シノハラ
2024-10-21 23:35:59
1828文字
Public アベンシオ
 

突然恋する女の子みたいなことを言い出してチュの度肝を抜くシのアベンシオ


 そろそろ引き上げないと支配人に丁重に摘まみ上げられて放り出された上に、一生出入り禁止になるだろうなという頃だった。ウィールにボールを転がすディーラーの指先が微かに震えていて、制御が出来なくなっているせいでボールの行き先がかえって読みづらくなってきている。
 まだ何とか表情を保っているようにも思えるが、きっと今彼の頭の中は自分が生み出した損益の数字で頭が一杯なのだろう。可哀想に、と思いながらもどこまで追い込もうかとアベンチュリンは考えていた。
 技術としてはようやく脂が乗ってきた頃合いで、支配人もようやく一安心で場を任せられるようになったくらいだろうか。この辺りで一度痛い目にあった方が更なる飛躍のきっかけになるような気もするし、アベンチュリンが原因で仕事を辞す羽目になるかもしれない。コロコロと勢いよく回るボールを眺めながら、チップの山に指を沿わせるとディーラーの肩が僅かに強張った。
 本当に可哀想に。この子はもう、この場をやり過ごす事しか頭にないのだ。その程度の精神であるならば今止めてしまう方がいいのかもしれないが、アベンチュリンのように震えながらでもこういう事をしないと生きていけないような手合いはいくらでもいる。このディーラーがそうなのかはアベンチュリンの知る由もないが、前者であるのが彼のためだろう。
――――
 がやがやなんて表現では少々力不足の音がするはずなのに、彼の声はよく通って聞こえた。当たりっこない数字を唱えたレイシオの声を背にしてアベンチュリンが思わず口を噤んでしまっているうちに、いつの間にか空いていた隣の席にレイシオは腰を下ろす。
「やあレイシオ、それって君の好きな数字?」
「どうだろうな」
 ひらりと手を持ち上げて挨拶をしてみたけれど、レイシオはアベンチュリンをほとんど無視しながら自身の前にあるチップの山を掠め取って自身が述べた数字の上に置く。やっぱり惚れ惚れするくらいに当てる気のないストレートアップだ。レイシオが手を引くのを待ってディーラーが締め切り、ボールはアベンチュリンが元々賭けようと思っていた範疇に落ち込んだ。
 じゃらりと音を立ててチップがディーラーの手元に戻る音を聞きながら、レイシオの大分後ろに一人の男の姿を認めた。少なくともこの場では使われる側の人間ではなさそうで、どうやらそろそろ潮時にしておくべきらしい。
「君にとっては初めて会った程度のディーラーを可愛がる方が僕と過ごすよりもずっと大事だったらしいな?」
 不満ですとばかりに告げてくるレイシオに促されるまま着け始めた頃は重くて仕方がなかった腕時計を確認したら、なんと待ち合わせの時間から二十分以上過ぎていた。待ち合わせのロビーからアベンチュリンが座っていた席までは大体五分と少しで辿り着けるはずだから、彼は十五分は待ちぼうけをしていた事になる。
 どうやらレイシオの中でちょっとの遅刻のラインを超えてしまったらしい。理由が趣味に興じて時間を忘れているというのが余計にダメだったのかもしれないが。
「まるで恋する女の子のかわいい嫉妬みたいだね」
 自分の非はひとまず脇に置いてしまって、なかなかに情熱的な彼の言葉に思わず笑みを作れば彼がぱちりと一つ瞬きをする。どうやらアベンチュリンが返したような感想を抱かれるとは、彼はこれっぽっちも思っていなかったらしい。まあ、自分達の関係を思えば見当違いも甚だしいものかもしれないが。
「ああ、そうだな」
「そうだなって、君」
 平然と返されて、今度はアベンチュリンの方が目を見張ってしまう番だった。恋する女の子って僕は言ったんだけど、と喉まで出かかった問いかけをアベンチュリンはなんとか飲み込もうとする。いやだってまさか、この人がそんな。
「君にそう聞こえたのならそうなんだろう」
 軽く目を伏せたレイシオが席を立ち、アベンチュリンの前に手を差し出した。それからあろうことか、早く僕のために君の時間を使ってくれだのと、何とかアベンチュリンの耳に届く程度の声量で囁く。
 本気なのか冗談なのか全く分からないまま、アベンチュリンは少女のような嫉妬していたと言って憚らないレイシオの手を取って立ち上がる。ディーラーに返してもまだ半分以上は手元に残っていたはずのチップをそのままに出てきてしまったとアベンチュリンが気がついたのは、それからずっと機嫌が良さそうに見えたレイシオと別れてからだった。