【カブミス】君の手

迷宮に潜る日に熱を出したミスルンと、それを心配して見舞いに来るカブルーの話。

 迷宮に潜る予定だったその日、ミスルンさんが風邪をひいた。
 それは質実剛健なあの人にとってはとても珍しいことで、一緒に潜ることになっていたフレキも、かつてともに戦った仲間たちも、心配したのか真っ赤なりんごなんかのみずみずしいくだもの、それから名前の知らない花束の山など、さまざまなものを寄越した。俺も黄金城に行くのを取りやめて、花を持って彼の家を訪ねた。それはすぐ使用人の手に渡ったけれど、また花瓶に入れられてミスルンさんの部屋に置かれた。
 それらに囲まれて眠っている、ほとんど重病人あつかいのミスルンさんは、まるでどこかの霊験あらたかな聖像のようでもあって、俺は少し笑ってしまった。でもケホケホと咳をするミスルンさんはつらそうで、すぐに寂しくなってしまったのだけれども。
 
 
「仕事には行かなくていいのか?」
 俺がまぶたを閉じて苦しそうに息をするミスルンさんの側に座っていると、彼は声を振り絞ってそう尋ねた。
 確かに、仕事には行かなくちゃあならない。馬車で黄金城に出向く寸前にミスルンさんが寝込んでいるという知らせがあったから、実はちょっと予定より遅れているのだ。急きょ馬車に目的地を変えさせ、俺の仕事を部下に一部任せるとの連絡をし、それで庭で花を摘んでこちらに向かったから。
「もちろん行きますよ。でも、恋人が苦しんでいるんだから、側にいないわけにはいかないでしょう」
 俺は笑ってミスルンさんの手を取る。いつもひんやりとしているはずのそれは、今日ばかりは熱く火照り、俺に熱を寄越した。俺はそれがつらくて、彼の手をぎゅっと握る。
「大丈夫だ。これくらい、寝ていたら治る。お前は仕事をしろ。お前がいなきゃあの城は回らないだろう」
 ミスルンさんはそう言って、またケホケホと咳をした。目がうるんで、ちょっとだけ声がざらついている。花じゃなく、その蜜か何かを持ってきた方が良かったかなと思ったけれど、ここに来るまでの俺は何も知らなかったから、彼が寝込んだとした知らなかったから、しょうがないといえばしょうがなかった。
「ミスルンさん、本当に大丈夫なんですか?」
 そう尋ねても、ミスルンさんは頷くだけで何も言わなかった。熱が出て、喉が苦しいのだろう。頬は火照って赤く、俺が握る指先も赤く染まっていた。元々肌の白い人だから、余計に色を持ってしまうようだった。俺はそんな彼の指先をとって口付ける。するとミスルンさんはくすぐったそうに笑う。でも、やっぱり彼はケホケホと咳をして、苦しそうに身をよじった。
 あなたの苦しみを、少しでも分け合えたらいいのにな。病める時も健やかなる時もって誓ったのに、あなたが苦しんでいる時に俺は何もできない。ただ手のひらにキスをして、何もできない自分を罵りつつ祈るだけだ。
「旦那さま、お薬をお持ちしました」
 重苦しい気分になりかけた時、使用人の少女(に見えるがエルフの彼女の実年齢はトールマンの俺には分からない)が木製のトレイを持って扉を開いた。その上には丁寧に煎じられた薬草と、ピッチャーに入れられた水が置かれている。見ないでも苦そうなそれに、俺は唾液を口の中に溜めて、それを飲み込んだ。
「すまない、今起きる」
 ミスルンさんがよろよろと身体を起こす。使用人の少女がそれを補助し、俺はというと彼から自然と手を離して、薬を飲もうとする恋人を見つめる。
 ミスルンさんの言うとおり、俺もそろそろ仕事に行かなくちゃならない。でもせめて彼が眠るまでここにいたいって思う。この人が瞳を閉じて、静かに息をするくらいまでは。
 彼は煎じた粉薬を畳んだ紙で口の中に入れ、グラスに入れられた水でそれを飲み込む。もう苦いとか、まずいとか、そういう感想を持つ気力すらないのか、ミスルンさんはため息をついて何度かに分けて水を飲み、そしてまた使用人の少女に介助されてベッドに寝転んだ。
 俺はそれをベッドの隣の椅子から眺め、また彼の手を取る。冷えたグラスを握っていた手のひらはさっきよりは少し冷えていて、でも内側には確かに熱があって、薬で少しはマシになればいいのだけれども、と俺は思った。
 それから、俺はしばらくミスルンさんを眺め、彼が規則的に息を吐き出した頃に部屋を辞した。くれぐれも頼むと、使用人の少女たちに言って。
 
 
「ミスルンさん、風邪を引いたんですって? 心配ね」
 黄金城に着き、宰相補佐に与えられる執務室に向かっていると、噂好きなところのあるマルシルがアンブロシアを片手に俺の前に立った。
「心配でしょう? もうちょっとミスルンさんの家にいても良かったのに」
「いや、俺がいないと回らない仕事もありますから」
「そんなの放っておいてもいいのに。ヤアドがいるじゃない」
 大切な人が苦しんでいるんだから、せめて隣にいてあげてもいいじゃない? そうマルシルは言い、俺に花束を渡した。魔術で、ぽんと何もないところから取り出して。
「今日は仕事を早く切り上げてもいいってライオスが。この花束は私たちからね」
 俺がミスルンさんちに行く口実を作って、マルシルは楽しそうに消えてゆく。軽くステップをして、俺たちの関係をどこで知ったのだろうか、彼女はあの人を俺の大切な人と言って去ってゆく。
 それでも俺は執務室の扉を開け、日常に戻る。羊皮紙の山に、愛用しているインク壺と羽根ペン、西方エルフからの書状に、他の国々に送るための貿易交渉の草案。そんなものに囲まれながら、俺は今日ばかりは早く切り上げようと、仕事に励む。だってミスルンさんが苦しんでいる時に、少しでも長く隣にいたかったから。マルシルが言うように、あの人は俺の大切な人だったから。
 
 
 夕陽が窓から差し込んできた頃、俺はいつもよりずいぶん早く仕事を終えて黄金城を後にした。マルシルが渡してくれた花束を手に、馬車に乗り込んで、早く早くと視線で馭者を急かしながら。
 そうしてミスルンさんの邸宅にたどり着いた頃には、あたりは真っ赤な夕日に染まっていて、彼が好むエルフ風のポーチの脇に咲く花々は、俺が持つ花束も、やはり真っ赤に染まっていた。それはまるで朝に見た彼の指先のようで、俺はちょっとだけ不安になる。朝にこの屋敷を訪ねてからしばらく経った。彼は薬も何度か飲んだことだろう。少しでもいい、楽になっているといいのだが。
 俺はそそくさと馬車から降り、ドアノッカーを叩いて扉を開かせ、顔馴染みの使用人にミスルンさんの屋敷に招き入れられる。今朝見た少女が(やはり年齢は分からない)ご主人様は寝室ですと言い、俺は言われたとおりにそこを目指す。ドアを開ける。少しでも良くなっていることを祈って、俺はドアを開ける。
「カブルー?」
 扉を開くか開かないかの頃、そんな声が耳に飛び込んで、俺は少し驚いた。足音で分かったんだろうか? それとも馬車の音で? エルフは耳がいいと言うから、馬車の音かな。
「そうですよ、あなたのカブルーです」
 俺はそう笑って、花束を前に持って彼の視線の先に立つ。するとそこには身体を起こして書類に目をやるミスルンさんがいて、俺はほっとした。いや、もっと安静にしていて欲しいのだが、楽なったのだと思って。
「もう大丈夫なんですか? これ、マルシルとライオスさんからの花です」
「ありがとう。……まったくみな寝込んだくらいで色々と。返礼をするのが大変だな」
 ミスルンさんが口の端を釣り上げ、花の匂いをかぐ。俺たちは二人きりだ。いつもならキスをするところだけれど、あんなに咳をしていたミスルンさんのことが心配で、俺は手を出せない。でもそんな俺の困惑を知ったのか、ミスルンさんはこんなことを言う。
「キスは?」って、直接的に、恥じらいもなしに、首をかしげて俺にささやく。
「病人には駄目じゃないですか?」
「なら、今朝してくれたみたいに手に」
 ミスルンさんが手を伸ばし、俺の頬をなぞる。まるで愛撫みたいなそれに俺はもう観念をして、ミスルンさんの手のひらを取り、そこにキスをする。ミスルンさんはくすぐったそうに身をよじる。
 俺はそれに笑って、何度も何度もキスをする。使用人の少女が夕食を持ってくるまで、薬を持ってくるまで静かに、何度もキスをする。真っ白な色を取り戻した手のひらが何よりも愛おしく、何度も何度も、ただただキスをするのだ。花びらが散りかけた花束をシーツに置いて、花束やくだものでいっぱいになった非日常の部屋で、いつものようにただキスをするのだった。