれた。顰めっ面をしっぱなしだった彼の、今日初めて見る笑顔には、安堵の念がありありと現れていた。その、心底ほっとしたと言わんばかりの顔を見て、心配させてしまったなと眉を下げる。そのまま、ごめんなさいと声に出そうとしたところで、ぎゅっと手を握られた。

「心配させたと思ってんなら、次からはちゃんと俺を頼ってくれ」

 あんたがどこかで傷ついて、俺の手の届かないところに一人で行っちまったら、とても耐えられない。握った手を額に当てて、キッドさんはまるで祈るように声を発して俯いた。その、恐怖や不安が滲み出ている彼の声を聞いて、彼も怖かったんだと理解した。私だって、彼がひどい怪我をしていたら、いったいどうしたのかと心配する。彼はきっと、大切な人が傷つけられた時に、激しい怒りを覚えるタイプなのだろう。
 頼ってくれ、と言われても、抱え込む癖はきっとすぐには治らない。数十年もの間培ってきた性格は、そうそうすぐには変えられない。でも、こうして気にかけてくれる人がいるのなら、少しだけ肩の力を抜いてもいいのかも。そう考えて、キッドさんに小さく声をかけた。

……オムレツ」
「ん?」
「オムレツが食べたいです。ふわふわの」

 もごもごとそう小さい声で呟いて、そっと視線を逸らす。卵をパックごと玄関に落としてしまったので、きっといくつか割れてしまっている。だから、傷んだり腐ったりする前に、使っちゃわないと。そう理由を述べて、お願いしますと頭を下げれば、わしゃわしゃと頭を撫でられた。

「愛しいハニーの頼みだからな、頑張るとするか」

 すっと立ち上がった彼にそう微笑まれたので、こちらも楽しみにしてますねと言って笑う。「その前にまず、血ついたもの洗濯しねえと」と寝室へ去る彼の背中を、温かい気持ちになりながら見送った。正直に言うと、彼が料理をしている場面を見たことがないので、彼が怪我などしないか気掛かりではある。けれど、怖い思いや痛い思いをした日には、頼っていいと言ってくれたのだ。せっかくだから、甘えさせてもらおうと息を吐いてゆるゆると頬を緩ませた。
 あれだけ降っていた雨は、もうとっくに止んでいた。