同居人というラベルの上に恋人と書かれたそれをぺたりと貼り付けて早三ヶ月。その自分から恋人らしい振る舞いができていなかった僕は少々と言うか大分焦りを生じさせてしまい、度数の高い癖にやたら飲みやすい酒をがっつりと煽ってアルハイゼンの前に現れた。意気揚々と彼に抱き着いて胸の形を彼の胸板の形に合わせて撓めながら君がしてほしいことならなんでもしてあげるよ、なんて言い放ってみたわけだ。朝まで討論とか言われたらどうしようなんてちょっとだけ案じながら。
とはいえ、酒で上手く動いていない頭でもここまで言ったらセックス待ったなしだろうなとは思ってはいて、大分どきどきとしていたわけで。けれど、緊張と期待に赤らむ頬はアルコールによるものと混ざって彼からは分からなくなっていたはずだった。
歳が若い方も二十の半ばに近くて、恋仲で、同じ家に暮らしている間柄だ。三ヶ月あれば性行為に至るのは当然で、まだ片手で余る回数とはいえ毎度じっくりと時間を掛けられて不慣れな身体をゆっくりと溶かされて――いやそれは今回の本題じゃなかった。とにかく、ある程度のお願いであれば聞いてやろうと思っていたんだ。
僕に抱き着かれたアルハイゼンは微かに目を見張って、何かを紡ごうとした唇を一度しっかりと閉じてしまった。彼はたぶん、希少な機会を有効活用しようとしたのだと思う。ちょっとばかし警戒してしまうくらいに時間をかけて考え込んだあと、アルハイゼンは僕のアルコールでぽかぽかに温まった額に口づけて君には難題かもしれないが、なんて前置きをしつつお願いを申し出てきた。
君が素面の時に甘えてきてほしい。なんてかわいいお願いなんだろう! 胸の甘い疼きと共にぎゅうぎゅうアルハイゼンを抱き締めてそれくらいなんてことないさ! なんて言い放つ。それはよかったと満足そうに彼が告げて、カーヴェの後ろ頭を擽るように撫でてきて、促されるように顔を上げて。
――以上。ここまでが一昨日の晩の僕のあらすじだ。
馬鹿馬鹿馬鹿、大馬鹿にもほどがある。そもそもそういう事ができないから僕はしっかり酔っぱらって挑んだんだぞ、と過去の自分に言い聞かせてももはや取り返しが付かない。幸いというか、翌日何も仕掛けられなかった僕を見てまた記憶を飛ばしたな、とばかりに溜め息を吐かれたので、アルハイゼンがすでに諦めている可能性はそこそこあるのだけれど。
だから、そのまま何事もなかったように振る舞えば、大体なかった事にできるはずではある。でも、じっくり考え込んで、最後に僕を射貫いた彼の視線が正直忘れられなかった。僕を試すわけでもなく、ただそうしてほしいと願っているだろう眼差しを思い出してしまうとそのまま有耶無耶にできるはずがない。
長らく彼の先輩をやっていたせいだ、と今までの関係にやや呪いめいたものを感じてしまう。彼に甘えられると本当に僕は弱いんだ。かわいいかわいい後輩の、あんなにも愛する人に向けるにしては素朴なお願いを訊き遂げられない先輩がこの世にいてなるものか。
そう思うのに、結局僕は何もできないまま、そこから二日三日と時間を浪費してしまった。恋人に甘えるだけのことじゃないか、と言い聞かせてもなかなか体は動いてくれそうにない。そんな簡単な響きがどうして大言壮語になってしまうのかと、一向に達成できないノルマを抱えたまま買出してみたら異様に人が多くてびっくりしてしまった。そういえば今日は一般的には休みの日だったっけ。
工事で現場監督までする時期を除けば、僕の仕事はカレンダーの曜日なんてほとんど関係がない。むしろ土日にしか時間を取れないクライアントに合わせて打ち合わせをする関係で、むしろ一般的な休みよりも忙しいくらいだ。
だから、最近はアルハイゼンが家にいるかどうかで区別を付けているのだけれど、彼は朝から旅人とどこぞの秘境に行くと言って出かけていった。彼に合わせて起き出して朝食を摂って、仕事よりも少し早い時間に家を出る彼を送り出したせいで家ではメラックと二人きり。そうすればどうしたって平日の感覚になってしまうのもおかしな話ではないと思う。
せっかくだしと外で軽く昼食を取ってから、家に帰ろうと思った足を僕は急遽方向転換した。そのままふらふらとバザールの方まで足を伸ばせば、ちらほらと恋人同士らしき人々が仲睦まじく店を眺めているのが目に付いた。
この世の恋人という奴はこんなにも分かりやすいものなんだ。ははあ、と内心で感嘆の息を吐きながら、思わず僕らの振る舞いを思い返してしまう。彼と買い出しに出ることはあれど、付き合う前はもちろんその後もこんなに分かりやすい歩き方をしたことはないはずだ。
不審者にならないように注意しながら、僕は彼らの姿を観察することにする。アルハイゼンが求めているものは目の前にあるものと同じもののはずだからだ。たぶん。
……本当に? あのアルハイゼンだぞ? なんて疑問を呈してくる自分の一部をぎゅうぎゅうと縛り上げて通りに転がして、なんだかんだで彼も男の子だったじゃないかと言い聞かす。時々だけど愛していると囁いて、僕を抱き締めたがって。気が進まない時には唇に、特に機嫌が良い時には鼻先に口づけて出かけていったりもする。
今朝に贈られた鼻先への感触を思い出してしまって、僕はそこを軽く擦ってごまかした。きっと前々から気になっていた秘境だったんだろう。帰ってきたら彼の見解を話してくれるかもしれない。そういう時の彼は普段の嫌味とはまた違う意味で饒舌で、ほんの少し温度が高い口調をしているんだ。
眼差しもどこか熱が籠もっていて、外では僕が泥酔でもしない限り適切な距離を保つ僕らもちょっとばかし近くなる。そう、目の前を歩く二人組みたいに。
恋人しか見えていませんとでも言いたげに顎を上げて背の高い男性を見上げて、それから彼女はその腕にするりと自身の腕を巻きつけた。恋人は少しびっくりしたのか彼女を見下ろして、それからゆるりと目尻を下げる。その優しい表情を見て、彼女も表情を綻ばせたようだった。
これだ。これしかないだろう。アルハイゼンが喋り尽くした辺りで腕を捕らえて、擦り寄ってあの子みたいに笑ってやればいい。そんなことばっかり考えていたから、彼の話は半分くらいしか頭に入っていなかった。
本当にごめん。いやでも君も思考をまとめるのを優先しただけで、気づいてはいたんだろう。それくらい分からない僕じゃないぞ。
「タイミングが合えば次回は君もきてくれないか。君からの見解をもらいたい」
「うん、分かった。旅人と調整しないとな」
半分も分かっていないのに安請け合いしていいのか僕だってちょっと心配にはなっている。でもまあ、アルハイゼンが早くも次の機会の事を考え始めたみたいだったから良しとしよう。彼にとって相当な当たりで、僕の知識が必要だと考えているのならきっと興味深い場所に違いない。
「――アルハイゼン」
いつ頃が良いだろう、と口にしようとした彼の言葉を止めるように名前を呼べば、不意を打てたようで、きょとんとしたと表現するのが相応しそうな目が僕に向けられた。凄くかわいらしい視線に、すでに僕の表情筋が怪しい。かわいい。本当にかわいい、僕だけの。
そんなことを思っていたのがよくなかったのかもしれない。元々は腕に擦り寄るだけのつもりが、気がつけば精一杯手を伸ばして彼の背に腕を回してしまっていた。横からだと不足だと思ったので、座っているカウチに膝立ちして斜め前から体重を預ける形で抱き着いている。
押し倒すつもりは元より全くなかったのだけど、少しも体の軸が揺らがなくてびっくりした。多分全体重をかけたとしても、この男にその気がなければ僕が彼を押し倒すなんてことは夢のまた夢なんだろう。
酔っ払っていた時と同じような姿勢になってしまった事を少しばかり後悔しながら、僕は何とかアルハイゼンの首筋に擦り寄った。これでちょっとは挽回できたに違いない。のに、僕の頭上からはこれといった反応はなかった。
「……アルハイゼン?」
とうとう心配になってしまって顔を上げると、一瞬だけ彼と視線が合った。合わさった視線がすぐに途切れてしまったのは、ちょうど彼が目を伏せる瞬間だったかららしい。
こてん、とアルハイゼンが俯いたかと思うと、僕の額に重さがかかる。そのまますり、と頬ずりされて、途端に胸が一杯になってしまった。彼のお得意な言葉でも、恋愛対象に愛情を分かりやすく示す唇でもない。
まるで、親愛を示すような。庇護者に愛情を求める子供のような仕草だったんだ。少なくとも僕はそう思った。
僕達のような腐れ縁に至るまでの長い長い時間の蓄積がなければ、こんな触れ合いはできないんじゃなかろうか。それが大層嬉しくて僕は彼の名を呼びながら、片手を背中からアルハイゼンの僕に触れていない方の頬に移した。
それから僕の方から頬ずりをしてやって彼の太腿に跨って真正面に回ってから、肩の上に腕を通して彼の頭を抱き抱える形になる。アルハイゼンが僕に抵抗しないのを良いことに、頭を撫でてやりながら、頬や目尻、鼻筋に唇、耳から顎に指を滑らせた。
その形の一つ一つが今のこの男をアルハイゼン足らしめていて、ようやくその精神を世界に繋ぎとめている。その全部を覚えておかないといけない気がして、僕は何度も確認するように指を滑らせた。
瞼の上に指先を置くと、一つの警戒も抵抗もないままにアルハイゼンが瞼を落とす。恋人を自身の体の下に閉じ込めている時ですら完璧に失われないしぶとい理性を灯す瞳が見えなくなって、名残り惜しい気持ちにもなりながら指先で眼球の丸さを確かめた。涙点のある方から目尻へと乱読家の彼が大事にしているに違いない目に負担を掛けないように指を滑らせる。
目尻辺りに辿り着いた瞬間に、アルハイゼンが指に擦り寄るような動きをしたので、危ないよと注意してやった。その僕の声の甘ったるさときたら! アルハイゼンの事を目に入れても痛くない後輩だと思い込んでいたときだって、僕はこんな声を出せていなかったんじゃないだろうか。というほどの。
その声をきっかけにしてアルハイゼンが背筋を伸ばしてきたので、応じるように背中を丸めて僕は自分と彼の額を合わせて視線を交える。柔らかな眼差しに甘さを感じるのは、僕のそれが溶かしきれないくらいの砂糖を放り込んだものだからなんじゃないかと思う。
アルハイゼンが取り込み切れないほどのそれが、まるで彼のものになったかのように僕に返ってきている。その直感の中にある数パーセントでも本物であるならば、それだけで僕はしあわせだった。
たっぷりと時間をかけて、今の彼を僕の記憶に教え込んでからはたと違和感に気がついた。僕って元々何のためにこんなことを始めたんだっけ?
「……あの、さ、アルハイゼン」
思わずおずおずと、今は僕の方がいくらか視線が高いはずなのに彼の目を下から窺うように覗き込んでしまった。急に不安そうに響いた声を気にしたようではあったけど、ん、と一音だけで尋ねてくるアルハイゼンの声はまだ少し緩い。
「これ、逆じゃないか……?」
これじゃあ甘えるじゃなくて甘やかしじゃないか、と続ければ、アルハイゼンは呼吸だけで笑って見せた。
「そうだな」
「うぅ……」
ひょっとして甘える才能は僕にはないんじゃないだろうか。子供時代まで思い返しても、そういうことをした記憶がほとんどない。きっと、もう自分でも思い出せないくらいの頃にはたくさん両親に甘え腐っていたはずなのだけど。それでも、残念ながら思い出せないものはないのと同じだ。
「ごめん……甘えなきゃいけないのに」
好きな人のこんなかわいいだけの願いにも上手く応えられないなんて。近いうちに愛想を尽かされても仕方がないとしおしおとなるうちに、ぺたんとアルハイゼンの上に座り込んでしまった。重たいかな。早く離れてやらないと。
「いいよ。今の俺は君に甘やかされたい」
上げようとした腰に腕が回って、僕はそのままアルハイゼンに引き寄せられた。肩口に彼の額が擦りつけられて、押しつけてくださいとばかりに首筋が晒されている。乞われるままにそこに頬をくっつけると、アルハイゼンの腕の力が少しだけ強まった気がした。
「しかたないな」
それならきっと上手くできる。なんたって僕は君の先輩だからな、なんて。ほんの少し取り繕った口調はきっとアルハイゼンには見透かされてしまっただろう。
いたずらに耳を指先で撫でてやれば、くすぐったそうな彼の呼気が僕の耳元を擽った。触るならもっとしっかりした方が良いとでも言いたげに、肩を竦めながらアルハイゼンの耳が僕の指に押し付けられる。
かわいい彼の愛くるしいおねだりに応じながら、なんて甘えるのが上手な生き物なんだと感心してしまった。彼には両親の記憶が全くないけれど、補って余りあるほどの愛情が注がれていたのが手に取るように分かる。
「君は甘えるのが上手だな」
どこに触れてほしいのか、その時はどんな触れ方がいいのかが不思議と彼の仕草から伝わってくる。彼にこんな才能があったなんて、全然、全く思いもしなかった。意外過ぎる。
でも、凄くいい。触れれば触れるほど、嬉しくて仕方がなくなってしまう。
「なにせ、甘やかすのが得意な先輩と長くいたからな」
ゆっくりと何かを思い返すように長めの瞬きをしながら、アルハイゼンが微かに口角を上げた。その瞬間、彼と出会ってすぐの頃の事を思い出す。両親がいなくて、育ててくれた祖母にもこんな小さなと表現するしかない歳で先立たれてしまった男の子。その事実を知ったのは、彼に出会って初めての長期休暇の頃だった。
僕も家に帰る必要もなかったこともあり、寮に残って人気のない部屋でずっと二人でいて、彼の中にあるだろう寂しさに寄り添って、それで。それはもう、目に入れても痛くないとでも言いたげに。目も当てられないくらい僕は彼を甘やかした。
今思えばそれが嫌であれば辛辣に抵抗の意志を表明してきていたはずなので、彼だってまんざらではなかったのだろう。それが、彼のおばあ様という欠落を埋めてあげられたかというと、きっとそんなことはなかったのだろうけど。
そういうこともあったな。と流すには少々濃すぎる思い出ではなかろうか。過去の自分の主張もやりたいことも分かるけど、とはいえちょっとばかし母性が暴走しすぎていやしないか?
「……僕のせいか?」
「俺の先輩と言えば君で、君の後輩と言えば俺だっただろう。違いますか? カーヴェ先輩」
わざと声を少し高くして更に学生時代を思い起こさせようとするものだから、思わず視線を反らしてしまう。なるほど、全部僕のせいだ。
僕が甘えるのが下手くそなのはともかくとして、僕が異様に甘やかすのが上手いのも、彼が甘えるのが上手なのも、全部全部僕のせい。確かな経験が見事に今を作り上げている。
「カーヴェ」
その責任を取るべきだ、とでも言いたげにアルハイゼンが僕の名前を呼んでいる。その声にすぐにでも応えたくなってしまうのは彼が僕の後輩で、好きな人で、幸いにも恋人だからなんだろう。
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