ぐっと涙袋の辺りを親指で拭われて、ばっちり施していたメイクが崩れた。その瞬間、薄い皮膚に無体を働いた男の眉が派手に形を崩して、自分は不機嫌だと言いたげに眉間に影が作られる。きっとレイシオにはアベンチュリンが腐心して隠した隈がしっかり見えてしまっているのだろう。
「だから夢境がよかったんだけどなあ……」
素直な後悔を漏らせばレイシオの視線が更に強まって、アベンチュリンは思わず視線を外す。
まとまった休暇を貰っているのはアベンチュリンだけで、レイシオはそうではなかったらしい。多分カンパニーとしてはしばらく用がないはずだけれど、あちこちの組織に所属している彼からすればあまり関係がないという方がより正確だろうか。
だから、レイシオは遊ぶためにこの星に来たわけではないらしい。アベンチュリンの様子を見に来るだけのためにわざわざ部屋を取って眠りに就くのは手間である、と彼は淡々と主張していた。人ひとり訪ねるだけのために星間の移動をする方が、ずっと手間だとアベンチュリンは思うのだけれど。
「まともに眠らず夢境を遊び歩いていたとしてもここまでにはならない」
溜め息を一つ吐いてから、レイシオがわずかに視線に込める感情を変えた。親切な医者が患者に向けるそれにアベンチュリンは観念してどこまで話そうか考えて、一つ話せば全て見通されるだろうと再び諦める。
「……悪夢を見るんだ」
「虚無の侵食の影響か」
基石で防ぎ切れていないではないかと報告書の不正確さに文句をつけるレイシオに、それは些事であるとアベンチュリンは告げる。
「不可逆的なものではないと混沌医師が診断してくれている。適切な治療と時間経過で解決する一時的なもので、実際に良くなって来てるよ。だから、君が案じるほどのものじゃない」
「それで眠れない分を夢境でごまかしているのか」
「まあ、そういうこと」
肩を竦めて同意すれば、レイシオが棘だらけの悪態を吐いた。夢境の夢はあまりに鮮明であるせいか、心身の休息としてはさほど適切な環境ではないとの研究結果があるらしい。それでも起きっぱなしのときのように精神や脳にダメージを受けないのも本当だ。故に、悪夢を見る患者にはちょうどいい場所ではあるのだけれど、どうやらレイシオ先生には納得がいかないらしい。
「三時間ならいてやれる。君は今すぐ昼寝をしろ」
「教授は僕が怖い夢見てるところが見たいんだ?」
「悪夢を見ているようなら起こしてやる」
人の目許に触れていた指が今度はアベンチュリンの腕をむんずと掴んで引き上げてくる。この調子では多少抵抗しても、終いには抱き上げられて本当のベッドに放り込まれてしまうだろう。
引き下がる様子がない彼に付き合うつもりで席を立つと、アベンチュリンは隣室に備え付けてある本物のベッドに向かうことにした。長期滞在者向けのベッドは夢に特化した施設であるからか、おそろしく金がかかっているらしい。今のところ、その機能をアベンチュリンはうまく堪能できていないのだけれど。
そのままベッドに上がろうとしたら、備え付けのパジャマに着替えるよう指示されて本当に寝かしつけるつもりなのだと今更ながらに実感する。悪夢を見るのは本当なので気が進まなくはあったのだけれど、彼の様子を見る限り回避できるとも思えなかった。
シャツやズボンを脱いで小さな寝室にある椅子にかけてから、代わりに肌触りのいいパジャマを着込んでアベンチュリンはベッドに上がる。それからころりとマットレスに背をつけると、レイシオがベッドに腰掛けた。
「君に損なわれている部分などどこにもない。僕はここにいるし、君を知覚できている」
「……うん」
投げ出した手を握られて、先程までの不機嫌など嘘のような優しい声音が落ちてくる。じわりと伝わってくる体温に背筋が緩んで、ようやくアベンチュリンは自分が緊張しているのに気がついた。
当然だ。あれだけ悪夢を見て、専門医の治療が必要なくらいには実害も出てしまっているのだから。
筋肉量が多いせいか、彼の手はぽかぽかと温かい。パンを作るのがうまそうだ、なんて場違いな感想を持ちながらアベンチュリンはのそりとベットから起き上がる。
「どうした?」
寝ろと叱られるかと思ったが、彼の声は優しいままだった。どうやら彼は患者の障害を取り除くことを第一に考えているらしい。
「ドクター、もうちょっとわがまま言ってもいい?」
「内容によるな」
「ベッドに上がってもらえるかな。嫌だなって思ったらすぐに教えて」
口で内容を説明しなかったのは、一瞬でもその状況を体験できれば僥倖と思っていたからだ。レイシオを手招きしてベッドに上がってもらい、積み上げた枕を背もたれにして座らせた。
この辺りで何をされるかくらい、彼も分かっていたとは思う。それでも彼はアベンチュリンの望みを受け入れることにしたらしく、そっと腕を上げて他者を受け入れる姿勢を示してくれた。
そのかいなに誘われるように、アベンチュリンはレイシオの体に寄りかかった。人ひとり分の存在と温かさに息を吐いて、アベンチュリンはもぞもぞと居心地の良い場所を探す。
「重たくはない?」
「大丈夫だ」
全体重の半分はかかっているはずなのだけれど、レイシオはアベンチュリンがかける重さを気にしていないらしい。自分の身長に全く思うところがないと言うと嘘になるが、もちろん利点となることもある。今がその時の一つに数えられるだろうと思いながら、上げていた頭をアベンチュリンは下げた。
そうすればふにゃりと迎え入れられて、アベンチュリンは目を瞬かせる。どうやら、鍛えられた胸筋には頬を埋めることができるらしい。筋肉が柔らかいものというのはアベンチュリンだってトレーニングをしているから分かってはいたが、この分量の力が入っていない筋肉を実際に体感してみるとちょっと驚いてしまう。
「なんだか悪いことをしてるみたいだ」
「……これ以上言うなら止める」
意味が理解できていなかったらしくレイシオが不思議そうな視線を向けて来たので、するりと胸元に擦り寄って見せる。その瞬間、自身の胸が性的に消費されかかっていると気付いたようで、にわかに表情が曇って苦々しくなった。まあ、自分の善意をこんなふうに使われてしまって、良い顔ができる人の方が少ないだろう。
「ごめん、もう言わないから」
ね、と許しを乞えばレイシオはこれ以上の追求は避けた方がいいと考えたらしかった。返事はない代わりに険しい視線が緩んで、アベンチュリンはそっと安堵の息を漏らす。
顔の角度を傾けて頬をつけていた場所に耳をつけて少しだけ目を伏せれば、奥の方からとくとくと鼓動が聞こえてくる。一つの命を示す音にずっと体のどこかにあった警戒が緩むのが分かって、アベンチュリンはその音に集中しようとした。そうするうちに自身の耳を圧迫しているからかアベンチュリン自身の心臓の音も入り混じり、自分の存在を強く意識する。
今回も死ななかった。アベンチュリンは生きている。そうして、今、ここに存在していた。彼がここにいるように。
とろりと溶けそうになる意識を好きにさせながら、アベンチュリンは背中には回らないままシーツに投げだされたレイシオの温かな手を取った。指の股に自身の指を通せば、彼の指の一つ一つが静かに応えてくれる。
その感触に満たされながら、アベンチュリンはようやく完全に瞼を落とした。そうすれば真っ暗な何もない空間が広がっているように思うのに、今は不思議と何も思い出さない。
アベンチュリンを留め置いていない自由な方の手を使って、レイシオがアベンチュリンの背中に薄手のブランケットを被せたのが分かる。それからおやすみと底なしに優しい声で囁かれ、アベンチュリンもゆるゆると挨拶を返したはずだった。
このぬくもりがあれば、たとえ悪夢を見たとしてもきっと寝起きに身を震わせる事にはならないだろう。
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