シノハラ
2024-10-20 21:50:10
3114文字
Public カヴェアル♀
 

セ伝任2の本題ではないネタバレを含むカヴェアル♀


 朝にカーヴェから宣言されていた通り、アルハイゼンが帰宅した時に家の明かりは一つも点いていなかった。玄関と居間の明かりを灯し、アルハイゼンは台所に辿り着く。彼が出かける前に用意していたらしい鍋には多少火が通った根菜の類が収まっていた。
 朝食を食べながらの彼曰く、今回の工事は一般的な時間よりも開始時間が遅く、終了の時間も遅くなるらしい。現場監督まで請け負っている手前、アルハイゼンの帰宅よりも早く帰れない。そのため、夕飯の準備はアルハイゼンにある程度頼みたいとのことだった。
 その分家賃の支払いは多めにするからと頼み込まれ、アルハイゼンは受け入れることにした。正直、その程度の些細な変動はアルハイゼンからすればどちらでも構わないのだけれど。
 具だくさんのスープはアルハイゼンとカーヴェの折衷案の末用意されたレパートリーの一つである。汁も飲みたいカーヴェはスープごと掬えば良いし、その逆のアルハイゼンは具だけ取って少々味付けを足せばいい。鍋を火にかけてくつくつとしてきた頃に肉を足して少ししてから葉物野菜を投入する。
 あとは彼が帰ってきたところでまた少し火を入れて、昨日の残りのムジャッダラとパンを用意すればいいというところで、玄関の扉が軋む音がした。ぱたん、と音が響いてから彼の上着にぶら下がっている金属がぶつかって音を立てているのが微かに聞こえてくる。決してドアチャイムのように計算された物ではないが、どこか心地よさを覚える音だった。
「おかえり」
「ただいま。ありがとう、助かるよ」
 落としてしまいかけていた火をそのままにして、アルハイゼンはカーヴェに視線だけを向ける。カーヴェの言いつけ通りに夕食の準備をしていたことに満足したのか、彼は帰宅の挨拶と共にアルハイゼンのこめかみに唇を落とす。彼からのスキンシップなどさほど珍しいものではなかったので、そのまま受け入れようとしたのに、反射的に体が逃げた。
 ぱちりとカーヴェが瞬きをして明確に拒否されたことに気がついたらしく、その眼差しが強張った。その辺りになってようやく、アルハイゼンは自分の中で生じた彼への忌避の正体を見つけ出す。
「煙草臭い」
 あ、と声を上げてようやく気がついたらしく、カーヴェがシャツを引っ張って自分で臭いを確認する。けれど、臭いに慣れきってしまっているらしく、しまいにはこてんと首を傾げてしまった。
……シャワー浴びてくる」
「うん、これからはそうしてくれないか」
 それでも恋人が臭いというなら臭いのだろうとぼとぼとカーヴェが洗面所に向かうのを見送ってから、アルハイゼンはくるりと鍋の底をかき回しながら以前偶然見た彼の姿を思い出す。その時の彼は別の案件で現場監督の仕事を受け持っていて、現場作業員と共に昼食を食べていたらしい。
 日に焼けて筋骨隆々の男達に混ざるには随分生白い男に思えたが、彼は十分その場に馴染んでいるように思えた。他の男達と同じように胡坐をかいて地面に座り込み、少々背を丸めて談笑する彼の横で、カーヴェよりも年上だろう男がぷかぷかと煙草の煙を吐き出していた。その場の半数ほどが同じように煙草に火を付けていて、あの業種では喫煙者が多いらしいと学生時代にカーヴェが言っていたのを思い出したのだったか。
 そう、彼も学生時代に一度、その煙を自らでくゆらせた事があったらしい。授業が終わった後に彼がいるはずの資料室を訪ねたら、いるにはいたがアルハイゼンが全く知らない煙たさを纏わせていた。何事かと身を固めてしまったアルハイゼンに気がついて、煙草を吸っていたのだと彼は丁寧に教えてくれた。
 アルハイゼンが名前も知らない先輩にひと箱もらったので、せっかくだからと思ってと、たしかカーヴェは言っていた。その日は結局煙たいにおいをさせたままのカーヴェと共にいたのだけれど、それから彼はアルハイゼンの前でそのにおいをさせることはなかったと記憶している。
 件の貰い物が結局どうなったのか、アルハイゼンは知らないままだ。今はただ、ほんの少しだけ知らない人のようになった彼の思い出だけがアルハイゼンの記憶の奥底に眠っている。
 アルハイゼンのようにあの匂いを好まない体質でなかったのは彼にとって幸いだったのだろう。もしも、自分のような反応を示していたのなら、あんな風に職場で男達と笑い合うのもなかなか難しかっただろうから。
 古い記憶を掘り返しながら予定通りスープを作り終える横で、冷えていたムジャッダラを温め直す。パンに火を入れてスープをよそうのは、彼が戻って来てからでいいだろうと一度居間に戻る事にした。
 くう、と腹が音を立てるのを聞きながら、アルハイゼンが途中だった本を開こうとした辺りでカーヴェが髪を濡らしたまま風呂から戻ってくる。家でくつろぐための簡素な服でアルハイゼンの下に寄ってきたと思えば、身を屈めてカウチに座るアルハイゼンと視線を合わせてきた。
「もう大丈夫かい?」
 なるほど、リテイクを食らうのであれば髪を乾かすのも無駄ということだろう。アルハイゼンは開いていただけに過ぎなかった本を閉じて、カーヴェの二の腕を掴んで背筋を伸ばすと、洗い忘れが多そうなうなじ辺りに鼻を付けた。それから、わ、とか、う、とか声を上げている彼の首筋の匂いをすんと鼻を鳴らして嗅ぐと、シャンプーで使われている香料が鼻孔を満たす。カーヴェが選んだシャンプーの香りにアルハイゼンは文句をつけた事がない。
「うん、問題ないよ」
 最後にちゅっと音を立てて生え際辺りに口づけてやれば、ぴくりと彼の肩が跳ねる。それから一呼吸分も置かないうちにがばりと引き剥がされて、至近距離から視線のみで射貫かれた。普段は呆れかえるほどの善良さを示す色合いの瞳に火がくべられているのが見て取れる。
「台所の火は?」
……落としてある」
 声には情欲が滲み始めているくせに、それとは対極な家庭的な確認をするものだから少し面白くなってアルハイゼンは口角を緩めてしまったと思う。まあ、アルハイゼンだってこんな事が原因で家を焼け出されたくなどないのは同意するけれど。
 そっか、と相槌が打たれたのと同時に、カーヴェがアルハイゼンの唇に口づけを落とす。角度を変えながら擦り合わされて啄まれるうちに薄い皮膚がむずむずとして、その疼きをごまかすようにゆるりと口を開くとそのまま舌が入り込んでくる。
 ざらりとした表面が歯茎を刺激してじゅわりと唾液が滲み出した瞬間、くう、と再び腹が鳴った。口に物を含んでいるというのにそれが食べ物ではない事実に腹を立てているようでもある音に、二人してぱちりと目を開ける。
 しばらく無言で見つめ合ってから、先に堪えられなくなったのはカーヴェの方だった。唇を離しながらアルハイゼンの濡れたそこに笑みの混じる吐息を漏らして、ぎゅうと抱き寄せてくふくふと笑いながら自分もお腹が空いていると白状する。
「まずはご飯にしようか。その後君の時間を少しもらいたい」
「少し?」
 それからぱっとアルハイゼンを解放したカーヴェに問われて、反射的にアルハイゼンは問い返してしまった。本当に少しで済ませるつもりなのだろうか、この男は。カーヴェの恋人に求めるコミュニケーションの幅は大分広く、彼の宣言通りに少しで済んでしまう事はあるにはあるのだけれど。
 ふい、と視線を反らして少々考え込むようなポーズを取ってから、カーヴェはいっぱいかも、とアルハイゼンのまなこを覗き込む。いい? と答えを急かされて、アルハイゼンは現在時刻も確かめないまま相槌を打ってしまった。