きず、あと

概念ニル主でキャットさんの話し。エンディングに触れてます。

リゾート地でのバカンスを楽しめなくなりましたね、と医者は言った。
ボタンを留めながら、一瞬その言葉の意味が分からなくて、私は医者の顔を見た。あぁ、と理解する。私の体調管理も任されていた夫の主治医は心底哀れんでいるかのような声音でそう言った。道端の残飯を漁る痩せた犬を見るような眼差しだった。その奥にちらちらと嘲笑が含まれていることはすぐに見てとれる。
驚いた。何がって、その医者の態度に、ではなく、医者の放った言葉の意味が全く分からなかった自分自身に。
引き攣れた銃創。医者はその傷跡を晒す行為──リゾート地で水着で遊楽など出来ぬだろう──と宣ったのだ。そうか、そう見えるのか。
主治医は夫の支配から逃れられたにも関わらず、相変わらず私の体調管理を進んで手ずから行うことを希望した。なるほど、私は次の籠を探す哀れで儚い駒鳥か何かだと思われているらしい。
あの支配に及ぶほどの力があるとでも思っているのだろうか。透けて見える憐れみと下心に辟易したけれど、私はそれを表に出すことはしなかった。
服の上から傷跡を押さえる。医者はますますの憐憫と抑えきれない愉悦を唇に滲ませていた。
「綺麗でしょう」
「え?」
「勲章なのです、これは」
自ら勝ち取った勲章だ、これは。一度は愛した男を、そして芯から憎んだ男を撃ち、引き摺り、突き落として、私は空を飛んだ。
籠の鍵は内側にかけられていた。いつだって開けることはできた。開けたら最後、息子の首に鎌が振り下ろされる仕掛けだった。出られない。永遠に籠の中をぐるぐるぐるぐる。歩き回り続けることしかできない。息子を腕に抱くことさえできない。毎日、泣き暮らしていた。
けれどある日、黒い鷹が籠の横に舞い降りた。鷹は籠ごと私たちを持ち上げて、落とした。ひどい。
そして鷹は選べと言うのだ。終わらせたければ始まりへ。
そうして私は鎌を持った。
「先生、私ね、世界の危機を回避させたんですよ」
「は?」
「明日からは息子とブルターニュへ」
「え? あ、」
「そのまま息子と世界を回ろうかと」
そう言ってバッグを持って立ち上がる。
夫が好んだかっちりとした仕立ての良い服はもう着ない。名もなき路面店で買った麻のシャツは着心地がよかった。パンツはサイズを見つけるのが大変だけど、少し裾が短めなのも気に入っている。エスパドリーユは威勢のいい年配の女性店主と値段交渉して手に入れた代物だ。またおいで、と言われたあの豪快な微笑みが忘れられない。
「さようなら、先生」
告げて振り返らずに部屋を出る。さて、息子を迎えにいく時間だ、と携帯で時間を確認する、と。医者の助手らしい若い女性が追いかけてきた。
「あの、これ、忘れ物です!」
手にはグリーンの薄いストール。いけない、忘れてた。ありがとう、と告げて受け取る、と彼女は頬を上気させて私を見た。
「ミセス、いえ、ミズキャット。あの、お元気で……!」
勢いよく彼女は言った。瞳が潤んでいた。
主治医として夫を診ていた医者の助手だ。あらかたの事情は察していただろう。
私はもう一度、彼女に告げた。
「ありがとう。さようなら」

一週間前だ。〝記録〟を残せ、とあの男は言った。不穏な気配を感じて残した記録。
〝キャノン・プレイス〟〝三時〟
あのあと周辺できな臭い事件が数件起きた。消えた夫の部下。異国女性の遺体。
記録を残したその返事はない。
してはいけない。
知っていてはいけないことだから。
だからきっと最後だと思っていたのだ。
けれど、今日の朝、テクストが届いた。
たった一言だけ。

──〝生きる理由ができた〟

あなたの生きる理由が〝誰か〟であればいいと思う。〝世界〟ではなく。
それは翻って私を影から守る、などという、ロマンティックな自惚れでも、名もなきヒーロー然としたものでもない。生きねばならない〝誰か〟のためであってほしい。
もう一度だけ携帯のテクストを見つめ、その言葉を私はなぞった。そして、デリート。
橋の向こうから、息子とアンナが手を繋いでやってくる。私を見つけた二人が笑いながら大きく手を振っている。
眦が熱くなった。それを呑んで、私はそっと携帯を橋の下に落とした。
ぽちゃん、とかすかな水音がする。
息子が私に向かって駆けてくる。
大きく手を広げ、私は飛ぶように走り出した。