吾妻
2024-10-22 18:59:40
3214文字
Public アークナイツ
 

「待て」

弊社テキ博♀。付き合っており、深い関係にある示唆があります。本文はちゅ〜以上はナシ。

――しばらく〝そういうこと〟はお預けだから。

 部下兼恋人である青年にそう告げたのは、紛れもなく一週間前のドクター自身だった。
 公私をきちんと分けられる男に対して敢えて〝待て〟をしたのには、一応理由がある。
 ひとつは、この一週間は外回りの予定が立て込んでいて、睡眠不足や疲労を引きずったままではこなしきれないと判断したから。
 もうひとつは、こうして予防線を引いておけば、理性を失くした自分がいかに強引に彼に迫ったとしても、デキる部下としての矜持から「ダメだよ」と寝かしつけてくれると思ったからだ。
 結論から言えば、彼――テキーラは想定通りに振る舞ってくれた。疲労が蓄積すると人肌が恋しくなるという恋人の厄介な性質を理解しつつ、うまくいなして寝かしつけてくれたのだ。
 結果として、彼の忍耐強さと部下としてのプライドに完全に頼り切る形になってしまった。
 そして今、つつがなく一週間の業務を終えて自室に引き上げ、入浴からその後のケアまで丁寧に面倒を見てもらい、共にベッドに入って数十分が経過したところである。
 さも当然とばかりに差し出された男の腕に頭を預け、抱き寄せられるままに胸元に顔を埋めて――ただ、それだけ。
 入浴のおかげで温まった体は、ベッドに横たわったことでゆったりと弛緩して、忍び寄ってきた眠気にあっさりと降伏しそうになる。このまま寝入ってしまったら、きっと朝まで目覚めないだろう。
 すっかりと慣れた他人の体温。優しく背中を撫でる掌。
 この一週間、ひたすら甲斐甲斐しく寝かしつけてくれた男の息遣い。
 あまりにも心地よくて、身を委ねてしまいたくなる。
 しかし、彼に〝待て〟をすると同時に自分自身の欲求にもブレーキをかけていたドクターは、「せっかく仕事が片付いたのにこのまま寝てしまうのも勿体無いのでは?」という思考に囚われていた。
 疲れているのも事実ではあるが、「もう少しイチャイチャしてもいいんじゃないかな」と思い始めてしまったのである。
 彼とはそれなりに長い付き合いなので、艶っぽい雰囲気になればすぐにわかる。濃密なスキンシップに至る直前の、蜂蜜のように甘くとろりとした予感を見逃すはずがない。
 そして今は残念なことに、その予感が全くしないのだ。
 最後にキスをしたのはいつだったっけ? おはようやおやすみのタイミングで額にくれるキスを除けば、いつだったかさえ思い出せない。
 一週間? それとももっと前だろうか。そんなことを考えていると徐々に目が冴えてくる。
「眠れないの?」
 悶々と考え込んでいたら、目ざとく気配を察知したテキーラが声を掛けてきた。
「お仕事が片付いてハイになってる? それとも」
 背に触れていた男の掌が、頭に上ってきて優しく髪を梳く。そっと額を合わせ、顔を覗き込んでから、彼は――
「俺に何かしてほしい?」
 と、声をひそめて囁いてきた。
 何かしてほしいというか、何かしたいというか。欲求ならば確かにある。
 だが、余裕に満ちた態度を見せられると、自分ばかりが求めているようで気まずくもなってくる。
……君は、何かしたいとは思わないの?」
 悔しくなって訊いてしまった。
 身のうちに燻って、消えてくれない厄介な熱。疲労による欲求不満もあるだろうが、それだけでもない。
 誰でもいいわけじゃない。君とだから意味があるのだが。
 自分ばかりが焦れていて、君は寄り添って眠るだけで十分だとでも?
 間近にある薄水色の瞳が柔らかく細められる。むくれる恋人に対してテキーラは、真夏の陽光のように眩しい笑顔をドクターに向け、一言。
「したいよ?」
 そう、答えた。
 清々しいほど直球の返答に、一瞬脳が理解を拒んだ。
 そうなんだ? とてもそんなふうには見えないのだが。
「俺はいつだってドクターに触れたいし、キスも、それ以上も、たくさんしたいって思ってるよ? でも俺は躾の行き届いた飼い犬いいこだから、〝待て〟をされたらちゃんと我慢しなきゃでしょ?」
 これはつまり、「待て」をしたぶん「よし」を伝えなければいけないということだろうか? 普段はこんな駆け引きを仕掛けてくるタイプではないので、彼は彼なりにこの一週間を我慢して過ごしたのかもしれない。
 髪を梳いていた手が、頬に触れる。頬を滑った指先が、今度は唇に。
「キスしてもいい?」
 親指の腹で唇を何度もなぞってから、テキーラはお伺いを立ててきた。
……いいよ」
 ふたりの間に漂う空気が湿り気を帯びて、甘く蕩けていくのがわかる。親指がなぞった後をたどるように、男の唇がそっと押し当てられた。
 啄む動きで繰り返される、慈しみに満ちたくちづけ。リップ音が聞こえるごとに、呼応するように鼓動が高鳴っていく。
 やがて、横臥していた体が仰向けに返されて、体を起こした男が覆い被さってくる。互いの間を満たす空気と同じ、しっとりと濡れた眼差しで女を見下ろして、もう一度唇同士を擦り寄せてから。
「もっと深いのがしたいな」
 しようと思えばいくらでもできるはずだ。いつもの彼ならそうしている。拒まれないことだって理解しているはずなのに、今夜はあくまで逐一許しを乞うつもりらしい。
 気恥ずかしさがないでもないが、はじめに〝待て〟をしたのはこちらなのだから、求めには応じてあげるのが筋というものだ。
 覆い被さる男の首に手を伸ばし、うなじを隠すふわふわとした襟足に指を差し込む。
「いいよ」
 うなじから肩のラインまでを撫でて「よし」をすれば、テキーラは眩しげに目を細めて、大きな尻尾をふさりと揺らす。
「ありがと。じゃあ、くち、開けて?」
 促されるままに口を開いて舌先を差し出せば、大きな舌が重ねられて絡め取られた。
 両頬が大きな掌に包まれる。熱を持った舌先に何度も口内を辿られると、頭の芯がぼうっと緩んで全身から力が抜けていくのがわかる。
 激しさはないが、そのぶん濡れた音を意識してしまって、呼吸が浅くなるのを止められない。丹念に口の中を舐めていた舌が離れていく頃には、視界はすっかり涙で滲んでいた。
 わかるのは、テキーラがじっとこちらを見下ろしているということだけ。
我慢まてのできるいいなら、疲れてるご主人をちゃんと寝かせてあげるべきだと思うけど……
 再び頬に触れた掌が、今度は首筋に下りて、鎖骨をなぞる。
「君を抱いてもいい?」
 改めて言葉にされると腹のあたりが甘く疼いた。
 寒気にも似た興奮が、じわじわと全身に伝播していく。
……ダメって言ったら、我慢するの?」
「するよ? 俺はドクターが大事だから、君の望みはなんでも叶えてあげたいし。でも――
 真上から逞しい両腕に抱きすくめられた。頬同士が擦り合わされて、先程散々口内を荒らした舌先が耳朶に触れる。
「本当にダメなの?」
 鼓膜に直接注ぎ込まれたのは、低く掠れた囁きだった。日常生活では発することのないこのトーンを、ドクターはよく知っていた。
 他でもない、ベッドここでよく聞かされている声だ。そしてテキーラは、ドクターが自分の声に弱いこともきちんと理解している。理解した上で武器にするしたたかさを有している。つまり。
 思ったより熱烈に、誘われている。
 せっかくの二人きりで過ごせる夜に、もっと触れ合いたいと望んでいるのが自分だけじゃなくて良かった。抱きすくめてくる大きな体を抱き返すと、視界の端で尻尾がはたはたと揺れるのが見えた。
「いいよ。私もしたい」
 お返しとばかりに彼の耳元で囁いてやれば、テキーラが小さく息を詰める。間を置かず、熱のこもった吐息が首筋に落ちてきた。
「じゃあもう〝待て〟はナシ。――いいよね?」
 首筋に男の唇が押し当てられるのを感じながら、ドクターは小さく頷き返した。



【終わり】