ふわ、とあくびをしたのが目覚めたきっかけだったように思う。一つ分の呼吸の間に肺に入り込んだ酸素だけで随分と頭がすっきりしたので、よく眠れていたらしい。見慣れない天井を見上げて――こんな言い方をしてしまうと、まるで自分に見慣れた天井があるようにも聞こえてしまうが――眠る前の自分の状況を反芻する。
レイシオ。そう、もう長らく大いに公私混同しながら仕事する男と共に行動していたはずだ。仕事の下準備に自分達はようやくかかり始めたところで、かけた時間はともかく距離としては大移動をしてきたアベンチュリンは時差ボケにやられていた。
初日ということでみっちりと用件を入れていたわけではなかったので、あらかた片付いた辺りでレイシオに帰って寝ろと仰せつかったのだ。彼はまだ私用だかがあるらしく、そこで自分達は一旦別れることと相成った。一旦、としたのは自分達がツインルームを一つしか取っていないからである。最初の頃はちゃんと二部屋取っていたはずなのだが、一度事務が間違えて一室にしたのに文句を言わずにいたら以降ずっとそうなっている。
もそもそと起き上がろうとして視界が天井から室内に移って、それからアベンチュリンは小さく声を上げた。窓際にあるソファに腰かけて、レイシオが端末を眺めている。あれこれ書き込んでいる最中のようだったので、もしかしたら学生のレポートをぼこぼこにしているところなのかもしれない。
「いつ帰ってきたんだい?」
「おはよう。一時間は前だな」
アベンチュリンの非礼を指摘するようにレイシオが視線を上げずに挨拶だけはしっかりしてくるので、アベンチュリンも慌てて彼に挨拶を返す。同室を取っていてアベンチュリンがよくよく眠っていたのだから彼が帰ってきていてもなんら不思議ではないのだが、まさか自分がぐっすりと眠り続けていたなんてそれこそ夢にも思わなかった。
アベンチュリンは人の気配がある環境では最低でも睡眠導入剤がない限り眠れないはずだったのだ。いつからそうだったのか、正直なところアベンチュリンには分からない。きっと気絶するようにしか眠れない生活の間のどこかでだったのだろうとは思うのだけれど。
「どうかしたか?」
じっとアベンチュリンがレイシオを見ているのに、彼も遅れて気がついたらしい。視線を上げてアベンチュリンを見たマルキーズの輪郭を見た瞬間、多分今しかないのだろうと思った。今言えなければきっと、この先に機会はない。幸運とか、機運とかいうものは得てしてそういうものなのだ。
「カカワーシャだよ。これが僕の名前」
あんまりの脈絡のなさだったからか、レイシオが少し目を見張ったのが分かった。部屋に戻ったらぐっすり眠っていた奴が突然起きたと思ったら長年ずっと伏せていた名前を大公開してきたのだ。脈絡がなさ過ぎて彼が驚くのも当然だろう。
それでも彼は発音を確かめるようにカカワーシャ、と小さくアベンチュリンの名を呼んだ。誰かから呼ばれるのも久々な音にくすぐったさを感じながら、アベンチュリンは頷くだけで肯定する。
「君達の一番重要な祭日はカカワと言ったか」
「さすが教授」
君達、と彼が形容してくれた事実がアベンチュリンには嬉しかった。彼はアベンチュリンにしか会ったことはなかったし、望んだとしてもアベンチュリン以外に会えるわけではない。もうきっと一人だけしかいない人種がそれでもたしかに存在したことを、当然のようにレイシオは示してくれた。
「多分それ絡みだよ。母さんも父さんも随分思い切ったよね、つける時に名前負けするかもって思わなかったのかな」
カカワーシャという名がどれくらい普遍的な名前なのか、短い期間しか同胞に関われなかったアベンチュリンには分からない。けれど、自身に与えられたそれが随分大仰で、はっきりとした意味がある名であることには間違いなかった。
「きっと君の生涯に相応しい名だ」
「うん、そうだといい」
話題の方向を変えたつもりだったのに、レイシオはちっともその意図を組んでくれる気がなかったらしい。そんなことをされてしまえば、アベンチュリンはもう少しもおどけられなくなってしまう。
だってアベンチュリンはずっとそうなりたかったし、同時にそうあり続けなければならなかったのだ。いつか彼らとオーロラの下で再会する瞬間、胸を張ってその名を名乗れるように。
「君のご両親は賢明だった」
「……ありがとう」
いつかと言っている事が真逆だが、あの時謝罪はあったのだしとアベンチュリンは見逃してやることにする。と、いうより、そんな些細な事に構える余裕が今のアベンチュリンはほとんどなくなってしまっていた。
レイシオに手放しに両親を褒められて、アベンチュリンはようやく誰かに家族の話ができるのだと気がついたのだ。たった一人の生き残りなだけのアベンチュリンではなく、両親と姉を持つカカワーシャとしてでなければそれはきっとできないことだった。
その全てを詳らかにはできそうにもない。けれど、そのひとかけらでも彼に話せる日がくると良いと思う。たとえば今、この瞬間のように。
「初めまして」
ソファに端末を置いてベッドまでやってきたレイシオがアベンチュリンが座り込んだままのマットレスに腰かけて、丁寧な声音でアベンチュリンに告げる。突然の挨拶に返事を見つけられずにいると、彼が少し口元を緩めた。
「アベンチュリンとかいう男との出会いは最悪だったが、君との出会いはなかなか悪くない。これからよろしく、カカワーシャ」
出会い頭に仕掛けられた出来事を思い出したのか、アベンチュリンを貶しながらレイシオが手を差し出してくる。たしかに彼の好みでは全然なかった、と笑いながら、カカワーシャは差し出された彼の手を取った。
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