空高く浮かぶ満月の光が淡く滲む夜。煉瓦の隙間から覗く草の影も、今宵はひと際濃く、物言わぬ夜の闇に溶けていく。褪せたコンクリートの向こうで、誰かの捨てたガラクタの山が月光を反射し、まるで壊れた悪い夢でも見せつけるかのようだった。風に揺れる寂れた看板の軋みが、ぎぃぎぃと不規則に響く。
ふらり、と蓬髪の男が廃墟街に降り立つ。死神と呼ばれる存在である竹谷八左ヱ門は、今夜も任務を遂行すべくゆるりとその大鎌を持ち直した。
八左ヱ門は死神と言っても人が思うような、鎌を振り回して命を刈り取る存在ではない。ただ、寿命を全うした生き物のお迎えに行くだけだ。「死神」なんて大仰な呼び名はどこかの誰かが勝手につけたもので、八左ヱ門からしたら、迷惑この上なかった。相手だって人間だけではなく、虫だって鳥だって魚だって、命あるものなら何でも相手にする。むしろ人間はいろいろと七面倒くさいから避けたいぐらいだ。
よく『死神って嬉々として命を狩るんでしょ!』言われるが、命を狩ることに喜びはない。ただの仕事だと認識していた。そも、命は限りがあるもので、狩るもなにもその定められた終わりに立ち会うだけである。その仕事を全うすることに、八左ヱ門なりの誇りはあるが、喜びはそこに存在するわけではなかった。喜びと言えばもっと別のところ――ペット不可の我が家で植物を育ててみたり、猫カフェにおひとり様で赴いたり、知り合いの犬の世話を買って出てみたり。八左ヱ門は死と同様にありとあらゆる生を慈しむのが好きだった。この夏は特に小学生ぶりに蝉の抜け殻集めにハマってしまって、綺麗なのをレジンなどで処理しいくつか部屋に飾っている。羽化前の姿そのままに固まった抜け殻たちは、八左ヱ門には綺麗に見えるのだが、同期の三郎には気味悪がられていた。『人を呼ぶならこういうものは見えないところに置け!』なんて言われたっけ。
母数の分虫や魚のお迎えが圧倒的に多いのだが、今日嗅ぎ取った匂いは、人間……? いや、違う。もっと小さい。小動物だ、犬か猫か?褪せた中に漂うある匂いが鼻をくすぐる。なんだかいつもと違う感じがする。甘くて、切なくて、どこか懐かしい。路地の奥へと足を進める。胸の奥がじんわりと熱くなった。いつもの仕事中はこんなことなんてないのに。
瓦礫の影からひょこっと、匂いの元――小さな影が現れた。八左ヱ門は思わず息を呑んだ。十歳くらいの男の子――いや、違う。人ではない。
高く一つに結えた黒髪は、淡い月光を浴びてきらりと輝いている。ところどころ乱れほつれているのに、不思議と綺麗に見えた。形の良い瞳は、夜より鮮やかに黒い。彩る長い睫毛が、その瞳に深みを与えていた。短い前髪から覗く太い眉は凛々しく、意志の強さを感じさせる。だけど、とその手足に目を落とす。紫紺色の装束から覗くのは、髪と同じ黒い毛に覆われた獣の足。肉球までついている。腰骨の下からは黒く長い尻尾が、力なく揺れている。丸く小さい頭には一番わかりやすく猫の耳が二対、ぴょこんと生えていた。
「猫又……?」
「……そういうお前は死神か」
高くて、弱々しい、けれど凛とした声だった。全体的に儚い様子なのに、ふと覗く気高さが八左ヱ門の目には美しく映った。不思議な気持ちで彼を見つめ続けると、胡乱げな視線を返される。
「そろそろ潮時かと思ってたから。好きにすれば?」
諦めた様な目線に、パタンと力なく揺れる尻尾にぎゅうっと胸が絞られる。あれ、なんだろう、これ。
「うん、確かに、俺は死神で……寿命が近いお前を迎えに来たんだけど……」
「別に、もう十分生きたし。抵抗とかするつもりないから」
「お前さ、したいこととかないの?」
「あ?急になんだ」
考える間もなく、口が勝手に動いていた。訝しさが深まる目線も口調も気にならないくらい、なんだかすごく嫌だったのだ。この小さな命が自分の生に対して達観していることが。ぎゅうっと絞られた胸に隙間風が吹く。
「まだお前、十歳くらいだろ?そんな奴、サクッと死んでもらっても後味が悪いっていうか」
黒猫の毛がぶわっと逆立った。黒い綿菓子みたいだ。眉間にはしわが寄り、小さな牙をむき出しにして、大きな瞳の真ん中がくわっと開き、八左ヱ門を睨みつけた。
「にゃ!失礼だにゃ……俺は500歳だ」
「え?マジ?その見た目で?タメじゃん!」
同い年。なんだかすごく親近感が生まれて、同じ年で寿命が近いことにまた胸にすうっと冷風が吹いて、でも、あざといくらい語尾が猫だったことに今度はキュンと絞られた。
「分かるだろうけど、もう終わりが近いから妖力が残ってないんだ。元の力を維持できてにゃいだけだ」
「にゃい……」
「からかうな!」
「ごめんって、なあ、猫又くん」
「……兵助だ。久々知、兵助」
「じゃあ、兵助。あ、俺は八左ヱ門!竹谷、八左ヱ門」
「……はちざえもん……」
「そう。八左ヱ門。……兵助。もう一回聞くけど、何かしたいことないのか?十歳だからじゃなくて、うん、同い年だから。仕事で後味悪い思いするの嫌なんだよ」
大きな耳がぴくりと動いた。きらりと光る双眸が八左ヱ門を映したと思えば、すぐに下に逸れた。黒い毛に覆われた手がぎゅうと胸元を掻く。
「言ってみろって!なんでもいいから、いや俺が叶えられる範疇だけど、なんでも!」
冷えた風が古びた金属を擦る。ぎいと嫌な音が響く中、八左ヱ門の耳に入るのは己の胸に走った場違いな高鳴りだけだった。
兵助の潤んだ瞳に月光が映り込み、長い間彼が躊躇ったことを識る。やがて、小さな唇がゆるゆると開かれた。
「……さいごに、お豆腐、食べたい」
頭のてっぺんから生えるふわふわした髪の尻尾と、お尻から生える所在なさげな長い尻尾が、二つ同時にゆらっと揺れた。
古びたアパートに連れ立って帰る。置かれた蝉の抜け殻については兵助はそれらを一瞥しただけで、何も言わなかった。少し拍子抜けした。てっきり驚かれるか、気持ち悪がられるかと思っていたのに。むしろ、彼のそういう反応を見たくて、ちょっとワクワクしながらドアを開けたのに。
「お、おいしい……」
「そんなに?」
「あ、ありがとうはちざえもん、ほんとに美味しい」
時間を問わず営業しているありがたいスーパーの、何の変哲もない豆腐に、兵助はボロボロと涙をこぼし始めた。小さな手で頬を拭おうとするが、不自由な手で涙は拭いきれずに水はどんどんと溜まる。溢れそうな瞳が、蛍光灯の無機質な光に照らされてきらきらと輝く。また、胸が詰まった。
「……泣くほど?」
「うん、ほんとに、久しぶりに食べたから……ありがとう、これで思い残すことは」
「ま、待てって」
そんな、小銭一枚で買える豆腐にそんなに泣かれて、思い残すことないなんてそんなの嘘だ。もっと欲張って、もっと生きたいって言って欲しかった。でも、兵助は諦めたように細い首を振る。
「……俺は待つも待たないも、命を取るのはお前のほうじゃ」
「あーもーそういうのいいから!豆腐さ、好きなんだろ?」
「うん」
「こんなさ、深夜もやってるスーパーの豆腐じゃなくてさ、なんか、取り寄せたすげー豆腐食べたいとかはないの?いや豆腐じゃなくてもいい。なんかないの?」
「……ないよ、そんなのはもう、」
「なんだよその間は!ちゃんと言えよ、俺が後味悪いんだよ」
嘘をついた。こんなに焦る原動力は後味が悪いなんてマイナスな言葉じゃなくって、もっとふわっと柔らかい、プラスの方向の感情だった。……気持ちの名前は分からないけれど。名称について、脳内が勝手にぐるぐると検索を始める。
「……自分で作った、豆腐食べたい」
検索結果が出る前に、兵助が沈黙を破った。か細いけれど、確かな意志の通った声で。
「豆腐じゃなくてもいいんだぞ」
「いや豆腐がいいんだ」
「そこは即答なんだな……」
自分の手で、か。豆腐の作り方について記憶を起こす。掻き混ぜたり、何かを絞ったり、力作業が必要ではなかったか?涙さえ拭えない、ふさふさと毛に覆われた手を見つめる。
「……いいけど、その手で作れんの?」
「これは力が無くなってるからだって言っただろ、昔は普通に……」
言葉の尻が消えるのと同時に、しょぼんと尻尾まで萎れていった。慌てて手を伸ばしかけ、ああ違う尻尾を立たせても意味はない。右手はただ宙を掻いて、口を開く。頓珍漢な仕草に、兵助は何の反応も示さなくて、寂しくなった。
「いや、ごめんって。分かった。いいよ俺が作る。兵助が指導してよ」
「……なんで俺のためにそんなこと」
「……最後まで責任持つのが俺のモットーだから」
この生き物――兵助と、胸の奥で膨らむ名前のわからない気持ち。一度面倒を見たら最後まで責任を持つべき、と口にして、耳に入った言葉が結びつく。そうだ、一度面倒をみたら最後までだ。いつも自然に、そうあるべきとしてきたことじゃないか。
「……よくわかんないけど、わかった、じゃあ豆腐作ってくれ」
「!わかった!世界一美味いの作る!あのさ大豆とかにがりとかはやっぱり取り寄せになると思うんだけど、だから、時間かかる!」
時間はかかればかかるほどいいな、と思った。その間に、この気持ちに名前は付けられるのだろうか。
「……手間かけさせちゃって悪いな」
「そうじゃなくて!その間俺の家にいてよってことがいいたいの!」
「……うん、ありがとう。世話になる」
こうして、ふわふわの甘い綿菓子のような毛並みを持つ、小さな命との奇妙な同居生活が始まった。
秋の朝の冷たい空気が、アパートの隙間から忍び込んでくる。差し込む朝日に目をゆっくりと開く。夜通し抱きしめていた冷たい毛玉が、いつの間にか温もりを帯びていて、嬉しくなる。と、同時にぽやんと寝ぼけた頭で、なんだか変だなと思う。
肌に触れる感触が、昨夜とは違う。ふさふさした毛並みではなく、滑らかでふにっとしてて吸い付くような、獣ではなく人肌の柔らかさだ。霞む目を擦って、もう一度見直して、驚きで眠気が覚める。昨日は忍び装束じゃ休まらないだろうと半ば無理やり着せた己のTシャツから覗く手足が、ふくふくとした小さな人間のものに変わっているではないか。昨日まで肉球だった部分が、今や可愛らしい指先になっている。途中から黒い毛皮に覆われていた腕も、白いTシャツと併せて見ても尚、白く滑らかな肌をしていた。
(ということは……)
八左ヱ門は息を潜めて、ゆっくりと身を起こした。左手で半身を支え、右手でそっと布団の端を摘んだ。ゆっく布地を捲る。んん、と兵助が身じろいだが、手は止めなかった。
「っわ、」
現れたのは、やはり細く白い人間の脚――そう、猫の下半身をしていたからいいだろうとTシャツの上だけを着せたのだった。膝を胸のあたりで折りたたみ、脚で尻尾を抱き、丸めた背中で手足を包み込んで眠る姿は本物の猫のさながらだ。でも、その手足は紛れもなくヒトのもので、そのヒトの体を覆っているのは大きめのTシャツ一枚。これって、世間一般に言う彼シャツ――目が釘付けられた。
(て、なにしてんだ俺!シャツ一枚なのをわかっててこんな、)
我に返って慌てて布団を戻そうとしたその瞬間。
「んあ……あ、八左ヱ門?」
「わああ!ごめんごめんごめん!あ、その、パンツ!パンツ持ってくるから!」
ぶるっと身震いした後、ゆっくりとその薄い瞼が開かれて、慌てふためいた。
こんな子供の脚に心臓がバクバクするなんて、変態じゃないか。流れるように連続する謝罪の言葉とは裏腹に、その姿から視線を離せなかった。
「っ戻ってる……!」
「ごめんほんとごめん腕戻ってたから脚もかなって興味本位で、って、え?」
悲鳴と怒号が響くのを耳に予想して、でも聞こえたのは弾んだ声だった。兵助の目は喜びと驚きが混じってきらきらと輝いている。
「この手足になったの何年ぶりだろう……」
「あ、そっち……とりあえず、パンツ持ってくる。って、履けるかな」
自分のトランクスを身につける彼を想像する。その細い腰じゃずり落ちちゃうだろうな。思わず笑ってしまう。すると、ぴくっと大きな猫の耳が動いた。
「なに笑ってんだ。本来の姿はこれじゃないって昨日言ったろ!」
「そういえばその本来の姿ん時は何つけてたの、下着」
「褌」
「お、ほー……」
「なんだよ、俺の種族では普通だったんだよ」
口調こそ怒っていたが、兵助の手はグーとパーを交互に繰り返し、口元は緩んでいた。大人一人と子供一人でちょうど良い大きさのセミダブルのベッドに行儀よく正座して、尻尾も機嫌が良さそうにピンと立っている。丸く並ぶ膝小僧が眩しい。
「まあ、とりあえずよかったじゃん!……なあ、元に戻るのに条件ってあるの?」
ギィっとスプリングが軋んで、兵助の表情から光が消えた。曇ったんじゃなくて、消えた。さっきまでのプラスの感情がマイナスになったんじゃなくてゼロになったみたいだった。
「……とうふ食べたからかな」
「そっか、豆腐か!え、じゃあ手作りの豆腐食べたら元の姿に戻れるんじゃ、」
間を置いた後、ふいっと目を逸らして答えるその仕草に、胸にちくっとした痛みが走る。なんだろうと思ったけど、小さい棘だったし、無視した。
「流石にそこまではない」
俺の終わりが近いのはお前が一番わかるんじゃないか、と続く兵助の声は、やっぱりプラスもマイナスもなくて、朝の柔らかな光の中で、兵助の姿が急に遠くなった気がした。元から遠くに行く存在だったはずなのに。唾を飲んで、ずっきんと胃の底が痛くなった。
「すごぉーい……」
目の前に広がる料理の数々に、八左ヱ門はほうっと嘆息した。麻婆豆腐に八杯豆腐、あんかけ豆腐に豆腐飯。うん。全部豆腐料理だけど。
「お世話になってるお礼」
兵助はちょっと胸を逸らして腰に手を当てて、ふふん、と得意げに鼻を鳴らした。と、今度は久々に作るから味はちょっとどうかな、食べてみてよ、なんて小声で続けて、猫のように――猫なのだが、丸まって、自信なさげに手をぐーぱーと閉じたり開いたりしている。
「いただきまーす、……」
「ど、どう……?」
「ん、うん!美味い!誰かの手料理ってすげー久しぶり」
顔一面にぱあっと花が咲いたようだった。思わずその花に手を伸ばして、まだ幼い形の顎に触れる。ゴロゴロっと低くて甘い音が漏れた。
「おお、喉鳴らし……」
「にゃにすんだ!」
「いてっ」
右手をばしっと払われて、全然痛くないけど条件反射的に言葉を発する。と、
「あ、ごめ……」
小さい手のひらが八左ヱ門の右手を労わるように包んで、徐に顔が近づけられて、赤い舌がちろっと見える。って、
「え?へーすけ、」
「っわあ!ごめんほんとごめん!条件反射!」
同じように、いやさっきより強く払いのけて、そのふさふさの耳まで赤くなる勢いで兵助の顔が朱に染まる。じわりと己の首筋に汗が滲んで、同じ顔をしているのだと自覚した。
この日、ネットで注文した大豆とにがりは届かなかった。
「うーん……」
「どうしたの」
「いや、仕事の予算が……ちょっと……」
八左ヱ門は眉間にしわを寄せ、書類に目を凝らす。数字の羅列が踊っているようで、頭がくらくらする。指で額を押さえ、ため息をつく。
兵助は首を傾げ、ダイニングテーブル越しに書類を覗き込んだ。
「ここの経費を削って、こっちに回せばいいんじゃない?」と、白い指先で紙面を指す。かつての肉球と同じ色の、桜色の爪がいやに目についた。
「それに、この項目は二重計上してるみたいだよ。これを削除したらだいぶ余裕があっきるんじゃない?」
「お、おーー!全然気づかなかった!」
その鋭い指摘に、八左ヱ門は目を丸くした。ふふん、と兵助はまたも得意気に微笑む。
「自分じゃなかなか気づかないものだよな」
「でもすげーよ兵助、いやーほんと助かった!」
「とはいえこれに気づかないとはどうかと思うけど」
「あげといて落とすなよ。兵助なんか経験あったりするの?」
「……ちょっと、昔な」
あ、また、プラスがゼロになった。
この日もまた、ネットで注文した大豆とにがりは届かなかった。なんらかのトラブルがあったのかもしれない。
豆乳とにがりが届くまでの限られた日々の暮らしの中で、兵助の存在は八左ヱ門の中に色濃く刻まれていった。
朝、兵助が寝ぼけ眼でペタペタと両手を動かす姿――ミルクトレッドを見ると、胸の奥がじわりと温かくなる。昼下がり、窓辺で日向ぼっこする姿に目が離せなくなる。夕暮れ時、押し付けるように贈ったエプロン姿を見れば、喉が乾いたように息が詰まる。
また次の日。背中をしなやかに反らし、指先までピンと伸ばす様は、まるで優雅な猫のような――猫なのだが。その兵助の仕草に、八左ヱ門の目が釘付けになる。
昼下がり、兵助がソファでうたた寝している。クッションの上の丸まった姿に、思わず手を伸ばして、ふわふわの髪に触れて、幸せな気分になる。
夕暮れ時、台所で夕飯の支度をする彼の尻尾がゆらゆらと揺れる様子に、目が離せなくなる。ふと振り返った兵助と目が合い、八左ヱ門は慌てて視線を逸らす。頬が熱くなるのを感じながら。
気がつけば、八左ヱ門の体は兵助という存在なしでは、正常に機能しなくなっていた。
「……と、いうわけなんだ」
秋の夜更け、薄暗い路地裏で八左ヱ門は鉢屋三郎――仕事仲間の死神に向かって吐露した。月明かりに照らされた石畳が、八左ヱ門の落ち着かない心を映すかのように揺らめいている。
「はあ」
三郎の気のない返事に、肩落ちする。器用かつ成績優秀な三郎なら、何か良い助言をくれるかと期待していたのだ。
「……もー!察してくれよ!だから、その、仕事の遂行相手ともっと一緒にいたい場合どうしたらいいか、分かるか?」
「最初からそれを言えよ」
「分かってたくせに」
「すまん。ニブチンなお前がそんなこと言うのが面白くてつい」
三郎は悪びれもせずに答えた。ぐっと喉が詰まる。一緒にいたいと言葉にしたことで、より内の気持ちが確かになった気がする。
「その、仕事相手に、ってこと、驚かないのか」
「いやこの仕事やってたら凄くよくあることだから……別に……」
「え?!そうなの?!」
三郎は大きく目を見開いたかと思うと、すぐさま深くため息をついた。その肩が大げさに上下する。かなり重い話を打ち明けたつもりの自分が、なんだか気恥ずかしくなってきた。
「本当に、そこら辺の小石ぐらいよくある話だ。お前、ほんとに学園卒業したのか」
「した。お前も知ってるはずだ」
「知ってるのにその様子だから言ったんだ。……よくある話だし、その後一緒にいるということは不可能でもないし珍しくとなんともない」
一語一語、もったいつけて話す三郎に、焦れる。そんな様子を見てか、三郎はおかしそうな顔をした。
「簡単だよ。生を分ければいい。己の生、つまり精を分け与えて同一のものにすればいいんだ。つまり、まあ、セックスだな」
「ああ、セック……って、ええ?!」
声が裏返った。顔が熱く火照り、耳まで真っ赤に染まるのを感じた。月明かりに照らされた石畳が、突如揺れているように見えた。
「お前ほんと何歳だよ」
「500歳だよ!同い年だよ!え、でもそんな、無理やりそんなこと、しちゃダメだろ」
三郎の丸い目が見開かれる。なんだか責められてる気持ちになって、いたたまれない。
「なんだ。まだ恋仲じゃなかったのか」
「あ、まあ、うん、そう……」
はあーっと三郎の大きな溜め息が、夜の静寂を破る。彼は徐にポケットから取り出し、こちらへ放り投げた。緩やかな弧を描いたそれを己の手のひらでキャッチする。
「なんだこれ」
「そこまで私の口から言わせるな。早いところ、告白しろよ。……もうすぐ月が満ちる。満月の夜は同一化のベストタイミングだぞ」
手中のものをまじまじと見やる。液体が詰められた小さな瓶だった。それは月明かりを受けて、ぼんやりと不思議な光を放っていた。顔を上げたら、三郎の姿は既にそこにはなかった。
「……今になってその猫又くんが消えてないのは、八左ヱ門の想いを受け取ってるからだろうけどね。猫又をはじめとした妖怪と呼ばれる生き物は、人に信仰されたり想われたりすることで力を得るものだから」
「雷蔵!なんだ、来てたなら伝えてあげればよかったのに」
「うーん、伝えるべきか伝えないべきか迷ったんだけど……なんとなく、伝えない方が八左ヱ門が行動できる気がしたんだ」
また次の満月に、豆乳とにがりがようやく届いた。俺の目の前で、兵助の目が一瞬輝いて、それから曇ったように見えた。その表情の意味を、読み取れない。
「……八左ヱ門、おれ、作ろうと思ったんだけど、なんか、手、やっぱり元の状態に戻っちゃった感じがして、動かしにくくて……だから、」
だから、八左ヱ門が、豆腐、作ってくれないか?
兵助の言葉に、一瞬躊躇して、すぐに頷いた。
「ああ、俺が作るよ。任せとけ」
胸の奥で何かがきゅっと締め付けられる感覚があった。兵助の手が元に戻ったということは、俺たちのこの不思議な関係も、終わりが近いのだろうか。
豆乳を鍋に注ぎ、火にかける。兵助の指示通りに、慎重に作業を進める。泡立ち始めた豆乳に、にがりを加えていく。
「こんな感じでいいのかな」
一つ一つの作業はそれほど難しくない。手持ち無沙汰になって兵助に確認を求めると、彼はただ小さく頷いただけだった。
液体が少しずつ固体になっていく。心中でも、何かが形作られていくような気がした。いや、もうとっくに形にはなっているのだけれど、言葉にできない。だって、この想いが独りよがりだったら迷惑をかけるだけだから。
重しを乗せて、余分な水分をとる。豆腐が完成し、二人分の器に盛り付ける。なんだかものすごく手間のかかる作業を想像していたが、作ってみたらあっけないものだった。
「はい、……できたよ」
返事はない。顔を伏せて、兵助は無言のままだった。
「……どした?」
ゆっくりと顔が上げられる。蛍光灯の光を反射して彼の瞳は、潤んで輝いていた。その中に映る自分の姿に、八左ヱ門は息を呑んだ。なんて、顔をしてるんだろう。
「俺、これ……食べられない……」
「ど、して」
兵助の声は、か細く震えていた。返す己の声も、同じだけ震えていた。半分はその理由への畏れ、半分は、……期待から。
八左ヱ門の問いに、再び大きな瞳がきらりと光った。
「──これ、食べちゃったら一緒にいられないから、」
八左ヱ門の中で何かが弾けた。
理性が飛んだ。衝動が全身を支配する。
八左ヱ門は、兵助の小さな顔を両手で包み込むように掴んだ。両手に簡単に収まる頬は、柔らかい。驚いた兵助の目が大きく見開かれる。瞳孔が縦に割れて、吸い込まれるようだ。その瞳に映る自分の姿を確かめるように、八左ヱ門はゆっくりと顔を近づけた。
唇と唇が触れる。ちょっと乾燥してるけど、柔らかく、温かった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.