蘇芳
2020-02-22 02:22:02
5387文字
Public
 

猫日和


閃の小話 閃Ⅳ後。猫の日のクロリン。クロウは分校の生徒設定(特に活かされてない)。ほのぼののつもりです


「違うだろ!? これは……違うだろ!!」
 
 二月も終わりに近づき寒さが残ってはいるものの、雲ひとつない青空が広がる日差しが心地よい午後。
 分校での授業は終わり、それぞれが部活に己の研鑽に趣味に楽しいおしゃべりに美味しい食べ物を添えたりして過ごしている中、わなわなと震え目を見開き今にも頭を抱えそうなクロウの心からの叫びが青空の下に木霊した。
 それに答えたのは。

…………にゃ」
 
 紫がかった黒い毛並みが美しく、ほっそりと優美ながらも力強さも感じる手足に輝く宝石のような紫色の瞳を呆れたように細めるどこからどう見ても猫、そのものだった。
 誰かを彷彿とさせる猫だがその脳裏に浮かんだ通りの人物、リィン・シュバルツァーが猫の姿になった姿である。
 何故そんな事態になっているかは遡る事、数十分前。
 学院の終業後、リィンとクロウは中庭のベンチに座りとりとめない話を楽しんでいた。
 今日の出来事や生徒達の事を楽しそうに語るリィンは教師という職が本当に好きで、天職だったのだろう。聞き役に回っているクロウには良く分かる。隣り合って笑って話せる、何て事のない日常の一幕。そんな穏やかな時間を過ごしていた時だ。
 何の前兆もなくクロウの目の前で、ぽふんと軽々しい音を立ててリィンが猫になったのである。念の為にもう一度、猫に、なったのである。バサリとリィンの服がベンチの上に落ち、その服に埋もれた猫がきょとんとした表情でクロウを見上げた。
 ひゅるひゅると無言で固まってしまった二人、いや一人と一匹? の間をまだまだ冷たい風が吹き抜け、木々の枝が揺れて擦れる音がいやに響いて耳に届く。
 瞬きを何度しても目の前の現実は変わらない。
 リィンが猫、になった。

……………………はぁぁぁ!?」
「にゃあぁぁ! にっ!?……にゃ……っ」
 
 わたわたと服に埋もれて動けないでいる猫になったリィンを咄嗟に抱き上げて救出したクロウだったが、その猫の体の柔らかさと温かさに夢ではないことを改めて実感して息をのむ。
 クロウは猫の柔い体になったリィンに戦慄しながら、そっとベンチの空いている場所に下ろした。

「リ、リィンなんだよな!」
 
 こくこく頷く猫のリィン。

「だよな、目の前で変わったしな。体に変なとこ、あー、猫になった以外で苦しかったり痛いとことかないか? 大丈夫なのか?」
 
 リィンは手足を動かし目の前に持ってきた肉球をしげしげと眺め、己の意思で動く尻尾に妙な感じがするのかヒクヒクと鼻が動いている。ベンチの上をくるくると慎重に四つ足で回って歩いてみた後にリィンの首が左右に振られた。
 動きにを見るに問題はなさそうだが、そもそも人間が猫になるのが大問題なのでクロウの心配は尽きない。恐る恐る猫のリィンに手を伸ばして触れてみる。改めてその体が温かい事に安堵したが、触れる毛艶が悪くはないが良くもない事実にクロウはひっそりと眉をしかめた。
 執拗いくらいに、あちらこちらを確めるように触れているとクロウの手追いやろうしているのか、てしてし触れる肉球についクロウの口元が緩む。抗議するかのように猫になったリィンの口がもごもご動くが言葉は発せられない。

「やっぱ……人の言葉、話せねぇのか」
…………にゃあ」
 
 猫が人の言葉を話せないのは当然なのだが、あまりにもセリーヌが流暢に話すものだから偶にその事実を忘れる時がある。セリーヌを知っていると、うっかり普通の猫に普通に話かけてしまった事例がちらほら。
 リィンが猫になった直後は驚愕が先立ったが、不安や心配はあるものの実際のところリィンもクロウもそれほど焦ってはいない。
 人間が猫になるなんて普通ならあり得ないが、それをあり得させてしまえる魔女だなんだとが存在していると知っているリィンとクロウからすると、こんな事もあり得るかもなと。案外あっさりと解決するかもしれないし。焦るのは魔女の長であるローゼリアに連絡をしてからでも遅くはないのだ。
 そしてそれは正しかった。

『また、おもしろ……大変な事になっておるの』
「今、おもしろいって言ったか?」
「にゃあ!」
『おっと、気のせいじゃ。まぁ、さっくり結論から言おうかの。シュバルツァーは今日が終わればちゃんと人間の姿に戻る』
 
 はっきりとしたローゼリアの断言にリィンとクロウの体から強張っていた力が抜ける。焦りはしなくても不安はあったのだ。一生このままだったらと。それはあっさりローゼリアに否定された。ならば、これ以上の心配は不要だろう。
 にゃふと可愛らしい安堵の息がリィンから聞こえてきて思わず頭を撫でてしまったクロウだったが、リィンが気持ち良さそうに撫でられているのが素直に可愛い。ピンと立っていた猫耳の根元から撫で、うりうりと首を擽ればごろごろと喉が鳴り甘えるようにクロウの手にすり寄ってきた。好きなようにさせていると、はっとしたリィンが離れて行ってしまったのを残念に思う。
 恥ずかしそうに俯いてクロウの様子をちらちらと気にして伺うリィンの仕草がまた、可愛らしくクロウの目に映る。
 もしリィンが人間に戻れなかったら戻れなかったで側に居て、一生面倒を見るつもりだったクロウは別の意味でも体から力を抜いた。

「あっさり元に戻れるのはいーんだけどよ。こうなった原因ってなんなんだ? 戻れるって断言するからには原因が分かってんだよな?」
『あぁ、それは──』

 ローゼリア曰く原因は霊脈だと。
 今日は猫の日らしいの。それが世間の大勢の人間に広く知られている為に起こった現象じゃ。大勢の人間の今日は猫の日という強い意識が霊脈に流れて霊脈と繋がった事のあるシュバルツァーに影響を及ぼしたようじゃの。繋がりというものはそうそう無くならないからやっかいじゃ。しかし、滅多に起こる現象ではないから安心するといい。む? まぁ、稀には起こるかもの。
 猫の日だから猫。分かりやすくて何よりだ。

「にゃにゃ」 
 
 真面目に話を聞いていたリィンは原因がはっきりしている事に安心すればいいのか、稀にでも似たような事が起こるかもしれない事態を不安がればいいのか。猫に似つかわしくない盛大な溜め息を吐き出した。
 いや、分からない先を不安に思っても仕方がないと今回の猫化はちゃんと元に戻るから良かったとクロウを見上げるとそこには。

「なん……ね、……しっ」
 
 拳を握りしめ震えながら何事かを呟くクロウがいた。クロウにも異変が、と慌てるリィンを余所にクロウの呟きはだんだんと大きくなる。
 座っていたベンチから勢いよく立ち上がり憤懣たるやと側にあった木の前まで歩き拳を幹に打ち付けた。

「猫の日の影響なら猫耳に尻尾を生やしたリィンだろ!」
……にゃ」
……お主』
 
 そして冒頭である。

「こーいう場合、猫耳と尻尾が生えるのが鉄板じゃん! 何でまるっと猫になった!!」
 
 掛け値なし心の底からのクロウの本音、だった。
 何を言っているのか、何処でどう鉄板なのか問い詰めたいリィンだったが今は話せないのを至極残念に思う。ローゼリアなんかは処置なしじゃな、と呆れ気味だ。

「いいじゃねぇか、猫耳に尻尾で! 気が利かねぇ霊脈だな……
 
 気が利かない霊脈とは? 逆に気が利く霊脈とはどのようなものなのか聞いてみたい気もするが、碌な答えが返ってこないのは今のクロウを見れば考えなくても分かりきった事柄だ。
 リィンの胡乱な視線を浴びてもどこ吹く風とばかりに、リィンの猫耳をどう触って尻尾は細心の注意を払って優しく撫で上げて。やっぱり尻尾の付け根は弱いのか? 隅々まで余すところなく可愛がりたい。マタタビは効くんだろうか。怪しさを帯びていくクロウの言葉で、どんどん据わっていくリィンの目にクロウは気づかない。
 寧ろ側にいるクロウより通信中でアークスの向こうにいるローゼリアの方が敏感にリィンの不穏な雰囲気を察知して肩を盛大に跳ねさせた。

『きょ、今日が終わればサクッと元の人の姿に戻るから何の問題もないの! じゃから今日一日は猫の姿を楽しめばよいぞ。……そういう事で、さらばじゃ!!』
「あっ! ちょっ! 猫だと何もできっ……んんっ、不便だろ? 猫の日の影響なら魔術で緩和して耳と尻尾が残るくらいに……っ!!」
 
 クロウにとってはだが無情にも、ぶつりと切れた通信を再度繋げようとするとベンチの方から凄まじい怒気が発せられたのを感じたクロウは、ゆっくりと猫のリィンに視線を向ける。
 クロウが誤魔化すようにへらりと笑いながらリィンの様子を伺うと優美な尻尾を揺らしながら、その四肢に力を溜めているのが見てとれた。
 ちょっと欲望が抑えきれなくて、なんて言い訳になるはずのない言葉は口に出さないのが賢明か。
 ここは甘んじて一発もらっておこう。扱ったことのない猫の体での一発は威力もないだろうし、猫パンチは寧ろご褒美。そんなクロウの打算まみれの考えは、蜂蜜に砂糖をこれでもかと混ぜた物をミルクチョコレートにかけた物より甘い。本当に甘い。
 するりと流れるように動いたリィンは獲物を定め音もなくクロウに肉薄する。その動きには淀みも躊躇も一切ない。シャキンと立派な爪が猫なリィンの手から伸び、太刀のように鋭く輝く爪が振りかぶられた。素早い身のこなしは正しく八葉が技、疾風。

「にゃ!」
「爪……!? だとっ! すみませんでしたァ!」
 
 クロウの叫びが再び木霊した。
 とさりと地面に仰向けに転がったクロウの真横に、重さを感じさせない軽やかさでリィンが着地した。
 猫になってもリィンの身のこなしは流石の一言だったが、クロウにダメージを与えるには至らなかったようだ。自ら地面に転がったクロウを見て次は確実に仕留める、と爪を出し入れするリィンは若干猫っぽくなっている。いや、今は猫なのだが。

「ククッ、いやぁ~、わりィわりィ。大丈夫だって分かったら本音がな!」
「にっ」
 
 本音なのか。というリィンの言葉が聞こえてきそうだ。猫の姿でもリィンのジト目は健在だった。
 ぷりぷり怒る、といより恥ずかしそうに尻尾をブンブン振っていたリィンだったが次第にぺたりと耳が下を向いていき、尻尾は大半が地面に置かれ先だけが微かに動く。ふにゃ、と重い息を吐いたリィンは申し訳なさそうに俯いた。
 そんな様子のリィンをクロウは仰向けに転がったままの己の胸の上に引っ張りあげ、目をまんまるにして驚くリィンを余所に抱きすくめる。
 今日一日は猫でいるのが確定したリィンは面倒を掛けると落ち込んでいるのだろう。まったく面倒でも迷惑でもなんでもないのに。

……たくっ、お前が悪いわけじゃねぇだろーが。今回のは事故みたいなもんだろ? もっと被害者ぶって慰謝料をふんだくるくらいの気持ちでいろっての」
「にゃあ」
 
 霊脈に対して慰謝料をどう取り立てるかなんて考えもつかないのだが今回に限れば案外、霊脈が気を回したのかもしれない。一度繋がったものが易々と無くならないのなら、そういう事も可能性としてはあると考えておくのが無難かとクロウは声に出さずに思う。
 今回の事は、ただの名残の余波ならいいのだが楽観はよろしくない。最悪とは人の思考を簡単に凌駕するものだ。霊脈とリィンの関係は、これからも注視しておかなければいけないだろう。ことリィンに関しては心配しすぎるくらいが丁度いい。
 今日だってクロウがリィンを中庭まで引っ張り出して休憩がてら放課後の予定を先んじて押さえたのだ。時間があればあるだけ他の教官の手伝いだ生徒達の相談事だと、困っている人を見つけては声を掛けて解決を図る。
 もはやリィンのライフワークと言っても過言ではないが、端から見れば十分な休息が取れているように見えないのだ。本人からすれば物申したい事があるのかもしれないが、この件に関して特にリィンは第三者の意見の方が尊重される。休めという事だ。
 口で言っても、いつの間にか動いて働いているリィンにいっその事どうにか物理的に働けなくしてみようか、なんて過激な意見が出るくらいに周りはやきもきしている。具体的な方針はないのだが。
 それで今、だ。猫になったリィンに出来る仕事はないだろう。あるとすればクロウに世話を焼かれて愛でられる事くらいだ。クロウは猫になったリィンの世話を、リィンの生徒だろうと誰だろうと譲るつもりは欠片もない。
 トワに連絡を入れるから安心しろ、と言ってクロウは優しい眼差しを向けながらリィンを撫でる。クロウの手から逃げる事なく撫でられ続けているリィンは気持ち良さそうに目を細め、耳がふるふると動く。
 やはり悪くなはいが良くもない毛艶に、リィン本人が気づいていないかもしれない疲労が見てとれる。
 クロウの胸の上に乗ったままのリィンはクロウの大きな手に撫でられる心地よさに、とくとく一定のリズムで脈打つ心音を体全体で感じられる安心感に、うとうとし始めそれに抗おうとしているが寝落ちるのも時間の問題だろう。
 つまりはそういう事だ。

「のんびりしとけよ」