蘇芳
2021-07-08 20:24:41
5557文字
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貴方に一直線

軌跡の小話。クロリンです。ポメガバースでポメ化するのはリィンの話。ポメ化して元に戻るタイミング等の独自設定がありますのでよろしくお願いします。

 静かな室内に規則正しく時を刻む時計の音と、時折雑誌をめくる音が落ちる。夕飯の時間はとうに過ぎ去り、子供たちが親にもう寝なさいと言われて始めているだろう時分。クロウとリィンが住む家にはクロウの姿しかなかった。リィンはまだ帰ってきていない。
 時計を確認したクロウはあと三十分経ってもリィンが帰ってこないようなら何か手伝わせろ、と通信を入れようと考えた丁度その時に玄関が開く。
 やっと帰ってきたか。クロウはひとまず安堵の息を吐いた。何事にも真面目に取り組むのは美徳ではあるが自身をおざなりにするのはよろしくない。これが仕事ともなればリィンに手を抜く、なんて選択肢が存在していないのは火を見るよりも明らかだ。最近になってようやくリィンの選択肢に人の手を借りる、が増えたがその選択肢が現れるまでの敷居が高い。立っているものは親でも使え、なんて言葉もあるのだ。「俺のほうがよっぽど使いやすいだろうから使えよ」とクロウがリィンに言っても「それはそうだな。でも十分手を貸してもらっている」と言うばかり。そうして能力の高いリィンは無理を無理と思わず物事を進める。しかし、今では無理ができなくなっているのだ。物理的に。体を悪くしている訳ではないので、リィンからすれば堪ったものではないだろうが周りからすれば歓迎されている状態だ。その状態にならないのが一番いいのだがそれこそ無理というものだ、今はまだ。
 クロウが近づいてくる気配に合わせてリビングの入り口に視線を向けると、少し疲れを窺わせる顔色のリィンが現れた。
「おう、おかえり。お疲れさん」
 クロウの姿を視界におさめたリィンが、ほうと体から力を抜き普段の凜とした表情とは違う、甘く目もとを緩ませたリィンを見るのが好きだとクロウは思う。
 食事は温めれば食べられる状態にしてあるが、先に風呂に向かわせるべきだろうか。風呂の準備もしてあるし。疲れを取るな風呂だが風呂に入れば眠気が勝ってしまうかもしれない。まずは腹具合から聞いて、そうクロウが思案していると。
「ただい──……くぅん」
 リィンの言葉が途切れ、ばさばさっと衣類が派手に床に落ちて散らばった音。次に聞こえたのは、犬の悲しげな鳴き声。
 リィンが立っていた場所には宵闇色の見ただけで、ふわふわの毛並みだと分かるポメラニアンと呼ばれる犬種の犬がいた。その犬はリィンの白い教官服のコートを頭に被った状態で耳をぺたんと伏せ、紫色の目をうるうる湿らせている。驚くことに、このふわもこで丸っこい小型のポメラニアンは突然服を残して消えたリィン、その人で。リィンはポメガバースと呼ばれる性質も持っていたのだ。
 ポメガバースとは。人間が犬のポメラニアンになってしまう性質だ。どうやら生まれついてのものらしく疲れがピークに達する体調が悪化する、ストレスが溜まるなど心身に多大な負荷が掛かるとポメラニアンになる、というものである。
 人間が犬に、と慌てることはない。この性質はポメラニアンになった場合、ポメラニアンになった人物を周りがチヤホヤ甘やかすと元に戻るという原理は解明されていないが、特段の問題も発生していない性質なのだ。はっきりとポメラニアンになる原因は分かっていないが何かの病気を誘発したり、死に至ることはないと分かっている。確かなことではないが、この性質持ちは普段から無理をしがちな人物である可能性が高く、寧ろポメラニアンになるのは周りに歓迎されている節があったりするのだ。
 詳しい話は割合するが、リィンの場合ポメガバースが発現したのはつい最近。贄の呪いがこの性質を抑えつけていたらしい。幸いにも呪いの影響はなにも残っていないとのことだが、ただ通常ならポメラニアンになってもおかしくなかった場面でならなかった為か通常より当面、ポメラニアンになりやすいようだ。
 
 リィンが初めてポメラニアンになったのは分校宿舎で突然のことに「リィン教官が犬に!? 身体に異常、しかない。痛いところ……わっ、わっ、小さいふわもこ温かい」「おい、じゃじゃ馬娘。なんで俺に手渡しやがる!」「ふわふわです。こほん、確か情報局のデータベースに」「撫でる技術の見せどころですね」「待ってくれ。落ち着こう……何故リィン教官が次々に手渡されているんだ?」「って、言うときながら普通に次に手渡しとるやないか!」「可愛い属性まで持ってるとかモテるに決まってんじゃん!」「シドニーさんハウス」「はわっ、さっ、触ってもいいんですか? 失礼なのでは……もふもふ」「わ~、ふわもこだね~」「繋がった。クロウ兄ちゃん、リィン教官なんだけど」「駄目だ。こんな小さな生き物を持ったら鍛えた筋肉で潰してしまう!!」「味覚は犬準拠ですかな? しっかりと用意いたしますのでご安心を!」ぽかん、とポメラニアンになって訳が分からず固まったリィンが混乱しながらも至極丁寧な手つきの生徒達の手から手に渡り、なかなかの混沌っぷりだったらしい。そしてリィンは最終的にオーレリアの手に辿り着き「シュバルツァーはポメガバースだったのか」という発言によって終止符が打たれたとか。
「リィンお前……いや、小言は戻ってからだな」
 口の中だけでリィンの良く聞こえるようになった耳にも届かないように呟いたクロウは、リビングの入り口で己の服に埋もれて申し訳なさそうに縮こまっているリィンに向かって腕を広げ、呼んだ。
「そら、リィン。──おいで」
 元から甘いものを更に煮詰め甘くした愛情が音として言葉になり、リィンの耳に届く。
 最初は遠慮がちに、かし、かしと。それが、だんだんと足早になり爪が床に当たる音を響かせ、人間の足なら数歩の距離を転がるようにクロウの元に向かって走る。ソファに座るクロウの目の前に辿り着いたリィンは跳ねたボールのように、ぽんっと勢い良くクロウの胸元に飛び込んだ。クロウなら受け止めてくれると微塵も疑わず、迷いなく真っ直ぐに。
 くぅんと甘えた鳴き声。見事クロウの腕の中に収まったリィンは円らな紫色の目を輝かせながら胸元にすり寄る。クロウの大きな手に撫でられるたびに、変わらない紫色の目を喜色で彩り左右に大きく振られる尻尾がリィンの機嫌の良さを示す。
 もぞもぞ動き始めたリィンがクロウのシャツの裾に顔から潜り込み、腹筋から胸と這い上がって首もとから顔を出した。どうやらリィンは、ぺったりと引っ付いていられるこの状態を好んでいるらしくポメラニアンになると高確率で服の裾から潜り込むのだ。そのためクロウは、ゆったりとした首周りの体格に対しても余裕のある部屋着を着るようにしている。
 そうなった経緯はクロウが体に沿った服を着ていた時。ポメラニアンになったリィンが小さい身体をいかして服の中に潜り込んだまでは良かったのだ。だがそれは大分無理矢理だったので首もとからは鼻先しか出せず、戻ることも出来なくなって身動きが取れずにきゅんきゅん鳴いたことがあったからだ。
 普段の姿からは想像もできない。あまりのアホ可愛さにクロウは天を仰ぎ、焦ったように鼻を鳴らすクロウの服の中に潜って出られなくなったリィンを殆ど衝動的に服の上から抱きしめた。
 小さな、それでも確かな鼓動と温もりにクロウは愛しさと安寧を感じ、ほっと息を吐く。もっと温もりを感じたくてクロウは相手の小ささをうっかり意識の外に置き去りにして、腕に力を込める。その腕の中でびくりと震え、ぐううと苦しげに喉を鳴らして動こうとするリィンに気づき、慌ててクロウはリィンを服の中から引っ張りだ出した。
「おわっ! わりぃ、平気か?」
……はふ、くぅん」
 引っ張りだされたリィンは大きく息を吐き出してから、きゃんきゃんと何かを訴える。クロウの目には何もかもが可愛らしく映るばかりでリィンの抗議であろう鳴き声すら、ひたすらに可愛いなとクロウの顔が緩む。
 抗議の鳴き声を微笑ましいと言わんばかりの顔で見ているクロウを、犬ながらの真ん丸の目をジト目に変えてリィンは見上げる。最初に失敗したのはリィンなのだが、それはそれとして恥ずかしさを誤魔化しつつ本気で苦しかったし潰れるかと思ったのだ、と訴えればこの顔。
 訴えの鳴き声を微笑ましく見られているリィンは抗議の犬パンチを繰り出そうと前足を振り上げ、はたと動きを止めた。改めて動き出したリィンはぷにっと肉球を勢いばかりが凄くてちっとも威力のない、おそらく爪を気にしたのだろう。無言で抗議の犬パンチを繰り出す姿は愛らしいばかりで、リィンの甚大な可愛さに心に計り知れない衝撃を受けたが。当然に頑強な肉体を持つクロウに何の痛痒も与えない。効果音がぺしぺし、ですらない、ぷにぷになので。
 クロウの内心は可愛い可愛い、に埋め尽くされているのだが、それを口に出せば元に戻ったリィンに口をきいてもらえなくなる可能性が高い。そのことからクロウは渾身の力で緩む顔を引き締め神妙な面持ちを作り、すべからくリィンの犬パンチならぬ肉球ぷにぷにを受けた、ということがあったのだ。
 ちなみに、リィンがポメラニアンになった時に毎回必ずしもクロウがゆとりのある服であるわけではない。つまり元に戻った時の羞恥に真っ赤になったリィンも可愛かった、と記しておく。残念なことに、ぎりぎりで三度目はなかった。
 
 そんなこともあったな、と思い出していたクロウは己の首筋に濡れて冷たい鼻先で触れるリィンの頭を優しく撫でる。そうした触れあいで数分が経過し「ぎゅぅ」と、どこからそんな鳴き声が。という声を出したリィンが心なしか、ふわふわの毛並みが萎んで見える。そんな、しおしおとした雰囲気で潜り込んでいた服から体を出しクロウの膝の上で丸まった。
「くくっ、なんだもう終わりか?」
 くつくつ喉を震わせながら笑うクロウは自身の膝の上で、まんじゅうのように丸まったリィンを見下ろしながら撫でる手を止めずに言った。
 毎回こうなのだ。ぺったりと甘えたあと我に返って恥ずかしがって丸まる。恥ずかしがっても甘えたい気持ちが勝るのか、リィンはクロウから離れはしない。
 どうもポメラニアンになると理性や建前といったものの枷が外れやすいのだ、と。これだ、と思ったらそれにまっしぐらと言うか。クロウの匂いも大好きで側にいると落ち着いて、側に行きたくて仕方がなくて。触れて欲しくて。待ってくれ、今のなし。あ、いや、嘘は言ってなっ、い。だんだんと尻すぼみになる言葉。顔を赤く染めて、しどろもどろに視線をさ迷わせながらリィンは言い訳をしていた。大部分が自爆だったが。つまり、リィンはクロウの匂い“も”大好きで普段から引っ付きたいし、まっしぐらだということで。
 抑えきれない、抑える気もないニヤニヤとした笑みを表情に浮かべるクロウを見て、リィンが可哀想なくらい真っ赤になっていたのが可愛かった、とはクロウの言である。
 クロウ以外に対すると、もっとリィンだなと分かる凜とした円らな目でもキリッとしているポメラニアンなのだが。クロウに対するときだけ、甘えたが増すのだ。
 何故リィンの態度がクロウに対してだけ違うのかというとクロウがリィンの違うことなき絶対の唯一だからだ。ポメガバースの性質を持つ者の、この世のどこかにいる運命の番というべき対。
 良かった、と何度だってクロウは考えてしまうのだ。リィンの運命の番が己で。そうでなければさて、どうしていたのか。例え番でなかったとしても、クロウはリィンを手にしていた自信がある。幾通りの道筋をたて、それらに対応した策。常道も悪道も使えるものは全て使って。最後はなんだかんだで臨機応変さがものを言うが。そういうのは得意だ。クロウは、ほの暗い目でうっそりと微笑む。どろどろと溢れそうになる薄暗く冷えていく感情に綺麗に蓋をして、リィンに触れる。こんな胸くそ悪いことを考える必要はない、とこれも何度も思いながら。リィンの番はクロウなので、クロウの番はリィンだ。
 丸まっていたリィンがもぞりと動いた。リィンはクロウを見上げ前足をクロウの胸に掛けて起き上がり身体を伸ばして、ちょんとリィンは己の鼻先をクロウの鼻先にくっつけた。これは合図。
「おっ、もう元に戻れんのか」
「くぅん」
 クロウの膝から飛び降りたリィンは、ちょこちょこと足を動かし散らばった己の服に向かい潜り込む。瞬きの間にクロウに背を向けた人間の姿のリィンが素早くコートだけを羽織った。
 ポメラニアンになるのは唐突だが、人間の姿に戻れるようになると己の意思で戻れるのは幸いだとクロウは心の底から思っている。リィンの肌を人目に晒すなんて言語道断だ。クロウと意味合いは違うが、リィンも同じように突然全裸を晒す事態にならないことに心の底から安堵している。
……素肌に教官服のコート」
「クロウ」
 リィン自身もこの格好は如何なものかと思いながら素早く散らばった服をまとめて抱え、首だけで後ろを振り返る。わざわざ言葉にするなと思いを込めて目元を赤くしながらジト目をクロウを向けた。それにへらりとした笑みが返ってきたのを見たリィンは溜め息を溢す。
 視線を受けたままのクロウはソファから立ち上がり、リィンに向かって足を進める。数歩の距離は瞬く間になくなり、クロウは人間の姿に戻ったリィンを背後から腕を回し抱きしめ、首筋に口づけをひとつ。耳に、もうひとつ。
 リィンはじわじわ目元の赤を頬をから首、身体に広げ。
「んっ、風呂……一緒に、どう、だ?」
 二人の間で渦巻いて上がり続ける熱。リィンの誘いをクロウが断るはずがない。
 小言は寝物語のあとで。