夕方から振り出した雨は、真夜中になって急に勢いを増した。無理に目を閉じても、そのぶん鋭くなった聴覚が無数の音を鮮明に拾って逆効果だった。
眠れない。軽い苛立ちを感じながら寝返りを打ったところで青い瞳と目が合って、どちらからともなく腕を伸ばしてもぞもぞと隙間を埋めた。
起きていることは気配で分かっていた。そして少しだけ期待した。このままだと眠れそうに無かったから。寝巻きのシャツの襟から覗く褐色の肌に舌を這わせるなりすればきっと応えてくれる。何故かそう確信していた。
どうしようか。胸板に額を当てて思案する。明日はどうせ休みだし、だからここに来ている訳だし。なんとなく疲れているから、と意見が一致してなにもせずに寝たけれど、目が冴えちまったんなら仕方ないよな。言い訳めいた考えを脳裏に並べつつ、薄く口を開いた瞬間。ベランダへ出る大きな窓の外、カーテンの向こう側が白く光ったのが分かった。
は、ともひゅ、ともつかない、息を呑む音が聞こえた。体に回された腕がぎしりと強張るのが分かった。
だめだ、と咄嗟に思った。思っただけだった。
ほとんど間を置かず、空気が、建物全体が揺れた。脳天をかち割るような音に思わず目をつむる。大きくは動かなかった。ただ、寝巻きの背中が一瞬だけ、ぎゅっと握り込まれた。
「近かった、っすね」
部屋のもの全てが震えているような錯覚をやり過ごしてから、口を開いた。顔を見ることはしなかった。多分見られたくないはずだ。
「……そうだね」
たっぷり間をおいて、やっと言葉が返ってくる。震えてはいない。変に小さくも大きくもない。夜のベッドの中にふさわしい、ひっそりとした声。大丈夫そうだと判断して、体を起こそうと身じろいだ。
「なんだい急に」
「時間見たくて」
「もう少しくっついていたかったんだが」
あの後で一人にするなんて薄情者だね君は、と冗談めかして言ってくる。笑い事にできるなら十分だろう。
「時計見るだけっす。そんな離れたりしねぇよ」
そう言えば、背中に回った腕と後頭部に添えられていた手が離れていく。包まれれば暖かいし安心感もあるけれど、実のところ結構重い。この体はどうも筋肉が付きにくい体質らしいので、その重みには少し悔しさを感じていた。
シーツに手をついて体を起こす。寝乱れた髪が視界に垂れ下がってきて、軽く頭を振って跳ね除けた。ヘッドボードの置き時計を見ると、午前三時二十分過ぎを示していた。
ふう、と意味もなく息を吐く。視界の端でバーソロミューが体勢を変え、仰向けになった。ぼんやりと天井を見つめる青に、少しだけ不安な気持ちになる。
海に行きたい、と言われたらどうしよう。
ずっと考えていたことだった。一緒にいる時、いつもどこかで怖がっていた。馬鹿な心配だと自分でも思う。行きたいなら、俺なんか誘わずに一人で行くだろう。もしかしたら、出会う前に行ったことがあるのかもしれない。それでも今、バーソロミューは隣にいる。少なくとも今は。それで十分だと思い込もうとして、いつも失敗していた。単なる同類と言うには、心を傾け過ぎている自覚があった。
カーテンの閉まった窓を何とはなしに振り返る。雨の音は未だにうるさい。
「寝ないのかい」
「目、冴えちまったんで」
「目を閉じているだけでも休息は取れる」
おいで、と背後で掛け布団が持ち上げられる気配。素直に振り返って、けれど目を合わさないようにしながら空けられた空間に収まろうとした時。部屋の中が一瞬、明るくなった。
だめだ、と咄嗟に思った。今度は腕を伸ばすことができた。
一拍おいて、さっきよりもずっと小さく、衝撃もない雷鳴が聞こえた。
「……あれ」
思わずそう呟いていた。身構えて閉じた瞼と肩からかくりと力が抜けた。雷雲はもう随分と遠くに行ってしまったらしい。目を開けると、きょとんと見開かれた青と目が合った。
「……随分と心配させてしまったようだね」
見る間にその顔が、困ったような表情に変わっていく。ふわふわとした手触りの癖っ毛を横から押さえつけるように、俺の両手がその耳を塞いでいる。勢いでほとんど馬乗りのような体勢になっていたのに、今になって気付いた。
「わりぃ、余計なこと」
やらかした、そう思って焦って手を浮かせた。
この国は平和で、大量の火薬の破裂音を慣れてしまうほど聞くようなことはない。けれど、耳をつんざくような轟音をもたらす自然現象は存在していて、昨日から天気予報でも注意だの警報だのと盛んに言っていた。
大砲の直撃を受けて死んだのは目の前のバーソロミューではないが、精神は彼と同一のものと言っていい。大きな音が苦手だと告白された時、情けないことだがね、と苦笑していたのを覚えている。嵐の海でも聞いたはずのそれを恐れてしまうのがどれほど屈辱なのか、俺には分からない。分からないが、きっと踏み込んではいけなかった。そう思って慌てて手を引っ込めようとした。
すると、右手の甲を包むように片手を添えられた。大きく滑らかな手の暖かさに、今更のように心臓が跳ねる。深海色の髪に絡んだ指が小さくわなないた。手汗が出てやしないか、とあらぬ方向に思考が飛ぶ。甘く整った顔に、なぜか嬉しそうな笑みが浮かんで、もう片方の手がこちらへ伸びてくる。
「あ、の」
悪い感情は見受けられない。けれど行動の意味が分からない。戸惑いつつ、中途半端に曲がっていた背筋をなんとなく伸ばすと、ストップ、と声が掛かった。
「動かないでくれたまえ、角度が変わってしまう」
重力に従って下へと垂れる毛束に指が触れ、ちょいちょいと位置を変えていく。なぜだか今の今まで忘れていたこの男の妙な趣味を思い出して、思わず半目になった。
それは座に置いてこれなかったのか。生身の体を持つ今の自分たちには全く関係の無い概念を思い起こし、長々と溜息を吐いた。
まあでも、これが無きゃバーソロミューは俺のことなど覚えていなかっただろうし、俺もこいつの顔と名前が一致することなんて無かっただろう。
「うーん、もう少し顔を傾けてくれないか。君から見て左に」
「ぜってーやだ」
それだけ言って顔を下げた。唇が触れてから、俺からキスするのって初めてじゃないか、と気付いた。
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