馬上から臨める長閑な山間に、筋のような煙が上がっているのが見えて、ブラッドリーは村一番の視力でもって目をすがめ、それを確認した。
「狼煙だ」
しかも救援の赤──
ブラッドリーの言葉に先導を務めていた前方の供と、後方を守っていた供が驚きの声をあげ、彼方此方を振り仰いでブラッドリーの指す方向にようやっと煙を見つける。数人が引き攣った声を上げた。
不吉な赤い色を天に伸ばした煙は実際は数時間前に上がった残煙で、すでに現場で燃えつき、細い筋のような赤色は風に揺れて消えかかっている。
つまり、そこで起きた事象は今起きていることではなく、それが旅人を狙う賊の強襲であったのならば、新たな獲物を求めて既に移動している可能性が高い。
山を越えたこちら側に上がる煙からして、ブラッドリー達の一団とその村の方が距離としては近く、今の今まで煙の匂いがしなかったことから、風は逆方向へ流れている。
風向きからして、風下へ賊が流れるとは考えにくい。賊が移動したならば、今ここにいるブラッドリーの一行の方が危うい。
ブラッドリーは隣村からやってくる一団と自分達の距離を脳内で素早く計算した。隣村の一団の無事と、距離的にはブラッドリーの村の方が近い事実。
村の長となるべく十五歳の少年の双肩に、突然の重責がのしかかる。しかし、熟考する間もなく、前方から下卑た笑い声が響き、並走していた村の従者が矢に射抜かれた。
「敵襲ー!」
「散れ!散れ!」
「ブラッドリーを守れ!」
混乱し一気に秩序が崩れたブラッドリーの一団の恐怖が伝播し、馬たちが暴れ出す。
「落ち着け!円陣を組むんだ!」
ブラッドリーの声に数人が意識を取り戻し、元の配置に戻ろうとするも、逃げ出す者、散って馬の手綱が引けない者と、恐怖によって混乱の境地に陥った。その隙に敵はブラッドリーの一団を取り囲む。
逃げ場はなかった。ブラッドリーが身にまとう婚礼衣装は飾りも多く、戦うには到底向かない。それでもブラッドリーは懐から飾り刀を抜いて、一団から一歩前に進み出た。
慌てたのは供をしていた村の老翁達だ。
「坊!」
「だめだ、危ない!」
将来の村長を担う若人を下がらせようとした供達と、果敢に前に出ようとするブラッドリーとの間で再度輪が乱れる。敵がその隙を見逃すはずもなく、賊の一人が大剣をふり翳す──と。
──ヒュ、
鳥の鳴き声にも似た音を立てて、ブラッドリーの後方から、黒い矢が勢いよく通り過ぎた。
ぎゃあ、という悲鳴と共に、大剣を振り翳した眼前の賊が馬上で硬直し、次いでどう、と音を立てて地面に落下した。
その肩を深々貫いた矢──ブラッドリーは驚いて矢の放たれた軌跡の元を辿る。
弓に二本の矢を番え、黒い馬に跨った一人の人物が、森の奥から凄い勢いでこちらに向かってくる。
派手な衣装と飾りを翻したその人物が、二つの矢を同時に投射する。鈍く重い音を鳴らし、空を裂いた黒い矢は後方を振り仰いでいた賊の一人の腕を射抜き、賊達の馬の足元に刺さった。
弓を放った派手な衣装に身を包んだその人物は、単騎で突入してくると、取り囲む賊達を弓の柄で打ち払って割り裂いて、ブラッドリーの数歩前で向きを変えた。
ブラッドリーを背に庇うと、賊たちに向き合い、素早い仕草で背から矢を抜き、勢いよくそれらを放つ。賊が次々に射抜かれていく。
手綱で方向を変えなくとも、黒い馬は手足のように動いた。落馬した賊の一人が黒い馬の脚元を狙うも、黒い馬は馬上の人物の動きを遮ることなく、前脚を大きく上げて賊を威嚇する。
攻撃の合間に、その人物が一本の矢を天に放った。青い色の煙を上げながら、高く高く昇り、天で四方に火花を散らした。ここにいることを知らしめるための合図だ。
ブラッドリーは、馬上の人物が舞うように攻撃をしていくその背を呆然と見つめる。
戦闘でちらちらと垣間見えるその顔は、目元までが顔布で覆われていた。顔を振れば、顔布にいくつも連なる飾り硝子が重なり合って、シャラリシャラリと不思議な音が聞こえてくる。黒に近い紺色に、華やかな刺繍と金の縁取りがところどころに映える着衣は伝統的な婚礼衣装だ。
馬上の人物が放った矢は、抜群の命中率でもって賊を次々と射抜く。恐れを成したそのうちの何人かが身を翻し逃げ出すが、逃走先──森の奥から、黒に近い紺色の衣装を身に纏った数人が、同じように馬で駆けて来て、闘気に満ちた叫び声を上げながら、残党を次々蹴散らしていく。
ブラッドリーを背に庇うように眼前で率先して戦っていた人物が振り返り、ブラッドリーを確かめた途端、馬から滑り降りた。ブラッドリーも慌てて馬から降りる。
すると、その人物はブラッドリーの眼前で立ち止まると、一呼吸置いた後に、勢いよく抱きついてきた。
厚みある互いの婚礼衣装を隔てた抱擁に、ブラッドリーは慌てて声を上げた。
「ま、マーヴェリック!」
件の人物が顔布を引き下げる。相貌が晒され、あまりの美しさにブラッドリーは目を瞬いた。その人物は近距離のまま、ブラッドリーの両頬に手をあて、肩を触り、手を握ってきた。
「無事か!?」
「う、うん、あなたが守ってくれたから……」
勢い込んで尋ねてくる必死の形相に、ブラッドリーは辛うじて頷いた。
「よかった……」
心底からの安堵の声に、ブラッドリーは見上げる形になる自身の花婿──マーヴェリックの顔を見つめた。
「マー……」
「マーヴェリック!無事か!?」
「ホンドー」
その名を呼ぶより先に、マーヴェリックの供の者であろう先頭にいた人物が馬上から声をかけてくる。
同様に、しばし呆然としていたブラッドリーの供達が、ブラッドリーとマーヴェリックの周囲に集まってくる。
鬼気迫るほどの闘気を剥き出しにし、青い焔を灯していた眼差しは鳴りを潜め、天与の美貌を晒しながら、マーヴェリックがブラッドリーの顔を覗き込んで微笑んだ。
「無事でよかったよ、僕の旦那様」
◇
あれは豊穣の祝祭の時節だった。
ブラッドリーの村と、隣村であるマーヴェリックの村との間で婚姻話が持ち上がった。
隣村とはいえ、ブラッドリーとマーヴェリックの村はそれなりに距離があり、馬で一日、二日はかかる。
ブラッドリーの村は毛織物が盛んで、マーヴェリックの村は狩猟を主とする違いがあった。昔から交流があり、マーヴェリックの村で狩った動物の毛をブラッドリーの村が買い取り、毛織物として販売する取引先でもある。
村同士の交流も時折行われ、それは狩猟を主とするマーヴェリックの村での動物達に対する感謝と鎮魂の義が行われ、次期村長であるブラッドリーが父の名代として招待された時のことだ。
あつらえられた賓客の席で、薄い天幕の内側から、ブラッドリーはマーヴェリックが弓を射る姿を見た。古い書物に登場する月の化身のように美しい男が、黒い馬にまたがって獲物を射る姿に魅了された。
彼の名を聞いてもらうよう供に尋ね、ピートという真名とマーヴェリックという二つ名をもつ男であることを知った。そして、マーヴェリックが隣村の村長であることも。
隣村との祝祭を終えて戻った息子が熱に浮かされたような赤い顔をして、日々月など眺めるようになったものだから、ブラッドリーの両親は早々に息子が恋をしていることに気づいた。
物騒な賊が海を超えて領土を拡大しようとしている不穏な話しが出たばかりなこともあり、ブラッドリーとマーヴェリックの婚姻話は早々に話が進んだ。
昔から国内では長子が後継という掟があった。婚姻関係を結んで村同士の横のつながりを強めることも重要視されていて、ブラッドリーとマーヴェリックが婚姻関係を結ぶことで、山一つ越えた互いの領土が一つになり、不穏分子への牽制となることも相まって、歓迎の声でもって話は進んだ。
ただ一つの問題を除いては。
◇
ブラッドリーは、マーヴェリックの顔を見上げる。マーヴェリックは男性にしては身長がさほど高い方ではない。それでも今のブラッドリーからは見上げねばならない体格差がもどかしかった。
体の厚みもマーヴェリックの方が遥かある。
父グースの長身を思えば、ブラッドリーが将来的にマーヴェリックよりも背が高くなるであろう予測はついたが、少年は今すぐにでもマーヴェリックを超える身長を手に入れたいとこの瞬間強く思った。
埋められないのは年齢差だけで充分だ。
一部の口さがない村民は、年齢の高いマーヴェリックとの婚姻に難色を示す者もいたため、ブラッドリーは早く自分が彼に追いつきたいという気持ちでいっぱいだった。
こうしてたった今も、守られたばかりだ。
マーヴェリックの騎乗する黒馬──黒星──という名の馬にブラッドリーも騎乗した。
マーヴェリックの前側に位置する座位に、まるで子供のような扱いだとブラッドリーは断りを入れたが、マーヴェリックの悲しげな顔を見て仕方なし騎乗した。
背にマーヴェリックの体温を感じることに鼓動を速めながら、ブラッドリーの村へと向かう。
マーヴェリックの婚礼衣装には、本来は外套が掛けられていたが、狼煙を目にした途端に単騎で走り出した身から滑り落ちたらしい。マーヴェリックの一番の供だというホンドーが拾い上げ、今はマーヴェリックが再度着用している。
草にまみれ、薄汚れてしまったそれを気にすることなく、マーヴェリックはそれを羽織り、共に騎乗したブラッドリーを前見頃で包み込んだ。内側は毛に覆われ、非常に温かい。
「本当に無事でよかったよ、ブラッドリー。狼煙が見えた時には皆を置いて、無我夢中で駆けてしまった。君がこちらに向かって来ていたのは分かっていたし、狼煙の煙がこちらに流れていたから」
輿入れするのはマーヴェリックだけではない。ブラッドリーも同様に、〝婿入り〟という体裁をとる。
この国の婚姻は、長子同士と定められた縛り以外には等しく平等を求めていて、長子同士が男女でない場合は養子を迎えることを前提としていたし、長子であるが故にどちらかの家の者になるという強制力もない。
いわば書面状の取り交わしとしての、縁者になるという括りである。
〝婚姻〟という、形骸化した名ばかりのしきたりの渦中にいながら、好いた相手と婚姻関係を結べたとことを、ブラッドリーは至上の幸福と考えていた。しかもブラッドリーは、マーヴェリックへの婚姻の申し出を三度断られている。
断られた理由は、領土やしきたりに係るそれではない。
マーヴェリックはブラッドリーとの年齢差をひどく気にしていて、身を引いたのだ。
ブラッドリーは齢十五歳にして見目よく、将来が有望であるからこそ、年齢差のあるマーヴェリックとの婚姻関係について利がないと判断した故の、マーヴェリックの長としての考えだ。
それをブラッドリーは、三月かけて口説き落とした。
それは、こどもが玩具を欲しがるような必死さだったかもしれない。そう思われても良いと思っていた。
この月の化身のような、優しく、それでいて強い男と共に生きていけるのならば。
ここに至るまでをぼんやりと思考しながら、ブラッドリーは背にあたるマーヴェリックのぬくもりに思いを馳せた。
ブラッドリーの前で手綱を掴むマーヴェリックの手の甲から腕にかけては、鮮やかな紋様が描かれている。婿入り時の祝いの模様だ。
恐らくはそれが全身に施されているであろうことを想像し、少年は頬を染めて妄想を打ち払った。
草や花をすり潰した染料で描かれたそれは、やがて薄くなって消えるが、ひと月は保つ。
湯で体を洗おうが汗を掻こうがしばらくの間は落ちない。
つまり、初夜で湯浴みをしても、交わりで汗をかいても、花婿──マーヴェリック──の体に施された模様は、婚姻相手の目を悦ばせるための鮮やかな言祝ぎであり、一夜の夢を魅せるためのものなのだ。
体温が上がる。
性経験のないブラッドリーは、性行為を知識として理解しているだけだ。恋する相手との夜を思い、ブラッドリーは熱くなる頬や耳を無自覚のまま晒した。
マーヴェリックがそれに気づく。
模様の施された手をするりと伸ばし、ブラッドリーの額にあてる。
「あつい。どうしたブラッド。熱がある。具合が悪いのか?」
心配するマーヴェリックが不思議な色合いを持つ瞳を潤ませて、ブラッドリーを覗き込んで来る。
ブラッドリーはそれこそ動揺した。
寝屋での妄想に耽るふしだらな思考の自分を見透かされないよう、マーヴェリックの視線から逃れる。
その振る舞いと、マーヴェリックは自分の手に施された紋様が視界に入ったことで察しがついたらしい。マーヴェリックが苦笑した。
「安心しろ、ブラッド。そういったことは無理にしなくて大丈夫だから。僕が模様を施しているのはしきたりに倣っただけ。それに、ごめんな、ブラッド。こんな年上のおじさんが花婿で」
「マーヴ!」
「うん?」
ひどい勘違いをしているマーヴェリックの言葉を遮り、ブラッドリーは馬上でマーヴェリックを振り仰いだ。
「ちがうよ、そもそもマーヴと結婚したいって言ったのは俺だもの。何度も言ったのにまだ通じていないの?俺はマーヴがいい」
「ブラッド」
マーヴェリックは必死に訴えるブラッドリーの真剣な眼差しを間近で見る。
この少年は、三月、自分の村へ通い続けたのだ。
少年の内に秘められた情熱が、年齢の離れた自分に向けられ続けていることを面映く思いながら、マーヴェリックはブラッドリーに微笑みかけた。
「あと五年で君は二十歳だろう?その頃にね」
それが夜の営みに関することなのか、ブラッドリーは経験が浅く、聞き返す言葉を持っていなかった。
「そんなに待たせないよ。三年、いや、二年で俺もっと強くなるから」
「ふふ」
ブラッドリーの返答は、マーヴェリックを満足させるものだったらしい。マーヴェリックの頬が嬉しげに赤く染まったことで、ブラッドリーの心もあたたかくなった。
マーヴェリックは意味が幾重にも渡るブラッドリーの言葉の純粋さにこそ満足して、別のものを強請った。
「歌が聴きたいな」
「歌?」
「あぁ、名手だって聞いているよ、ブラッド。君の村に着いて、婚礼の儀が始まったらどうか聴かせておくれ」
「いや、名手なのは俺の母さんで……」
ブラッドリーの母、キャロルはその昔、世界を旅する一団の歌姫だった。旅の途中でたまたま村に立ち寄ったキャロルに、ブラッドリーの父、グースが一目惚れしたのだ。キャロルもまたグースを慕い、キャロルはそのままグースに嫁入りした。
「僕は君の歌が聴きたいな」
マーヴェリックの懇願に、ブラッドリーにもちろん否やはない。ブラッドリーはその望みをすぐにでも叶えたくなった。
「なら、歌うよ」
「え?」
空に朗々とブラッドリーの歌声が響く。
マーヴェリックはしばし呆然としたのち、ブラッドリーの美しい歌声に耳を澄ませた。
愛馬の黒星の足取りが軽やかになったようだった。
ブラッドリーが振り返り、愛を紡ぐ恋の歌を歌う。
マーヴェリックは少年の額に口付けを落とした。
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