【小説】待ち人/トリコリ

クリア当時に書いた、ふたはくエンディング後のお話。
ピクシブより再録。

「それでは母さま、いってきますです」
「ええ、お勤め、頑張ってね」

「行ってらっしゃい」と微笑んだトリコリに「はいです!」と晴れやかな笑顔を向けた娘が、何一つ心配はない、というように玄関をくぐった。
 パタン、と扉の閉められた音と、娘の足音はほどなくトリコリの耳には届かなくなる。
 それとともに、娘の居ない家がやけに静かに思えたのは、紛れもない寂しさだった。
 いけない、気持ちを切り替えなければ。
 近所の方がお手伝いに来てくれるまで、まだしばらく時間がある。
 今の自分に出来る家事をするために、トリコリは縁側の引き戸に指を掛けた。

 そして、風の連れてきたそれに一つ瞬いた。





【 待ち人 】






 春の花の香りがした。

――母上」

 それは、微かに空気を震わせるくらいのものだった。

 けれど、トリコリにとって、まるで耳元で叫ばれたかのように思えるくらいに大きな音だった。
 聞き間違えるはずもない、待ちわびた声だ。
「まあ……」と思わずもらした自分の声が震えている。

「本当に、本当に……貴方なのね?」

 縁側へと足を踏み出せば、庭先で誰かが息を呑んだのは気のせいであるはずがない。
 庭先へと降りて、草履のことさえ忘れて、霞む視界でその姿を探す。

 花の香りがいっそう強くなる。

 庭先に佇む白い姿。
 いつか幼いオシュトルが登った木の下に、その子はいた。

「おかえりなさい」

 震える声を抑えることは出来なかった。
「ずっと、ネコネと待っていたのよ」と一歩、また一歩と歩み寄る。
 そうして目の前まで近寄り、見上げた息子は驚いているようだった。
 まるで、自分の姿が見えるはずないと思っていたかのように。
 ふふ、と思わず笑ってしまう。
 そっと朧気なその頬へと触れた指先が、確かなぬくもりを得た。

――ははうえ、」

 震える声色に「ええ」と笑みを深くする。

「ただいま、もどりました」

 掠れたそれに、トリコリは胸が満たされていくのを実感する。
 ずっと、ずっと待ちわびた言葉だった。

「おかえりなさい」

 貴方の顔をよく見れなくて、残念だわ。
 胸のうちで願ってしまったそれに、「見えるようになられたいのですか?」と声が返る。
 ええ、と思わず返したところで、ふと、トリコリは首を傾げた。
 声に出してしまっていただろうか。

 くすり、と間近で聞こえた微笑にトリコリは瞬いた。
 笑われたことに驚いたからではない。
 優しく見下ろすあたたかな眼差しがトリコリを見つめていたから。
 目が眩みそうなひかりだった。
 思わず目を細める。
 見つめていたいのに、見つめるには強すぎるひかりだった。
 それもすぐ、大きな手のひらに遮られてしまったけれど。

「母上、ありがとうございます」

 けれど、それ以上はいけません。
 退かされない手のひらに、その言葉に、トリコリは悟った。
 同時に、完全に盲しても構わないとさえ思った。
 きっと、もう、二度とこの子を見つめることが出来なくなる。
 それなら、この瞳が最期に見つめるのは、この子でありたかった。

「駄目だ」

 やんわりとした、けれど強い声がトリコリの口を制する。
 どうして。
 戦慄く唇が、音もなく紡ぐ。

「母上」

 諭すように優しい声色。

「貴女には、ネコネが立派になるのを見届けていただかなければ」

 だから、駄目です。
 オシュトルと同じ、強情さが宿る声だ。

「自分の分も一緒に、ネコネを見てやってください」

 そっと、瞼を覆っていた熱が離れていく。
 強いひかりの中で笑う息子が見えて、けれどその眩しさに思わず目を閉じてしまった。

 そして、次に瞼を開いた先。
 ひらり、はらり、と舞い散る花びらの雨がトリコリの目に映る。
 その一枚一枚がトリコリの双眸に、ぼやけることもなく映った。

「、これは」

 鮮やかな花吹雪。
 春はまだ遠いのに、春の花を咲かせた庭先の木々。
 目の前を舞う花びらに手を伸ばしかけ、その指先から逃げるように花びらは舞い落ちていく。

 ――見えている。
 ぼやけるでもなく、トリコリの瞳は世界を鮮やかに映し出している。
 なぜ、などと思うより先に視線はその姿を探していた。
 目の前にいたはずの、息子の姿を。
 そこに誰の姿なくとも、トリコリの指先は確かに熱に触れたのだから。

――

 濃い花の匂いが鼻腔をくすぐる。
 まるで、何かが動くかのように。

「行ってしまうの?」

 ぽつり、とこぼれた声に返事はない。
 また、行ってしまうのね。
 寂しさを隠せなかった。
 鮮やかな世界があっても、そこに息子がいないのだ。
 けれど、縛り付けたいわけではない。

「いつでも、帰って来ていいのよ」

 私はここで、ずっとあなたたちの帰りを待っているわ。
 だから、時々でいいから、顔を出してくれると嬉しいわ。

 泣かないように笑ってみせる。
 母は、強くなくては。

「だから、――行ってらっしゃい」

 心からの言葉を貴方に。
 ざあっ、と強く吹いた風の中、「いってきます」という声を聞いた気がした。