シノハラ
2024-10-22 23:11:37
4314文字
Public レイチュリ♀
 

負け戦


「入れていい?」
 彼が手を添えているグラスの上に小さな錠剤を摘んだ指をかざしながら、アベンチュリンは問いかけた。先程まで穏やかと言っても良いような雑談に興じていたレイシオが途端に剣呑にした眼差しを強め、いつもとは違う方向性で着飾っているアベンチュリンを射抜く。
 出会ってすぐの頃は珍しくも何ともないものだったけれど、最近はとんと見かけなくなっていたような気がする。なんとなく懐かしさを感じてしまって、アベンチュリンは少々目を細めてしまった。
……マスター、これと同じ物をもう一杯」
 アルコールに浸していながらもるくるくとよく回る頭を働かせてから、ふいと視線を外してレイシオはバーの店主に呼びかけた。それと同時にこのグラスはアベンチュリンの好きにして良いとばかりに手放される。そういうことじゃないよ、ドクター。
 そう半ば助けを求める気持ちも込めながらぶつりと文句を言ってアベンチュリンはグラスの上から手を離したけれど、きっと彼はもうこのグラスに手をつけないだろう。この後つまみが欲しくなったら、すでにテーブルにある共用のものではなく、彼専用の皿で用意してもらうはずだ。君子危うきに近寄らず、である。
 色んな危うい状況に治療だのなんだのと言って首を突っ込むからこそ、その辺りの危機管理をする必要は彼だって感じているらしい。ミイラ取りがミイラになるなんて事態に陥るのを、もっとも警戒しているのは彼自身だ。
 それでも生来の気質のせいでレイシオは文句を言いながらも、アベンチュリンのわがままにたくさん付き合ってくれている。今回の対応がそれに当たるかは微妙なところだけれど、今も席を立とうとしない時点で大甘と言ってもいいのかもしれない。
 レイシオがアベンチュリンに甘くなければ、そもそも彼がスーツ姿でアベンチュリンの横にいるはずがなかったのだ。パートナー参加必須のパーティーに選んだ部下が諸々の事情で参加できなくなり、かと言って代役を見繕うのも難しい繁忙期にアベンチュリンが頭を悩ませていたところそういうことならと手を上げてくれたのが彼だった。
 博識学会の顔としてそれなりにパーティーの類に顔を出さされる機会の多いらしいレイシオだったが、よもやエスコートする側としての振る舞いを熟知しているなんて思いもしなかったのだ。普段はアベンチュリンの友人として横に並んで歩くはずの彼がいつも半歩先にいて、アベンチュリンの障害をすべて取り払ってくれた。もの珍しげにはちみつを見る不躾な視線をさりげなくその身で遮り、彼はアベンチュリンが進むべき道を示してくれた。
 日頃からアベンチュリンが選ぶに越したことはない道を不用意に躓かない程度に照らしてくれているのは承知しているが、結局は自身が選び取るべきだというのが彼の普段のスタンスだった。過保護でありながら決して過干渉ではないそれから遥かに遠く離れた振る舞いはアベンチュリンには酷く新鮮に映る。古から連綿と続き滅びそびれた男女の間柄を示す振る舞いがなぜ滅びなかったのか、遅ればせながら本日アベンチュリンも理解してしまった。
 ともすればふわふわしてしまいそうな気持ちの端をパーティー用のヒールで踏みつけて逃さないようにしながら、アベンチュリンは今日の仕事を何とかこなした。適当なところで会場を辞して、はふ、と息をすればレイシオもつられたように息を吐く。
 慣れないことをしたと徒労を彼が滲ませたとき、アベンチュリンは本当に嬉しかったのだ。TPOに合わせたに過ぎないにせよ、レイシオはアベンチュリンを尊重すべき女性として扱ってくれた。
 もちろん、彼が日頃からアベンチュリンを尊重していないなんて言うつもりはない。レイシオはいつもアベンチュリンを気のおけない友人として扱っており、アベンチュリンに自身の性別を強く意識させる振る舞いを選ばなかっただけである。
 自分が女性に生まれたことを喜んだのは、もしかしたら今日が初めてだったかもしれない。もし、自分が男に生まれついていたのなら。もう少し、ほんの少しだけでもマシだったのではないかと、ずっとずっとアベンチュリンは思っていた。どちらにせよ最悪だったには違いないだろうが、そう思わずにはいられぬような人生をアベンチュリンはひたすらに歩んできたのだ。
 そのもしも、を今この瞬間ようやく覆せるような、そんな期待がアベンチュリンの中で暴走してしまっている。
「やだな、ただのブドウ糖だよ。違法薬物なんか持ち込んであまつさえ使うなんてしたら、マスターが困るどころの話じゃないだろう」
 錠剤を摘んだ指先を緩めれば音も立てずに酒の中に落ち込んで、それはすぐに形を失ってしまった。自分が飲んでいた背の高いグラスに入ったままだったマドラーで彼のもののはずだったグラスの中身をかき混ぜる。
 それからグラスを持ち上げて口をつければ、レイシオが視線を苦くした。どうやらアベンチュリンの言葉など、一つも信じていないらしい。
 そういう彼をアベンチュリンは愛している。優れた医者が持つ博愛を端に発する、レイシオのそれとは異なる愛情をもう長いことアベンチュリンは身の内に燻ぶらせていた。好いたおとこにあんなことをされて、舞い上がらないおんながこの世にどれだけいるのだろうか。
 友人という肩書きで心を包んで、彼に会うたびに痛むのも構わず締め上げて隠してきたのに、今夜のアベンチュリンはその紐を見つけられないでいる。当然だ。その紐は先程レイシオが無責任にもするすると解いてどこかに捨ててきてしまったのだから。
 彼にこの身を抱いてほしいと思う。気持ちはすでにもらっていて、多分これ以上は望めない。けれど心はもっともっとと望んでしまって、見苦しく彼を誘おうとしてしまっている。
 もう少しアベンチュリンのわがままに応えて、翌朝には全部忘れていつもと同じようにアベンチュリンが隣にいることを許してほしい。それがちょっとばかり過ぎた望みであることも、アベンチュリンは知っていた。彼は器用で演技も上手だが、この演目に応えるにはあまりに潔癖すぎる。
 だから今夜が最後なのだ。こうやってアベンチュリンが彼と並んで、ああだこうだと何でもない話ができるのは。
「でも、君はこれを別の物だと思っても構わない。それを口実にして、何をしてもいいよ、レイシオ」
 持ち上げたままだったグラスを揺らすと、光を湛えた柔らかい色が翻る。色の割には思考をすっきりとさせる彼好みの味だったと、アベンチュリンは遅れて感想を抱いた。果たしてアルコールを摂取しながら頭をすっきりさせる必要があるかは甚だ疑問だったが。
……その目で僕を見るな」
 自分が口をつけた飲み物についてああだこうだとアベンチュリンが思考を巡らせられる余地を挟んだあとに、レイシオが不愉快極まりないとばかりに口にする。え、と小さく声を漏らしてしまったのは、自分が一体どんな目つきをしているか全く想像できなかったからだ。
「どの目?」
「そんなことも分からなくなっているのか、ギャンブラー」
 今の君なら簡単に負けてしまうんじゃないかと呆れたように謗られてしまったが、反射的に言い返そうとして一度口を閉じる。たしかに、自分がやろうとしていることは負け戦なのだ。その点については認めるしかない。
 ただ、彼は根本的な所で思い違いをしているように思う。もしくは全部理解していて、アベンチュリンの行動の悲痛さを認めたがらないのか。
「違うよ。僕は賭けてなんかない」
 そこにあるのはただの選択でしかない。どちらかを取ればどちらかを失う、オールオアナッシングとは対極の行為だ。テーブルの下で手を伸ばして彼の太腿に触れた指先が震えているのが恐怖からなのは、どちらにせよ変わらないのだけれど。
 小さく舌打ちが聞こえてじくりと心臓の辺りが痛む。きっとこうなることを可能性の一つに加えて彼は警戒していたはずだが、現実になってしまえばより腹立たしいということだろう。でも今はもう少しだけ、その嫌悪をしまい込んでアベンチュリンに付き合ってほしかった。
 もし、賭けているものがあるとしたら、アベンチュリンとレイシオの関係こそがそれに値するのだろう。アベンチュリンは彼との友情を火にくべながら、ようやくレイシオをこの場に留められている。
「僕を抱いてくれないか?」
 彼の鍛えられた太腿の上で指先を緩く丸めて服越しに緩く彼の身体を擽った。アベンチュリンが何を望むかくらいもう分かっていただろうに、それでもレイシオは表情を強張らせてしまう。ずっと友達でいられれば良かったと心臓から血の引くような感覚がしたが、もうアベンチュリンは引き返す事ができない。
 ごめん、と紡いでしまったのは彼の同情を買いたかったからだった。
 硬くて冷たい床に押し付けられたことも、暴力を意識したなぶり方をされたことも一生なかった事にはならない。慰み者にされ、望まぬままに蹂躙された記憶はアベンチュリンのどこかに残り続けていく。
 それでも、と愛を知ってしまったアベンチュリンは思うのだ。最後に自分の身体に触れたのがレイシオであれば、アベンチュリンにとってこれ以上のことはないのだと。
「僕を最後に抱いた相手が、僕の好きな人であってほしいんだ」
 だめかな、と堪らず続けてしまった声にレイシオが揺らいだのが分かった。彼の柔らかいところに触れたかもしれない瞬間に、アベンチュリンは目を見張る。ぎゅっと刻まれた眉間の皺は苦悩を示していて、彼が匙を投げる様子はまだない。
――君は、僕がいいのか」
 いつか君が誰かを愛せる日がくればいいと思っていた、と彼は掠れた声で彼がアベンチュリンに注ぐ愛情を吐露してくれる。それが他でもない自身の幸福を祈るものであると、アベンチュリンの手の甲に重ねられた手のひらの感触で理解した。この思いが本来祝福されるべきものであるのだと、他でもない彼が教えてくれている。
 こいねがったのが、この人で良かった。この星どころか全ての生命が観測できる宇宙の中に今、これ程にアベンチュリンの幸いを願ってくれる人はどこにもいない。
 あの時からずっと。ずっと、彼はアベンチュリンのために願ってくれていた。そういう人をアベンチュリンは愛することができた。これ以上の幸福がいったいどこにあるというのだろう。
……君がいい。君じゃなきゃ」
 どんな結末を自分が迎えようと構わない。過去も未来も今だけはどこかに投げ捨てて、アベンチュリンはレイシオを手繰り寄せた。