よければどうぞ、ともらっていた旅券を長く腐らせていた。ピノコニーの一件で謝罪を兼ねてファミリーから贈られたものだったが、肝心の後始末がやたらと長引いたせいである。
複数の勢力が入り混じった案件の結末をああだこうだと精査し続けた最終報告が完了し、ようやく肩の荷が下りた頃には件の男と顔を合わせたのは二人の手の指の数を合わせても足りなくなっていた。それでもこの件が清算されれば少なくとも仕事で顔を合わせることもなかろうと思っていた矢先に、アベンチュリンはレイシオの手を取りたがったわけである。
紆余曲折については省略するものの、では示し合わせて旅券を使いましょうという仲である。ただの友人関係ではないのは、同じプールに身を浸して眠っている事実で証明できるだろうか。
そんなふうにして夢に入ったはずなのだけれど、レイシオは先程まで一人で博物館をうろついていた。どうやらアベンチュリンには野暮用があったらしく、後で合流しようと求められたせいだ。幸いピノコニーは時間を潰すネタしかないような街なので、暇を持て余すようなこともなかったが。
アベンチュリンが集合時間から少しだけ遅れる悪癖があるのはもう分かっているのに、レイシオはいつも時間ぴったりに集合地点に着いてしまう。生来の性質によるものが半分、その分遅れて来ていると知られればアベンチュリンの到着時刻が更に数分後ろ倒しになるだけだと予測しているのがもう半分。であれば、わざわざ共にいる時間を自分から減らす必要もない。
「教授」
約束の時間を過ぎてから三分と二十四秒。声をかけられて違和感を覚えながら振り向いて、その声音が少女のそれであるのに気がついた。レイシオの視界に収まったのは見知らぬ少女であったが、出自を明確に示す虹彩から待ち合わせ相手を想起させる。
「僕だよ。アベンチュリンだ」
「……アバターを変えたのか?」
少なくとも一旦解散するまでの彼は眠る前と変わらない風貌をしていたはずだったのだけれど、と首を傾げる。どこかの誰かの狂言の可能性もなくはなかったが、差し出されたパスポートは彼のものだった。
「アバターはアバターなんだけどちょっと違うんだ。正確にはこれは僕が一から選んだものじゃない。いや、むしろ一だけ選んだって言った方がいいのかな? それはともかく、僕は今実証実験に付き合ってるんだ。遺伝子を解析して、ちょこっと書き換えたらそれを基にして指定した年齢でアバターを生成しているらしい。だから、今の僕は染色体を一つだけ書き換えた僕ってわけ」
「なるほど?」
アベンチュリンを名乗る少女は普段よりもずっと高い声で、誰かの受け売りだろう説明をする。ひとまず彼の状況は理解できたと納得することにして、レイシオは少女の姿を観察した。
元々身長が低いこともあって、今のアベンチュリンは五フィートにも届かないように思う。その身長に相応しいと評価するしかない顔立ちを思うと、彼は未成年の姿を選択したのかもしれない。
これくらいの身長の成人女性となると、化粧も服装もある程度コツが必要になるはずである。その面倒さを避けようと思えば、見た目の年齢を引き下げるのが可能であれば手っ取り早いのだろう。
「女の子の僕はどうかな。君になら抱かせてあげてもいいよ」
「侮辱のつもりであれば買うが」
にこにこと笑みを浮かべる彼――今は彼女というべきか――の表情からは悪意のかけらも感じられないからこそたちが悪い。アベンチュリンがレイシオの守備範囲を盛大に勘違いした上で、あまつさえ前向きに捉えている可能性が出てきてこめかみがきりきりと痛みそうになる。何が悲しくて自分の教え子達の年齢よりも下に見える相手に性的興奮を示さねばならないのか。
「恋人を相手にその言い種はどうかと思うけど。それとも君って純然たるゲイなんだっけ?」
それだったらちょっと悪い事したけど、と記憶を掘り返しているのかほんの少しだけアベンチュリンの視線が脇に逸れる。レイシオの記憶が飛んでいなければ、アベンチュリンに自身の性指向をはっきりと伝えたことはなかったはずだが。
「さあ、どうだろうな」
正直なところ自分でもはっきりしなくなってしまった部分だし、白黒つける必要もないとは思っている。そういう理由を告げないまま告げれば、アベンチュリンははぐらかされたように感じたらしい。
「君は僕を少女に手を出す趣味の人間だと思っているのかと訊いているんだ」
微かにではあるが剣呑な気配を帯びた眼差しを感じながら、レイシオははっきりと彼に説明する。早々に彼の両親が彼の下から離れてしまったこと、それにも起因しているだろう彼の幼少期の生活は想像以上に現在のアベンチュリンの思考に影を落とし続けている。
ずたずたに引き裂かれた倫理観と常識を彼は丁寧に繕って振る舞っているものの、ふとした瞬間に正しきれていない綻びは見えてしまうものだ。今回のそれがレイシオの思うようなものであるかはまだ判然としないが。
「……ちょっと待って」
レイシオの指摘に僅かに眉に皺を寄せたアベンチュリンがスマートフォンを取り出してカメラアプリを立ち上げたらしい。更に画面を操作してセルフィーモードに切り替えて、そこでようやくまなこを見開いた。なるほど、どうやらこれはアベンチュリンの過去に起因する状況ではないらしい。
「たしかにちょっと若めに入力したけど、女の僕ってこんなに童顔なんだ? それともバグでも起きてるのかな」
「フィードバックは欠かさないように。正常に動作して楽しかった、なんてものより余程重要なものだ」
はあい、先生。なんて言いながらも、アベンチュリンは溜め息を一つ零して本来の彼の姿に戻る。性別が変わって角度は多少変わったものの、彼がレイシオを見上げてくるのはどちらにせよ変わらなかった。
「それで君もどう?」
「今し方障害が見つかったものを勧める神経が分からない。まあ、ギャンブラーを名乗っている者に真っ当な危機管理を求める方がおかしいのかもしれないが」
「ギャンブルは危機管理を徹底してこそだ。そうでなければそうだな……十四回は死んでるはず」
一つ二つと指を曲げたアベンチュリンが匙を投げたようにぱっと手を開いて見せて、随分と物騒な事を言ってくる。彼が日常のどこまでをギャンブルとして捉えているかはレイシオの知るところではないが、今後とも彼の言う危機管理とやらを徹底してもらいたいものだ。
「その経験から言えば、特に危険はないだろう。なにより、僕が無事に戻れている事だし」
「主観的すぎる。カンパニーでは一つのデータのみで事象を語るのか? そんなレポートを提出されたら僕でなくても単位はやれないと判断するものだが」
「ケースバイケースかな。データを集めていては好機を逃す場合だってある。たとえば今とかね」
彼の言う通り、ピノコニーに滞在する期間はそう長くはない。実証実験はもうしばらく続くはずで、その間にアベンチュリンに起きた事象が入力間違いなのかバグなのか、はたまた正しい出力だったのかは明らかになるだろう。けれど、その時には自分達はすでにこの星を離れていて、次の機会に恵まれようと思うならこのサービスが製品化される時を待たねばならない。
「今の君じゃないもしもの君を見てみたい。だめかな?」
「……分かった」
彼の話を聞く限り、結局はアバターの一種でしかないのだ。データの作成で新たな機能を実装したいだけで、出力部は今までと変わらない。であれば、データに異常があれば、既存の機能で警告がなされるだろうと判断する。
レイシオの溜め息混じりの譲歩を聞いてやった、と喜色を隠さず声を上げたアベンチュリンは準備があるのだと早々にレイシオを夢から引き上げた。
二人で入るには少々狭いプールに身を浸すレイシオにしなだれかかるようにして眠っていたアベンチュリンが視線に応じておはよう、とぼやけた声で呼びかけてくる。意思疎通をずっとしていた者達の挨拶としては少々不適切にも思えたが、他にいい言葉も思いつかずにレイシオは同じ挨拶をアベンチュリンに返した。ピノコニーの住人はこんな時にどんな挨拶を交わすのだろう。
「ちょっと待ってて」
よいしょ、なんて掛け声と共に縁を乗り越えて出て行ったアベンチュリンは机の上に置いていた小箱を持ってすぐに戻って来た。小箱には小さな針が出る穴があるらしく、骨董品の血糖値測定器を思わせる姿をしている。
アベンチュリンの指先に自身の指を絡めてから目的の小箱を奪い取ると、使い方の見当をつける。やや解析された遺伝子情報の使い道が気がかりだったが、アベンチュリンがその辺りを確認せずに参加しているとも思えなかった。
「怖くなっちゃった?」
「まさか。僕がやる方が上手いに決まっている」
でも実際に針を刺すのはドクターの仕事ではないんじゃない? なんて問いかけを無視して指の先に器具を押し付けた。それからスイッチを押し込んでぱちんと針を跳ねさせると、痛みが引く前に解析を始めるアナウンスが箱から響く。
「次はこれ。そんなにたくさんカスタマイズできるものでもないんだけど」
渡されたタブレットには簡素な入力フォームが並んでいた。アベンチュリンが言うように操作できる範囲は普段のアバターよりもずっと少ない。性別変更コースと書かれたそれは年齢が最初にあり、髪と手足の爪の長さの設定が続き、あとはタトゥーや傷の際限の有無くらいしか選べないようだった。
元々が遺伝子による人体の再計算を行うものであるのだから、細かく見目を変更できないのには納得がいく。ひとまず一つ一つ目を通すと、髪の設定に目が留まった。背中の中ほどまで髪を伸ばす入力になっているのはアベンチュリンの趣味だろうか。
先ほどの彼が彼女だった瞬間を思い出そうとするが、顔周りしかまともに見られていなかったのに気がついた。二度あるかないかの出来事だったのを思えば、少々惜しい事をしてしまったかもしれない。
そもそもアベンチュリンの好みが反映されているのであれば、わざわざ自分が追加で弄る必要もないだろうと年齢が今の自分と同じであることだけ再度確認してタブレットを返してしまった。彼の意に準じたいという話ではなく、そもそもレイシオの中になりたい女性像が存在しないのが理由である。
タブレットを受け取ったアベンチュリンが液晶の上に指を少々躍らせながら、タブレットと小箱を机に戻しに向かう。ことんと小さな音が二つ響いてから、踵を返したアベンチュリンがプールに再び足を浸した。
「この水って温められないのかな。寝るときは温かいくらいがちょうどいいと思うんだけど」
そんなことをぼやきながらアベンチュリンがレイシオの胴に腕を回してくるので、抱きやすいように身を傾けてやる。するりと顎の下辺りにアベンチュリンの頭が入り込んで、腿に彼の足が絡みつく。甘えているというよりも、人で暖を取っている向きの方が強いように思う。
眠りに誘う仕組みは他にいくらでも用意されているので目を瞑って欲しいということなのだろうが、服ごと真水に浸かると錯覚させる仕組みはレイシオもあまり好ましくは思っていない。湯に浸かる時ですら、最低でも掛け湯をしてざっくりと汚れを落とす必要があるというのに、一日の汚れを溜め込んだ布地と共に水に入るなんて。
本能が訴えかけてくる微かな不快感をごまかすためにもレイシオがアベンチュリンに手を伸ばすと、腰辺りにあったアベンチュリンの手の力が少々強まった。おやすみと囁かれて相槌を返して、続く言葉を紡げたかレイシオはよく覚えていなかった。
「あ、もうできそう?」
「そのようだ」
夢に入ったと気がついたのとほとんど同時に通知が届いた。勝手な想像よりも随分と早いと感じながら改めて表示されているらしい免責事項に目を通してから、レイシオは同意とアバターの変更を選択する。
「おっと、大丈夫?」
途端にくらりと眩暈に似た感覚がして、体の力の入れ方が一瞬分からなくなった。おそらく、体のバランスが大きく変わったせいだろうと判断した辺りで、アベンチュリンに腰を支えられて今以上にふらつかずに済んだ。礼を告げてから一つ深呼吸をして、自分一人でも立てるように足の使い方を意識する。
「ふふ、だいたい一緒だ。でも、ひょっとしたらまだ君の方が少し高いかな」
レイシオが一人で立てるのに気がついたのか、片方の手のひらで背を測るようにレイシオの頭の上に沿えた。普段であればなかなかに難しい仕草を簡単にできるのが嬉しいのか、アベンチュリンが上機嫌にくすくす笑う。
そのまま顔を近寄せてきたアベンチュリンがレイシオの唇に自身のそれを重ねてきて、思わず肩を強張らせてしまった。いつもなら自分が許可を出さないかぎり、アベンチュリンは恋人の唇を奪うなんてできないはずなのに。もちろん、二人が立っている状態で段差がないなどの条件は付与されるべきではあるが。
「――……君」
少々非難する調子が含まれた呼びかけににい、と笑みを作ったアベンチュリンに更に警戒を深めた途端、体が揺らいで上がりかかった声を何とか飲み込む。悲鳴に似たそれを胃に落とし込んだ辺りで、それが浮遊感だったことに遅れて気がつく。それからレイシオも知らない形をしている尻を支えられたと思った瞬間、遠心力を感じて慌てて目の前の男にしがみついた。
レイシオに身を押し付けられてアベンチュリンが楽しそうに笑って、もう一度、二度と踵を返してくるんくるんと回る。勢いに負けてふわりと浮き上がる髪の軌跡をアベンチュリンの視線が追いかけているのが分かった。
「いつもはこんな事できないからさ」
コーヒーカップで悪戯をする子供のように追加で何度かくるくる回ってから、ようやく満足したのかにこにこと笑いながらアベンチュリンが自供する。たしかに普段はアベンチュリンにはどちらもできない事だろう。きっと彼だっていつものレイシオを抱き上げるくらいはできるはずだが、そこから好き勝手に振り回すのはさすがに厳しい。キスだってレイシオの機嫌を損ねればなかなか難しい事のはずである。
この男はこんなことがしてみたかったのだ、と思うと少年を相手にしているように感じられてくる。ひょっとしたら、実際そうなのかもしれない。失われた時代をレイシオで取り戻したいと彼が無意識にでも考えているのなら、そのままごとに付き合ってやっても構わないと思う。
「君のレディのエスコートはこういうものなのか?」
「まさか!」
とはいえ、このまま抱き上げられたままなのは人の目が皆無と言うわけでもないのだし、少々どころか大分弱ってしまう。溜め息一つで彼の無作法を許してやって、頬を撫でながら問いかけてやればぱっと表情を変えてどこか挑むような調子を出してくる。
「お望みならフルコースだって披露できるけどどう?」
挑発的とも言える眼差しはかつて受けたものとはどこか違っている。レイシオが見放すことを望んでいたはずのそれが、全く逆転してしまった日の事をレイシオはきっと忘れないだろう。
「期待しよう」
目尻を撫でてやりながら彼の思い描いている予定に付き合うと告げれば、アベンチュリンは自身の機嫌を示すかのようにもう半分だけくるんと回ってからようやくレイシオを解放した。
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