シノハラ
2024-10-20 21:52:11
2808文字
Public アルカヴェ♀
 

ロマンスの欠落

幸せに暮らしてるアルカヴェ♀

 読んでいる本への意見を求められ、どれどれと覗き込んだら肩がアルハイゼンの二の腕にめり込んだ。もちろん軽くではあるが、距離感を盛大に見誤っている。もちろんアルハイゼンではなく、カーヴェの方が。
 思わずアルハイゼンを見上げてしまえば、彼も珍しくきょとんとした目をカーヴェに向けてきていた。疲れてるんじゃないかと嫌味の籠もらない声で指摘されて、そうだろうかと首を傾げる。たしかに最近はちょっとばかし忙しくはあったのだけれど。
 疲れが空間把握能力に影響を及ぼすのは、自身の仕事内容を思うとなかなかに致命的だ。できることなら、他の要素に答えを見出したい。そう思いながら、カーヴェは隣でこちらの出方を窺っているらしいアルハイゼンを見上げてみる。
 思えば、かつての彼はカーヴェにとって遺憾ながら救世主であると同時に脅威でもあったのだ。前者はともかく後者は自分達がそれより過去に関係を破綻させたせいではなく、単純に家族でもない異性と暮らすことに対する抵抗感と警戒によるものである。父親や兄弟とカーヴェが暮らしていたらもう少しましだったのかもしれないが、その可能性を摘んでしまったのは他ならぬカーヴェ自身だった。
 色んなものを手放して打ちひしがれながらもぴりぴりと警戒を示す同居人を、彼がどんな気持ちで見ていたのかは分からない。ただ、彼は時折その傷を突きながらも、カーヴェに家での態度を改めるように求めることはなかった。いやもちろん、表面的な暮らしぶりやカーヴェの判断には大分ずけずけと踏み込んで来ていたが、彼なりに明確な線引きは行われていたのだと今であれば分かる。
 アルハイゼンはただカーヴェの隣で暮らしていた。朝早くに起きて運動し、朝食を食べ、嫌々ながらに出勤し、日中はほどほどに仕事をして、定時と共に職場にほど近い家に帰宅し、夕食を摂り、本を読み、風呂に入ってから就寝には早い時間にベッドに潜り込む。
 たぶん、カーヴェがくる前も同じサイクルを淡々とこなしていたのだろう。その生活をほとんど崩さないまま、彼はその日々の中にカーヴェを迎え入れた。時間に合わせた挨拶をして、カーヴェが用意した食事を食べ、毒にも薬にもならない話をする。
 そういう日々がカーヴェの警戒を解いたのだと思う。朝にお互いの予定を話し、帰宅すれば今日あったことを守秘義務の問題にならないラインで語り合った。二人の間ですり合わせをして常備品を増やして、学生の頃でさえ知らなかったお互いの好みを知っていく。そうして、自分が知らなかったものも、彼との交流の中で好きになる。
 たとえば朝の常連になっているコーヒー豆はカーヴェが一人のままでは選ばない銘柄だったに違いなかった。カーヴェが味に妥協した訳ではなく、もっと先に自分の好みに当たってしまってこの豆まで辿り着けなかっただろう、という話である。
 二人でああだこうだと言いながら試した豆の中には他にもカーヴェが好むものがあったけれど、二人共が気に入ったのはあれだけだったのだ。その結果をカーヴェは妥協とは思ってはいないし、アルハイゼンもそう思ってくれていれば嬉しいと思う。
 そういう日々の積み重ねの中で、自分が彼に影響を受けたのだろうと思うところはもちろんある。彼はあの頃とこれっぽっちも変わらない、と言いたかったが、減らず口は随分と減ったように思う。もちろん、今の暮らしの方がカーヴェだってありがたい。
 気疲れする言い合いもなく、談笑を交わしながら二人で好きなものを増やして暮らしていく。穏やかで、けれどまったく起伏がないわけでもない。そんな日々をカーヴェとアルハイゼンが送り始めて、もうどれだけ経っただろう。
「最近の僕ら、まるで付き合ってるみたいな暮らしぶりじゃないか?」
 ふにゃりとなった口元をそのままに、カーヴェはアルハイゼンに指摘した。不躾な意見を不服に思い、久々に当てつけのごとく今月分の家賃を催促されてしまうだろうか。まあ、そうだったとしても甘んじて受けようと思う。そろそろ払わないといけない時期なのも本当なのだし。
 ゆっくり一呼吸分の沈黙があった。その静寂が、カーヴェのためにあったのか、それともアルハイゼンのためだったのかは分からない。
……君はそれでいいのか?」
 予想の端っこにもなかった問いかけにカーヴェは思わず目を丸めて、ようやく自身の発言を顧みた。まるで自分達は恋人のようだと、カーヴェはアルハイゼンに告げたのだ。大胆で、後先を考えない浅慮さがあると批判されても仕方がないのかもしれない。
 カーヴェとアルハイゼンはそういう関係にはない。朝起きてから眠る直前まで共にいて、お互いの顔を思い浮かべながら土産買い、気に入った酒を分け合うというのに。その日々を間違いなくカーヴェは愛していたが、その愛が何を根源としているかをしっかりと考えてはこなかった。
 その生活の端々に溢れるそれに名をつけて良いのかと、アルハイゼンは問うているらしい。アルハイゼン、と彼の名を呼ぼうと思った。まるで、今までの日々が彼そのものであったことを確かめるように。
 思いの外小さくなった呼びかけに、彼が同じくらい小さな声で応じてくれた。何とか形を保ってカーヴェの鼓膜を揺らし、神経をなでた音は自分の姿を外界から切り取る形をしている。
 共に暮らすその人が口にする自分の名が優しさに包まれていることが、何よりの幸いであることをカーヴェは長いこと忘れてしまっていた。その幸福を思い出させてくれたのが、他ならぬ彼であったことをカーヴェは何よりも嬉しく思う。
 こつ、と決して痛みは覚えない密やかさで彼の額がカーヴェの額に合わせられる。じっとカーヴェの瞳を覗き込む彼の口元がむずりと動いて、まるで歯の生えかかる子供のような仕草だと思った。
 何か急かしたがっているのか、それともしたいことがあるのか。きっと、そのどちらもなのだろう。
「君はそれがいい?」
 吐息が彼の唇を掠めそうなくらいに近い場所で囁けば、アルハイゼンがカーヴェから一度視線を外した。それから微かに口元を動かそうとしてから、何かを諦めたように彼は小さく頷く。それから伏せた目を持ち上げて、君は、とやっぱりカーヴェにしか聞こえない声で尋ねた。
……大丈夫だよ。僕もそれがいい」
 するりと額を擦り合わせて告げれば、とくとくと自分の心臓が音を立てるのが分かる。ずっと前からそうだっただろうと文句を言っているらしい音に口角を上げると、カーヴェは彼が感じている不安を晴らすつもりで唇に啄むだけの口づけを贈った。すぐ離れようとしたけれど、そっと腰に回った腕と同じくらいの優しさで今度は彼から口づけられる。
 温かくて穏やかで、もはやカーヴェを傷つける事も叶わないくらいに柔らかくなったそれは二人の日々と全く同じ手触りをしていた。