シノハラ
2024-10-23 23:50:42
4051文字
Public アベンシオ
 

みかえりのあなた

2024/4/2初出 ブロマンス寄り

 ぱちりと目を覚まして、もしかしたらまだ夢の中かもしれないと思う。ただそれでも、ここはあそこではないのは間違いなかった。規則正しく小さく音を立てる電子音も、視界を明らかにする照明も、なんならアベンチュリンという自己もあそこにはあってないようなものだったのだから。
 よくもまあ帰ってこられたものだと思いながらプールの縁に手を付けて立ち上がろうとした瞬間、アベンチュリンはものの見事に手と足を滑らせてごつんと大きな音を立てる羽目になった。どれだけプールに沈んでいたのか判然としないが、ぎしぎしと関節が悲鳴を上げる程度にはろくに体は動かせていないらしい。
 そんな体でも死亡事故が起きないよう細心の注意が払われた設計のお陰でプールで溺れるようなことはなかったが、あちこちぶつけたのだから痛いには痛い。鮮明な痛みと共にずっしりとした疲労感が体を満たしていると気がついて、アベンチュリンはゆるゆると息を吐き出した。
 まだやらねばならないことが山程あるはずなのに、このまま丸一日寝てしまいたい。
――まったく、起きて早々騒がしいな君は」
 意外な人物が部屋にいるのにようやく気がついて、アベンチュリンは目を丸めてしまった。驚きを示したつもりの表情を綺麗に無視して、いつもそうなのかと問いかけてくるのは学者特有の好奇心の強さが起因しているのだろうか。
 ここに彼がいる動機にはアベンチュリンの安否が影響しているはずなのだから、もうちょっと生還を喜んでくれても良いだろうに、とアベンチュリンは内心唇を尖らせてしまう。あの夢の中で唯一アベンチュリンに生きろと願ったのは他ならぬレイシオだったではないか。
「おはよう、教授。状況は?」
「おはよう。タスクは山積みだが、今の状態の君を鞭打ってしないといけないほどのことはない」
「本当? 今の言葉記録しておいてよ」
 そんなことを言っていたら本当に寝ちゃうけど、なんて言えば十分だけ堪えろと素気なく言われる。長旅で満身創痍の人間に対してそのオーダーは十二分に鞭ではないだろうか。
 方々に連絡を入れているのか、レイシオは手元の端末に指を滑らせながらアベンチュリンの浸かるプールに近寄ってきた。彼は眠っていいと言っていたが結局状況が許さなくなるだろうから、ふるふるとアベンチュリンは頭を振って少しでも眠気を飛ばそうとする。
 それからプールに接続しているらしいディスプレイを見て、波長やら数値やらを彼は一つ一つ確認している。どうやら、アベンチュリンの生体反応を確認しているらしい。
……健康体とは言い難いが、状況を加味すれば上出来だ」
「それはよかった」
 真面目腐って画面を見つめている彼をプールの縁に手を添えて覗き込めば、溜め息交じりにレイシオがアベンチュリンのデータを評価する。内臓の機能の一つや二つ停止しても何ら不思議ではなかったので、アベンチュリンも安堵の息を吐いた。内臓の一つや二つ取り替えればなんとでもなるが、彼らから引き継いだものを使い続けられるには越したことはない。
「そうだ。サンデーからちゃんと報酬をもらえたかい?」
 彼の名から調和の呪いをちらりと思い出しながら、アベンチュリンはレイシオに問う。彼はアベンチュリンの思惑に乗ってくれたに過ぎないと、今となっては確信している。
 そうでなければここに彼がいる謂れはどこにもないし、アベンチュリンが二度と目覚めぬ廃人になり果てた方が色々と都合が良かったはずだ。彼がそんな男であったなら、どうしてアベンチュリンにあんなものを贈ろうとするだろう。
 あの裏切りは単なる茶番であったわけだが、であれば演技の報酬が彼にあって然るべきだ。それをアベンチュリンが直接寄こす事はできないものの、最終的にレイシオに益があればそれでいい。元々依頼された仕事をまっとうしているのだから、カンパニーから正式な報酬は与えられるだろうがそれはそれとして。
 ぱちんと一つだけ瞬きをしてから、レイシオが相槌だけでアベンチュリンの疑問に応えた。ファミリーが抱えたどんな情報を受け取ったのかは気になるところではあったが、彼が興味を引かれる内容であれば相当に専門的な話になるだろうから聞くだけ無駄な気もする。
「だが、今の所役に立っているのはこの菓子の入手経路くらいだな。他はこれから妥当性を精査する必要がある」
「え、あ、これ?」
 あの男から何を聞き出しているんだ。なんて笑う隙も許さず彼が小箱から取り出したそれは、きっと舌に乗せただけで夢のように溶けてしまいそうな繊細な姿をしていた。普段はチョークを握っているはずの指先が摘まんだ菓子がアベンチュリンの口の前にまで運ばれて来たので、素直に口を開けることにする。
 舌先をほんの少しだけ冷やした菓子はアベンチュリンの口の中ですぐに正体を失っていく。単純なようでいて複数の味を重ねているらしく、見た目に相応しい清廉で繊細な印象を受けた。ピノコニーの夢の上澄みみたいな砂糖菓子。それでいて、舌を甘く焼くに相応しい糖分が頭の霧を晴らそうとしてくれる。
「味は?」
「美味しいよ。もう一つもらえる?」
「これが分かるなら嗅覚も問題ないだろう」
 アベンチュリンに乞われるままもう一つ砂糖菓子を口に放り込んでくる彼がわざわざこの菓子を取り寄せたのだろうか。いつ目覚めるのかも分からない自分のために、もっとちゃんとした検査器具だってあるだろう。それなのにレイシオは長い眠りから醒めてぼんやりしているアベンチュリンのために、こんな美味しい物を用意してくれた。
「触覚に違和感はないか?」
「大丈夫。痺れもないよ」
 念の為膝と肘を動かしてみるが、寝起きすぐに感じた強張りも緩んできている。これであればリハビリの類も必要ないだろう。
 ついでにぐっと腕を前に伸ばすと、手首や肘、肩からぱきぱきと音がする。そうか、とレイシオがアベンチュリンの判断を受け入れるのを聞きながらついでにぐるりと首を一度回し終わったところで、レイシオの指先がアベンチュリンの頬を撫でた。
「よく戻ってきたな。満点をやろう」
 柔らかくて、まんまるで、ふっと肩の力が緩んでしまう声だった。きっと一等出来の良い生徒を褒める時にも、こんな声を出すことはないのではなかろうか。そう、うぬぼれそうになる響きをその言葉は帯びていた。
 だからうっかり、ほとんど判断を挟む余地のないままに、アベンチュリンはレイシオを抱き締めた。なんならプールに引きずり込んでやろうかとも思ったが、彼の肉体は決してイミテーションの類ではない。だから、病み上がりに等しいアベンチュリンごときでは彼を揺らがす事すら叶わなかった。
 アベンチュリンの目論みは果たせなかったものの、レイシオはプールの水に濡れたアベンチュリンを引き剥がそうとはしない。潔癖を自称する彼が自らの意思以外で服を濡らし、その原因を咎めないでいてくれるのが嬉しかった。
 いや、アベンチュリンはもうずっと嬉しいのだ。彼からもらった処方箋がずっとアベンチュリンの心を温めている。あの言葉を友人がアベンチュリンに贈ったものだと思う者がいる事実もその喜びに拍車を掛けていた。
 そうだね。少なくとも僕もそう思っているから、こんなにも嬉しいんだろう。そう、浮き足立った心にアベンチュリンは同意する。
「僕達、友達に見えるんだって」
「誰が言っていた?」
「嘘とお世辞が下手そうな人」
 きっと彼とも面識があったのだろうと踏んで告げれば、やはり思い当たる節があったらしい。
「教授の見解はどうかな? 彼女の思い込みに過ぎない?」
 そんなことはない。そう否定してほしかった。彼があちこちで人の事情に首を突っ込んで、医者を自称して指導をしていることくらい知っている。今回だっていつも通りに彼が病理と感じる患者の何かに対処しただけで、アベンチュリンの思い上がりでしかないのかもしれない。
 それでもこの短いようで思い返せば随分と長く、酷く難儀した旅の終わりに、彼に応えてほしかった。
「こんなものが嬉しいのか?」
 ぼろ雑巾くらいにはすっかりくたびれ果ててしまっているアベンチュリンの体をレイシオの腕が引き寄せてくれた。特殊な処理が施されていると言っても水に浸かって身じろぎもろくにしていなかっただろうアベンチュリンの冷えた体には、彼の腕は酷く温かい。三食食べ、運動をし、適切に眠る彼のことだからアベンチュリンの体温がいつも通りでも、同じ感想だったのかもしれないが。
「うん」
 アベンチュリンだって抱きしめられたことくらいいくらでもある。けれど、どの思い出よりも彼の体はずっと温かかった。その温度が心地よくて少しばかり彼にすり寄って、記憶の中の自分が幼い子供であることに気がついた。
 あの頃の自分はただ守られるばかりの子供で、何もなくて、返せるものは子供特有の体温くらいだった。今のアベンチュリンはそれすらも失っているが、レイシオはアベンチュリンの背を支え続けてくれている。
「随分と安上がりなギャンブラーだ」
「そんなことないよ」
 アベンチュリンの耳元で空気を震わせる音は侮蔑の形をしている癖にやっぱり柔らかくて、それでいて擽ったい。その密やかな刺激に目を細めながらアベンチュリンは彼の言葉を否定する。そんなことは決してない。少なくともアベンチュリンにとって、この温もりは得ようと思って得られるものではなかった。
「そんなことない」
 こんなにまっすぐに無事を乞われ、喜んでもらえることだって。とっくの昔に失って、きっと最後のその瞬間まで味わえないものだとばかりに思っていた。
 彼から与えられているものすべてが何ものにも代えがたく、アベンチュリンは堪らず腕の力を強める。そうすれば身じろぎをしただけとでも言いたげな仕草で、レイシオがアベンチュリンを更に抱き寄せてくれたような気がした。