明日は不定期健診だよと言えば、ふうん、と返事があった。それから撫でて、と続けられる。耳から入ってくる音はみゃうみゃうと響く猫のそれのはずなのに、何故か人の言葉として理解できる不思議なそれ。共感覚ビーコンだって、猫語は搭載されていないはずなのに。そういう生き物がこの宇宙には元々いるにはいるのだと、レイシオがこの家に初めて来た時に言っていた。
「教授のこと嫌いかい?」
ううん。
「じゃあ興味ない?」
また首をふる仕草をして、お菓子はアベンチュリンの問いを否定した。いまいち判然としないなと首を傾げたところ、むにゅんと目の前で伸びられる。
なるほど、どうやら今現在の関心の優先順位が違うらしい。ねだられるままにお菓子を掬い上げて膝に乗せて撫でてやれば、ようやく満足したらしかった。ある程度言葉は通じても、思考回路の作りが根本から異なる生き物と意思疎通をするのは難しいというかコツがいる。
たのしみ。
「ん? そうだね。いろいろ教えてもらえるといいね」
レイシオの来訪についてのコメントらしく、ぽにゅんとお菓子が弾んだ。愛する創造者が訪ねてくれるかもしれない生まれ故郷をわざわざ遠く離れてアベンチュリンと暮らす彼らは、好奇心の頗る旺盛な個体らしい。アベンチュリンが遠方に出張に行って帰って来た時など、文字通り寝かせてもらえないくらいには。
アベンチュリンがどれだけくたくたになっていても素知らぬ顔でぽむぼむと腹の上で跳ねて、彼らはアベンチュリンにその星の話をねだってくる。アベンチュリンだって観光で行っているわけでもないんだから、早々特色のあることに出くわさないというのに彼らはそんなことは知ったことではないのだ。
アベンチュリンが何とか見つけた話題を搾り取って満足すると、お菓子達はそこら辺に集まってこしょこしょと話し出す。くたくたになった体をベッドに横たえて、彼らの内緒話を盗み聞きするのは嫌いではない。アベンチュリンがまだただの子供だった頃、姉と母のこんな声を聞きながら寝入っていたことを思い出すからだろうか。
そういう彼らだからか、話題に事欠かないレイシオの来訪は大層楽しみなイベントであるらしかった。レイシオもお菓子達の反応を気に入っているらしく、放っておくとなんだか専門的にも聞こえる話までしている始末だ。あの子達がどこまで理解しているかは知らないが、彼が帰る頃には満足気に部屋の隅で団子になってもちもちしているのが常である。
分かってるのに訊いているのだから、答える優先順位も下がろうものということなのかもしれない。でもまあ、それくらいは許してほしい。自分の家の住人が自分の好きな人を心待ちにしてくれるのは存外嬉しいものなのだ。
レイシオはアベンチュリンにとって、この子達をきっかけに自宅に顔を出すようになっただけの人である。表向きは。精神の表面を捲ると、煮ても焼いてもどうしようもない感情がずっと散らかったまま片づけ方も分からないままになっている。
この子達が家に来る頃には、アベンチュリンはレイシオを愛してしまっていた。もっとも、家族に向けるものとは違うそれを恋情と呼ぶと理解したのはもう少し後になってからだったが。
大切であれはこそ手放すべきなのだ、とはアベンチュリンだってずっと思っている。レイシオがどれだけ冷静沈着で、アベンチュリンの前で正解を選んでくれていたとしても、それが未来永劫続くとは思えない。
いつかアベンチュリンが破滅的な終わりを迎えるだろうと彼も予測して、だからこそその道行きを案じてくれている。そんな人の傍にアベンチュリンはいるべきではない。漠然とした不安などではなく、自分は身をもってその末路を知っているのだから。
だというのに、アベンチュリンはずっと彼の傍から離れられないでいる。彼に予定を訊かれれば無理をしてても開けてしまうし、自分から彼を誘うのも止められない。それがどんどん悪化して、今では彼を家に上げてしまっている。罪悪感と喜びの間をアベンチュリンが行ったり来たりし続けて、どれだけが過ぎてしまったのだろうか。
「……情けないな。好きな子にはかっこいいところを見せたいのにね」
そんなところ、もうずっと見せられていない気がする。彼に助けられて、寄りかかって、自分ばかりが楽をさせてもらっているようで。溜め息交じりの声に情けないの? と膝にいたお菓子がにゅいと首を反らしながらアベンチュリンに尋ねてくるので、その頭を撫でてやりながらそうだよ、と応じてやる。
「今も情けないなあ……」
困った、と溜め息交じりに告げながらぎゅうっとその子を抱き締めると、恋愛相談? と続けて質問されて少し驚いた。この子達は惚れた腫れたまで理解しているらしい。そもそも創造主に向けた深い愛情を持ち、そのひとかけらでも同じものが返ってくることを願い続ける子達だ。そう不思議なことでもないのかもしれない。
「そうだね、そうなのかも」
恋愛相談って情けないの、なんて続けられてどうだろう、と考え込んでしまう。それなりに時間をかけた後に、少なくとも今の僕にはそうかもしれない、と小さな声で自白した。
そもそもさっさと忘れてしまった方が良いものだと分かっているのに、どうして相談などしようとしているのか。答えは至極簡単だ。あのひとの傍にいたいから。
しっとりと温かい子の感触を意識しながら、アベンチュリンは目立たない程度に頭を振る。それから、もちもちしたその子を膝から下ろして、明日のための準備を始めた。
それからシステム時間で半日もしないうちにレイシオはアベンチュリンの家にやってきた。二人分の昼食と食べる方のお菓子を携えてくるのが慣例になっているので、アベンチュリンが用意するのは酒の類くらいである。といってもレイシオが昼から深酒をしたがらないので、口元を湿らせる程度しか飲まないのだけれど。
レイシオは一匹二匹とお菓子の数値をあれこれ取って、問診めいたことをしている最中にお話してだのどこに行ってたのだのと質問を受けては軽くいなしている。案外小児科医も向いているのではないだろうか。
「……よし、問題はないだろう。最近何か変わったことは?」
最後の一匹もセンサーを取り付けて数値を見てから、レイシオは満足そうに息を吐く。それから張り付けた装置を外しながら、黙って見上げてきていた手元の子に角の取れた声で問いかけた。
んー、と安静にするよう指示を受けていたせいか、ちょっとぼんやりしながら相槌を打ったお菓子は昨日アベンチュリンが一番構っていた子だった。きょろりと目が動いて何かを探すような仕草をしてからアベンチュリンと視線が合って、ぽむんと体が弾む。
アベンチュリンってかわいいんだって。
「…………?」
「いや、分かんない……」
レイシオが不審な眼差しをアベンチュリンに浴びせかけて、アベンチュリンが返事をするまでの間に訳の分からないことを言い出した子がぽよんと再び撓んだ。なあに、とレイシオの前からお菓子を抱き上げて、アベンチュリンは大きな瞳を覗き込む。
恋愛相談って甘酸っぱくてかわいいってなのが言ってた。
「なの……? ああ~三月なのか?」
少々首を傾げて思い当たる人物を検索して、ナナシビトの一人の情報を脳内から引っ張り出す。いかにもこの子達の事も、色恋沙汰も好きそうな雰囲気ではある。ご正答とばかりにみゃん、とご機嫌に鳴かれてなんだか旗色がよくない予感を抱えながら、アベンチュリンは状況を理解し始めているかもしれないレイシオに視線を戻した。
「君がか?」
「ええと、お恥ずかしながら……」
変に否定するのもよくない気がして、俯きながらアベンチュリンは肯定する。言葉の額面通りに本当に恥ずかしくなってしまって、じわりと頬に熱が集まるのが分かった。落とした瞼を持ち上げると、元凶であるもちもちがアベンチュリンを見上げていた。このやろう。
「君に好かれる相手は大変そうだ」
「そうかな、今は僕が勝手に振り回されてる側だと思うけど」
レイシオが単純なアベンチュリンの気質について指摘しているのか、アベンチュリンに瞬きをした女神について述べているのかは判然としない。けれど、正直深堀りするつもりにもなれなかった。彼の反応はちくりとアベンチュリンのいやに柔らかい恋心を刺すには十分だったからだ。
彼がアベンチュリンと共にいるのは様々な要因が積み重なった結果でしかない。ただの惰性の、ちょっと距離感がおかしくなってしまった患者兼職場の同僚くらいの感覚でいるのではなかろうかとアベンチュリンは憶測している。そんな状況でアベンチュリンに好きな人がいると知ったところで、はあそうですか以上の感想を抱くはずもない。
「恋愛相談はかわいいかもしれないが、だからと言ってそこのギャンブラーがかわいいわけではない。一と全を混同しないように」
アベンチュリンからお菓子を取り上げたレイシオが指摘するとにゅーん、とそれが尾を引く鳴き声を上げた。何か思うところがあるのかもしれない。
* * * *
一通り彼の家のお菓子生命体の調子を見て、好奇心も満たしてやった。彼らは見目に反して知能が高く、自立的な生活が可能な生命体である。だからこそ、仕事柄家を空けがちなアベンチュリンの家でペットのような顔をして生活できるのだ。
であるからしてレイシオがわざわざ彼らの様子を見にくる必要もないのだけれど、最初はレイシオの好奇心によるところで今ではすっかり習慣化してしまった。きらきらした瞳でレイシオの話を聞き入るお菓子生命体達を構った後、外で買い求めた料理を温め直してローテーブルに並べてソファに腰を下ろして二人で食べる。
高級品もいい加減食べ慣れてはいるだろうが、だからといって名前も意識しないような店の持ち帰りの品を軽んじないのは彼の美点だ。これ美味しいね、どこのやつ? なんて言いながら、アベンチュリンは家のストックの酒をレイシオに振る舞ってくれてお互いに酔わない程度に嗜むのが通例になっている。
「……僕ってかわいくない?」
そのはずだが、もしかしたら今日の彼は違うのかもしれない。思い返せば彼はいつもの倍の頻度でグラスを傾けていたような気がしてきた。レイシオもそのペースに引っ張られて少々酒量が増えているかもしれない。午後から用事があるわけでもないが、昼間から酔っ払うのは少々道徳に反するように思う。ほろ酔い程度で止めておかなければ。
「……かわいくはないな」
隣から覗き込んでくる彼の日頃の行動を思い出して答えると、アベンチュリンは満足そうに目を細めた。それから鼻歌を歌いそうな調子で立ち上がると、部屋の隅でレイシオの話を消化しているらしい生命体を一体拾い上げてくる。
そのままレイシオに振動が伝わるくらいの勢いでソファに身を預けると、レイシオの聞いた事もないメロディの鼻歌を本当に紡ぎ始めた。彼の生まれた星のもう彼しか知らない音楽なのか、単にレイシオが知らない歌手によるものなのかも判断が付かない。
アベンチュリンの突然の行動に最初こそにいにいとそれは文句を言っていたのだが、優しい手つきに撫でられるうちにどうでもよくなってしまったらしい。ルァン・メェイの姿を探すために大きくなったとでも言いたげな瞳が瞼の裏に隠されて、尻尾がふらふらと正体なく揺れる。
成人男性を捕まえてかわいいはないだろうと否定したのだけれど、やっぱりかわいいのかもしれない。自身の理想を肯定されてご機嫌にペットを撫でて寝かしつけようとしているほろ酔いだろう彼をまじまじと見て、自分の発言を訂正しようか少々迷いが生じてしまった。
「そんなに君が他人からの心証を気にしていたとは」
「そりゃあ、好きな人にかわいいなんて思われてたら僕だって穏やか……じゃ……」
彼が随分と可愛がっているお菓子生命体に視線を落として目を伏せながら、アベンチュリンがふわふわとした調子で紡いでいた音が急に強張って絨毯に転がっていく。すきなひと、そうレイシオが声には出さずに唱える間に、アベンチュリンの端正な横顔が耳まで真っ赤に染まってしまう。
親愛と捉えてやっても良かったのだが、従前情報と今の彼の反応を加味すればそういうものではないのだろう。距離を詰めすぎている自覚はあったが、よもやそれほどに思いを注がれているとは思いもしなかった。
それだけ彼の隠蔽が周到だったのか、それとも。
なでて。そう、二人のどちらかが言葉を発する前にアベンチュリンの膝の上にいるそれがにゅうと鳴いた。突然止んだ奉仕が不満だったらしい彼だか彼女だかにはっとしたらしいアベンチュリンが、少々ぎこちなくなった仕草でにゅっと伸びた頭を撫でてやる。
「……愚鈍の真似でもした方がいいか?」
「いや、僕はいつものレイシオが好きだよ……」
一旦自分での判断を放棄してアベンチュリンに尋ねると、彼がお菓子生命体を抱き潰すように体を倒した。額を弾力のある触り心地のそれに押しつけて、消え入りそうな声で気づいたままでいてほしいと乞うてくる。それとほとんど同時に嫌、と生命体がアベンチュリンの重みに堪えかねて鳴いて、現飼い主の膝上からにゅるりと逃げ出して二つの塊の下に戻っていった。
「ごめん……恋愛ってこんなに難しいんだ? ひとつも上手にできてない」
どうしたらいいのかなんてとっくに分かってるのに、いつまで経っても決心の一つできないでいる。アベンチュリンがそう呻いてようやくレイシオを見た。
「でもこれでようやくおしまいだ」
緊張が緩んでほっとしたようでいて、寂しそうな眼差しだった。その瞳が二つの事を望んでいるのがレイシオには分かる。一人きりになりたいのに、レイシオをずっと手元に置いておきたい。どちらをレイシオが選んでも、多分彼はどこかで苦しいままなのかもしれない。それはレイシオの本意ではないのだけれど、今の自分にはまだどうしてやることもできない。
一等気がかりなこの患者をレイシオはどう扱うべきなのか。自然に湧いてきた医者染みた思考をレイシオはいったん精神の奥底に閉じ込め、レイシオは一個の生き物として――これがいつもの自分であるのか些か疑問は残ったが――彼を見つめることにする。
まずは先ほどの彼への評価を撤回して、それから――それから。
考えようとすると途端に鈍ってしまいそうになる思考に嫌気が差しそうになりながら、自身の言葉を行儀よく待ってくれているお菓子みたいな虹彩を持つ男と日が落ちるまで対話を重ねる覚悟をレイシオは固めた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.