戸惑えど

利←こま
なかなかくっつかない二人のじれったい姿が見たい

 雨上がりの庭を掃除していると木からぴしょりと水が落ちてきて額や頬を冷たく濡らし、服をまだらに染めた。
 今朝早く、学園の門前へ姿を現した利吉さんは泥水や傷だらけでひどく汚れていた。心配すると彼は入門票にサインしながら「ちょっと色々あってね」と口の端だけで笑った。ちょっとした仕草ですら様になる彼だけど、そのお顔には疲れが色濃くにじんでいる。何日も寝ていないような鋭い目つきを僕に向けて、しばらく休ませてもらうよと彼は告げた。
 利吉さんが学園で過ごすんだ。
 泥だらけで傷ついた彼を前に、僕はにやけてしまわないよう注意しながら客間と水浴びの支度を急いだ。
 かっこよくて、一流のプロ忍者で、一目見た時から僕のあこがれの人。用事があってときどき学園にいらっしゃると、りりしいお姿を無意識に目で追ってしまう。
 だけど残念ながらその彼からは、多分僕は好かれていない。涼しげな目元は僕の前では怒りで吊り上がっていることが多い。でも、いいんだ。僕を睨みつけて悪態をつく不機嫌なお顔でも、その目で僕を見て、形のいい薄い唇が僕の名前の形に動いて、少し低い声で呼ばれたら、嫌われていたって怒られたって僕の心はふつふつと歓喜に沸いてしまう。
 ただ、今日ばかりは僕をからかう元気もないみたいだと、彼を客間に通した後でため息をつく。いつもなら門の前や廊下で話しかければ皮肉でも何か答えてくれるのに、まったく上の空で生返事だった。お仕事が大変だったのかもしれない。
 傷んだ体を休めるべく、利吉さんはすぐ眠ってしまうだろう。せっかく利吉さんが学園にいらしていても、僕にこれ以上できることは、ない。
 僕は彼のいる部屋に後ろ髪を引かれながら、仕事に戻った。

 外の掃き掃除を済ませて、お茶を入れて、書類の整理をしている合間にも、彼がいま学園にいるんだと度々思い出しては嬉しさと緊張が混ぜこぜにおそってきて、何かにつけては失敗した。
 だけどどんなふうに過ごしたって、夕餉の時間が近づいてくればお腹がなる。大して仕事が進まない割に気ぜわしい一日だったなあと思いながら事務室を離れると、子ども達のにぎやかな声が聞こえてきた。
 見れば廊下の先に喜三太くん、しんべヱくん、金吾くんと一年は組の子たちが何人か。
 それから、一年生の頭巾に囲まれた寝巻き姿の利吉さん。
「利吉さん、髪を下ろすとけっこう長いんですね」
「お怪我は大丈夫なんですか?」
「ああ、最近切ってないから伸びてきたかな。怪我はまあ、派手な包帯だけど見かけより大したことないよ」
 思わず立ち止まって見入ってしまう。昼間ずっと眠っていたのかな。夕日を浴びながら生徒たちと話す利吉さんはお顔にかかった影で彫りの深さが一層際立ち、ゆったりと着た寝巻きの下からは包帯に覆われたたくましい胸板がのぞいている。
 惚けていたらあっという間に子ども達はどこかへ行ってしまい、利吉さんから少し離れたところに場違いにつっ立った僕が残った。
「あ、あの、そうだ夕飯、お部屋にお持ちしましょうか」
 どぎまぎしながらやっとのことで声を出したら、話すには遠いと思ったらしく彼がこちらへ歩いてくる。
「悪いね、頼むよ」
 彼が目の前まで来ると、包帯の巻かれていないところにも小さな傷がいくつか見えた。ぞわりと心臓が波打つ。
 危険なお仕事だったのだ。
 今夜はお布団を持ってお話聞きに行くのはやめておこうと自分に言い聞かせたところへ利吉さんがひそめた声で
「夜、部屋においでよ。酒があるんだ」
と囁き、わずかに微笑んだ。
 ものすごくどきりとしたけど、ちょっとこれはおかしい。平時なら、疲れていればイライラして僕に当たり、隣に布団を敷き延べるのだってしかめ面でしぶしぶ見守るのが利吉さんなのに。
 それに、彼のいたずらっぽい誘い文句とは裏腹な陰鬱で侘しい表情といったら、一撃で僕をちぐはぐな動揺の中へと突き落とした。
「いいんですか?」
 お怪我されていてお酒なんか、と続けようとしたのにどう受け取ったのだか、彼は「じゃあ後で」と言い置いて客間へ戻っていった。
 利吉さん、どうしちゃったんだろう。
 それでも僕の胸はこれ以上ないくらい高鳴り、夜になると言われたままに客間を訪ねた。

 お酒を酌み交わす間、利吉さんは穏やかで、ぽつりぽつりとたわいもない話をしては時折考え込むように、開けた障子の間に浮かんだ月を見上げる。ふっくらと肥えた月は明るく、あと数日もすればまんまるになろうかという頃だ。
 僕は持ってきた盃からちびちびとお酒をなめるけれど、どうにも頭が冴え冴えとして酔えそうにない。利吉さんはさっき会ったときよりも寝巻きがはだけているし、正座をくずして座る僕の膝と彼の膝がくっつきそうなくらい近くにいる。横目でさりげなく見ていれば、あおるようにお酒を飲みこむ喉元が男らしく、長いまつ毛に憂いを含んだ切れ長の目、そして月明かりを受けて濡れた唇が光っているのが妖艶なまでに美しく、この人になら口を吸うどころか噛みつかれてもうれしいだろうなと自分勝手に思い描いた。
「なに見てるの」
 不意に彼がこちらを向いたので驚いて、ふと合った目をそらせなくなってしまった。やましい考えで見つめていたのがバレて、恥ずかしかった。
 利吉さんは少し酔ったような満足げな目つきになって、盃を置くと僕の膝に手をつく。
「気づいてないとでも思った?」
 置かれた手のひらは熱かった。視線は絡んだまま利吉さんの顔がみるみる近づいてきて、僕はもう何も考えることができない。
「そんなに私のこと好きなんだ」
 反対の手で頬に触れられ、息がかかるほどの距離で囁かれて、喉からは「ひぅ」という音しか出なかった。こんなに近いの、夢にも見たことがないっていうのにどうすればいいんだ。
 利吉さんが僕に唇を重ねようとする。どうしてだろう。そりゃあ僕は利吉さんが好きだけど。彼はどうして、こんなことをするの。
 ちっとも頭が回らない。もうなるようになれと念じて思い切り目をつむる。
 それから少ししても口に何かふれる感触はないまま、やがて頬にあてがわれていた熱が離れていった。
 おそるおそる目を開けてみると、彼はもう元の場所に座っていた。
「へ……?」
 今されたことと、されなかったことについてどう感じていいのか分からず目を白黒させていたら、月の方を向いて彼は「震えてたから」と呟き、またお酒をあおった。
 言われるまで自分が震えてるなんて気づかなかった。傷にさわるからもう呑むのはよしたらいいのに、と端正な横顔を見て思いながら、口はひとりでに「武者震いです」と言っていた。
「よく言うよ」と彼は鼻で笑った。いつもの利吉さんだった。

 その後何日か利吉さんは学園に泊まられたけど、部屋に誘われることはなかった。もちろん、僕の方から夜訪ねて行くことも。
 出門票にサインをもらって門の前でお見送りするとき、本当はうれしかったんです、と言いたかったけれど彼はすでに愛想のない表情で僕を見下ろしていて、あんなことなどなかったかのような不遜な態度だ。
「じゃあね」
「お気をつけて」
 判で押したようなお決まりの挨拶をすれば、僕らはもう他人同士、別々の生活に帰る。
 思いは打ち明けることなく胸の内にあるままで。
 それでいい。
 伝えてどうなりたいなんて端から考えてない。
 ただ、ご無事であってほしい。去っていく利吉さんをいつまでも見送りながら、その背中に向かってお慕いしていますと心で呟いた。
 晴れた空には雲の名残すらなく、なぜだか僕は泣きたくなった。



(終)