シノハラ
2024-10-20 21:48:53
2439文字
Public アルカヴェ♀
 

自宅に先輩を連れ込んだ翌朝に先輩はずっと先輩だったんだなと噛みしめている後輩のアルカヴェ♀


 夜が明ける。
 
 朝を告げる音をそのままにしながら、しばらくどうしてこんなにも頭と体が重だるいのか考え混んでしまった。それから三時間程度しか寝ていないからだと思い至って、アルハイゼンはようやく目覚ましを黙らせる。
 捩った体を返してごろりと寝返りをうって、今日くらいは朝のトレーニングをさぼっても構わないだろうと考える。そもそも今日は休日なのだから、この時間に目覚ましを鳴らしてしまった事自体が間違いだったのだ。
 もう一眠りして起きたらと考えて、この家で眠っているはずの人間がほかにもいることを思い出した。アルハイゼンが深夜二時過ぎまで起きる原因になった、一人の女性の姿を思い起こす。
 学生の頃から変わらないと言いたかったが、より美しくなっていたように思う。個人事業主としてクライアントにどのように見られるかを考えて、自身を磨き上げる必要があると彼女は考えていたらしい。一日の仕事を終えても身を落ち着けられる場所がない彼女は疲労を隠せなかったものの、それでもなお人を惹きつける見目をしていた。
 不運に見舞われ、結果として家を手放したと彼女は言った。細かな経緯や結末に至るまでの一部始終を彼女は懇切丁寧にアルハイゼンにぶちまけたが、重要なところはさほど多くはない。
 彼女は自身が見つめる理想をいまだこの世に引き込めていない一方で、まったく諦めるつもりにはなっていなかった。アルハイゼンにとって、問いかけを受けた瞬間の眼差しがすべてだったのだ。
 一度身を落ち着けてから、今後のことを考えればいいとアルハイゼンはカーヴェに打診した。手立てがないとでも彼女が反論しようとする気配を見せる前に、部屋が一つ余っていると続ければずっと眇められていた目がまんまるに見開かれる。
 かつて決別した、それも独り身の男の家に身を寄せる事実に抵抗がなかったわけではなかったらしい。青天の霹靂とでも言いたげな声を上げてからたっぷりと時間をかけて考え込んで、まあ、君だもんなと確かめるように口にした。よもやアルハイゼンに下心などあるまいと彼女は言いたかったらしい。
 使っていない部屋は埃まみれで、さすがにそのままでは使えないとカーヴェは判断したらしい。居間のカウチを使いたいと彼女が言い出したので、片付けたばかりの厚手の布団を進呈してやった。それがだいたい三時間と少し前の出来事である。
 寝付くのに失敗しつつある頭を観念して持ち上げて、アルハイゼンは長いあくびをしながら背筋を伸ばした。珍しくぱきんと背骨辺りから音が響いたのを合図にして、思考がすっと晴れるのを感じる。
 それからベッドから降りて自室を出る。いつものように扉を閉めようとして、最後にほんの少しだけ勢いを弱められた。自身の耳にだけ届いただろう音が消え去ってから、アルハイゼンは台所でいつも通りに水を飲む。アルコールの余韻が未だに残る体に春の空気に緩められた水が染み込むのを味わってから、アルハイゼンは彼女がいるはずの居間に立ち寄った。
 果たして、彼女はカウチの上に布団を敷いて心地よさそうな寝息を立てて眠っていた。ベッドと比べればみすぼらしいものだろうが、酒場の椅子を使って寝ていたのを考えれば環境が一変したと言ってもいいのだろう。足音を押さえているとはいえ、アルハイゼンがいくら近づいても目覚めそうな予兆はかけらもない。
 眠るカーヴェの前で膝を突くと、彼女の眠りの深さがよく分かる。少し不安に思うくらいに警戒心に欠ける姿に、アルハイゼンの視界の外にあった間、彼女の体が常に自由であった確信を抱いた。
 彼女の才が金銭に直結するものでよかったと今更ながらに思ってしまう。家を失ったばかりか、己の判断に起因するものとはいえ多額の借金を抱えたとカーヴェは言っていた。
 たとえば彼女の関心がたとえばアルハイゼンと同じ方向性を持っていたのなら、つまらない額の借金で首が回らなくなっていてもおかしくなかったのだ。手に職と言うべき建築の能力がなければ、とっくの昔に二束三文でどこぞに売り飛ばされていたかもしれない。薄暗がりでも一目で分かるような類の価値が、彼女には確かにあるのだから。
 望むままに伸ばそうとした指先をアルハイゼンは結局彼女の顔の手前でそっと下ろした。頬の上に乗る髪が少しばかり擽ったそうに見えたものの、今の彼女は何者にも影響を受けるべきではない。
 カーヴェが引き寄せる危険を振り払う力を、他ならぬ彼女自身が持っているということ。その力こそが彼女のはじまりであり、どこかにある真理の一つに指をかける手段であること。その全てが幸いであるのだと、アルハイゼンは強く意識する。
 今の彼女は酷く打ちひしがれているが、全ては彼女の選択の結果だったのだ。ただ彼女が類い希なる機会を得、自らの全てを――文字通り全てをなげうって仕事をした。誰からも制限をほとんど受けず、ただ自分がやりたいことをやりたいようにやろうとした。その結末に彼女が納得しているかはともかくとして。
 カーヴェの選択を愚弄するつもりはアルハイゼンには一つもない、と言うとさすがに言い過ぎではある。けれど、いかにも彼女らしいとアルハイゼンは思ってしまう。
 彼女はずっと、アルハイゼンが願うように生きていたのだ。その代償はそこそこ大きかったようだが、カーヴェの力があれば取り戻せないものでもない。アルハイゼンが申し出た通りしばらく身を休めれば、またどこにでも行けるようになるだろう。もっとうまい生き方なんてものはいくらでもあるが、この人はこういう生き方しかしないとアルハイゼンはもう骨の髄まで理解させられている。
 ステンドグラス越しの朝の光が彼女の金糸を染め上げた。穏やかにまどろむべき夜は追い立てられるように終わりを告げ、これから鮮やかな朝が到来する。だというのに、まだ寝たりないらしい彼女はアルハイゼンの前ですうすうと寝息を立てるばかりだった。