ソファに腰掛け、灯りは手元のみ。古いラジオは現役で、マーヴェリックは慣れた角度に伸ばしたアンテナで、受信した局に適当に合わせたまま。これまた古いナンバーがラジオから流れる中、かすかに聞こえるエンジン音に耳を澄ませた。先程遠ざかるそのエンジン音を聞いたばかりだ。ラジオの音源を絞る。
マーヴェリックはソファから立ち上がると、聞き慣れたエンジン音が、倉庫の前で停まるのを聞いて、深く、深くため息をついた。
入口までゆっくりと歩く。そうして倉庫の大きな扉ではなく、出入りするために備え付けられたドアを静かに開いた。細かい砂を噛んだせいで、耳障りな音を立ててドアが開く。
「……やぁ」
決して無理矢理にドアを開けて入ってくることのない訪問者が、今日もそこに立っていた。
モハーヴェの亡霊
片手でセルフォンをいじり、ルースターは食事の片手間に行儀悪くメッセージを送る。
ーー『3日後行っていい?』
セルフォンを机上に置いて、口いっぱいにミールを頬張る。間を置かずして、セルフォンの振動を机の揺れで感知し、すぐさま画面を開く。
ーー『気をつけておいで』
ルースターは画面を見つめて僅かに口角を上げる。一連の動作を俯瞰して見つめていた仲間が、くぐもった笑い声をあげた。ルースターはそれに気づいて、取り繕うようにセルフォンを机上に放り投げ、今度こそしっかりと食事を摂ることに集中する。
「おい、ルースター。メッセージのお相手、ミッチェル大佐だろ?」
「さぁね」
「悪い悪い。揶揄うつもりはなかったんだ。いや、なんか微笑ましいなって」
仲間は謝罪し、それでも笑んだまま言葉を続けた。仲間の心裡は決して嘲るそれではないことをルースターは理解している。少しの照れと、自分の中だけにとどめておきたいマーヴェリックとの間柄における事象に葛藤しつつも、表面上は無表情で仲間の言葉に返答した。
「マーヴとの仲はそりゃ近いけど。色々あって離れ離れだった期間が長いし、マーヴがなるべく俺との時間を作ろうとしてくれてるのわかってるから」
一瞬だけ仲間は目を見開いた。ルースターの独占欲とも言える言葉に、驚いたようだった。無意識のマウントに、ルースター自身が言葉にしたことで今更ながらに自覚する。
ーーそうだ、先ず、マーヴとの時間を優先してもらうのは俺の権利。
基地内の食堂には軍人仲間が銘々にランチを摂る日常がそこかしこに溢れている。ルースターの前に座る仲間、隣の人物、その斜め前と、幾人かがルースターと仲間の会話に耳を傾けていることを知りながら、ルースターは言葉を続けた。
「俺も、マーヴと会えることに浮かれてる自覚はあるけどね」
まるで付き合いたての恋人との逢瀬を心待ちにするかのような発言で、ルースターは周囲を窺う。半分が嘘で半分は真実だった。真意は離れていた時間を埋めたいと焦れるルースターをマーヴェリックが受け入れている、が正しい。ただし、翻ってマーヴェリック自身もルースターと離れていた長い時間の溝を埋めたいと考えているが、願書破棄に端を発する決別の罪の重さに遠慮し、自ら誘うことをあまりしない、がルースターの見立てだ。その意味深さとマーヴェリックとの関係性を敢えて説明する必要はなく、ルースターは聞き耳を立てる周囲の人間からの沈黙の圧に応えただけだ。
マーヴェリックは軍内部の一部に絶大な信奉者がいる。パイロットとしての神がかった技術力、未だ破られることのない戦歴、生きた伝説という言葉は決して大袈裟ではない。その生きた伝説と共に戻ってきたルースターが、今、目の前でレーションを頬張り、通信する先はレジェンドたるその人だ。戦歴の直近レコードは塗り替えられ、旧遺物にも等しいF14戦闘機で、第5世代機を2機撃ち落とした還暦近いパイロット。
偶像崇拝にも近いファン心理から、直接に会って話しをしたい、ならば近しい人物に渡りをつけてもらうのがいい、という周囲からの熱視線をルースターは受け流す。ルースターを通し、熱き眼差しを注がれているのはマーヴェリックなのだから、ルースターからすれば溜まったものではない。ルースター自身が遺恨を経て、ようやっとマーヴェリックの時間を独り占めできるようになったばかりなのだから、専有権は譲って欲しいのが本音だ。
その時間さえも任務の合間を縫っての微々たるものなのだから、幸いにして生まれながらにして持っていた『坊や』のポジションを甘受し遺憾なく発揮させている。
ルースターとて、パイロットとしての心構えや技術をなお一層マーヴェリックから教授したい。それ以前に、離れていた間のマーヴェリックのこと、そして自分のことを聞いて欲しい。遺恨ある恨み辛みのそれらではなく、ただ、ルースターはマーヴェリックと話がしたいだけだ。決別前のあの頃のように。
+++
「来たよ、マーヴ」
予定時間を大幅に過ぎて到着すれば、いつもならバンカー内で忙しなく動くマーヴェリックの姿が見えない。声を上げながら、勝手知ったるとばかりにルースターはマーヴェリックの住処に足を踏み入れる。二人で食事をするために買い込んだ食料を両腕に抱え、バンカー内の机にとりあえず仮置きをする。耳をすませばシャワーを浴びている音が聞こえた。恒例となっている愛機の定例点検を終え、汗を流しているのだろうとあたりをつけたルースターは、エアストリーム内備え付けのキッチンへいそいそと料理の材料を運んだ。マーヴェリックがシャワーを終えるまでに、料理を仕上げてささやかなサプライズを施したい。時間の隙間を縫うような戯れさえも、マーヴェリックの喜ぶ顔が見たいがためだ。
元々ルースターはコミニュケーション能力に長けていて、その分人の機微にも敏感だ。幼い頃から周囲の大人がルースターの境遇を憐れむ視線の渦中にいた。けれど、補ってあまりあるだけの愛情を、母とマーヴェリックとそれ以外の身内に近い大人たちが施してくれたからこそ、ルースターは情にも厚く、伴って友人も多い。突出してマーヴェリックの愛情は一等だった。だからこそ、願書破棄に至った母との密約について、任務完遂後にマーヴェリックは重い口を開いて告白し、共に涙を流したのだけれど。
そこから急速にルースターはマーヴェリックとの距離を近づけた。そもそも近い距離に戻った、が正しい。軍属の仲間たちを敢えて牽制するほどに、アンクルマーヴとの時間を取り戻すべく、ルースターはこうして奔走している。休暇が取れたら毎回毎回マーヴェリックの元に馳せ参じるのをここ半年ほど続けているのだ。
成人してアルコールを酌み交わせるようになってからの食の好み、パイロットとしての任務や基地における友好関係について。決別前には知り得なかった、ルースターを一人の男として扱ってくれる、そのマーヴェリックの心持ちに、ルースターは浮かれた。
自分の人生に於いて、マーヴェリックが及ぼした影響は計り知れない。そんなことを訥々と思考しながらもルースターは鼻歌を歌い、着々と食事の準備を進めていく。存外長いシャワーのマーヴェリックが、その途中で出てきた。
「マーヴ、俺、食事の用意しとくから」
シャワールームの開閉音から、キッチンに向かって歩いてくる足音に振り返って告げる。マーヴェリックがいささか驚いた顔で立っていた。
鍛え上げられた上半身を晒し、下半身はジャージを履いたシャワー後の風態のまま。数週間前に会った時よりも心なしか髪が伸びて、降りた前髪が幼げな風情を醸していた。首にタオルを引っ掛け、湿り気を帯びたままのマーヴェリックは気を取り直したらしく、口角を上げてルースターの訪いを喜んだ。
「いらっしゃい、ブラッドリー」
「遅れてごめん、食料買い込むのに手間取ってさ」
「そ、うか」
マーヴェリックの返答のわずかな間に、ルースターは気づかなかった。ルースターは手元に視線を戻し、フライパンを返し、ルースターが増やしたスパイスの棚に手を伸ばした。マーヴェリックの領域に、自分の何かがあることに心を弾ませたルースターは、隣に来ていたマーヴェリックに気づかなかった。
「何を作ってる?」
「ぅわ、マーヴ、オイル跳ねるから危ねぇって。簡単なもんだよ。ほら、テーブルの上、カトラリー用意してくれよ。うまいビール持ってきた、か、ら」
器用に調理を続けながら説明をするルースターの言葉が途切れる。マーヴェリックは矢継ぎ早な言葉が辿々しくなったことに顔を上げた。疑問を呈する顔をすれば、ルースターの視線が一点で止まり、やがて取り繕うように貼り付けた笑顔がその顔に浮かぶ。
「マーヴ、の、新しい恋人は、随分積極的なんだな」
「ぇ」
「肩」
「かた」
「気づいてないの?派手な歯形」
「ぇ?あ、」
思わずといった体でマーヴェリックはルースター側ーー左の肩に手を置いた。
ルースターはぼんやりと、マーヴェリックの肩の傷を見つめた。どこかに引っ掛けたとか、ぶつけたとかの傷ではない。明らかな歯形だった。獣ではなく、人、の。
任務後、うまく行くかに見えたマーヴェリックとペニーの関係はいつの間にか終了していて、二人は洋上の友となったようだった。そんな経緯もあって、一時期アメリアから絶対零度の眼差しを向けられていたマーヴェリックとの間に立ち、仲直りの仲介をしたのはルースターだった。ペニーが笑っていたのがせめてもの救いだが、二人の間にあった事情をルースターは知る由もない。
マーヴェリックは色に名高い男だったから、新しい恋人ができたとしても不思議ではない。ただ、前回会った時にはそんな素振りは少しもなくて、それでいてこの情熱的とも言える肩の傷が結びつかなかったのだ。
ーーワンナイトするにはここ、街から離れ過ぎてるのに、な。
その違和感と、マーヴェリックが自身の領域に、ルースターの知らない誰かを連れ込んだという事実に、ルースターは自分でも分からない釈然としない心持ちを抱いた。
色恋について、ルースターが口を出す立場にはない。それは、マーヴェリックとの時間を独り占めしたいと考えているルースターの中で、癇癪を起こすかのような理屈だ。自分を第一優先にしてほしいと駄々をこねる子供のような。
「消毒しようか?」
気を取り直すかのように、ルースターは殊更に明るい口調で、揶揄うようにマーヴェリックに告げた。けれど、マーヴェリックは頬を引き攣らせて笑ったのだ。その様子に、ルースターは先ほど感じた違和感の正体に気づき、ガスストーブの火を止めて、マーヴェリックに向き合った。
「マーヴ、なに?なんか困ってんの?」
「いや、恥ずかしいところを見せてしまったなって」
「誤魔化すなよ。その肩の歯形の相手と関係あんの?」
「なにもないよ。何故?」
「だってその顔、」
「この顔しかないって」
肩の傷。正面から向き合えば、傷口はルースターからは見えなくなる。
ーー正面からは見えない?
ルースターは自分の視界から見えなくなったその傷を、よくよくに熟考した。
肩の歯形。
後ろから。
うつ伏せにしなければつけられない傷。
つまり、覆いかぶさるようにつけられた、マーヴェリック自身からも見えない位置のそれは、所有欲の証。
「あ、」
ルースターはその答えに行き着いて、わずか動揺の声を上げる。気づかれたことに気づいたらしいマーヴェリックが視線を逸らせば決定打だ。
女性ではない。位置からして、マーヴェリックを四つん這いにさせた上で、その肩に噛み付き、痕を残したのはーー〝男〟だ。
+++
数日前とずいぶん異なる様相のルースターに、食堂で相席していた他の人間は昼食を早々に終えてそそくさと離れた。
そんな周囲の状況を他所に、暗雲を背負ったかのようなルースターはうちに籠り、マーヴェリックの住まいを訪れた数日前を思い出し、ため息をついた。
噛み跡を指摘した後、マーヴェリックはうろ、と視線を一度だけ彷徨わせて、その後あの顔を貼り付けて、改めて『年甲斐もなく恥ずかしいところを見せてすまない』と言った。目の前で完全に扉を閉められた心地だった。
ーーこの話しはこれで終わり。
言外にそれ以上踏み込むことを許さない、と無言の圧力がかかる。ルースターとて、マーヴェリックの恋の相手に対して無遠慮に踏み込むつもりはない。
ただ、それが同性であることにルースターが動揺したことを通して、マーヴェリックがシャッターを下ろしてしまったのか、相手がいわゆる訳ありの相手だからこそ、それ以上の追求を許されなかったのかは分からない。
あの歯形について、マーヴェリック自身は施されていたことに気づいていなかったようだし、つまりはルースターが指摘しなければ、新しい恋人のことを秘密にしておくつもりだったのだろう。確かにルースターに恋人の有無を報告する必要はない。けれど、だとしたらあのマーヴェリックの動揺は、相手が同性だからということだけではないような気がするのだ。それが、前段でルースターが問い掛けた、『何か困ったことがあるのか』と言う言葉だ。
同性云々以前に、歯形を指摘した時点で、マーヴェリックの様子はおかしかった。
互いの交友関係を全て打ち明ける必要などない。ただ、ルースターはマーヴェリックの過剰ともいえる反応から、相手を大切に思うが故の行動なのではないかという考えに至った。ひょっとすると、相手はルースターも知る人物かもしれない。
ルースターはカトラリーを放り投げると手を組んでそこに額を置いた。はたから見たならばその仕草は、深刻な悩みに頭を抱えているようにも見える。
実際ルースターは苦悩していた。休暇の度にマーヴェリックとわずかでもいいからと過ごした時間が急に意味のないものと思えてしまったことに、ルースター自身が自己嫌悪に苛まれていたからだ。
ルースターはマーヴェリックを第一優先と考えていたけれど、マーヴェリックには別に優先すべきがあったという事実。しかも、相手は顔の見えぬ、ルースターの知らない男だ。
マーヴェリックは若い頃から華やかな恋の話しが途切れない男だった。
偏見はない。ただ、マーヴェリックが同性とも恋ができるという事実に驚いた。しかも、あの様子からしてポジションがボトムらしきことも。
あの、ルースターの慕うアンクルマーヴの肩に噛み付いた男がいる事実、つまり、マーヴェリックとベッドインーーセックスし、彼を抱いた男がいる。噛まれたことにさえ気づかず、それだけ夢中に励んだ相手との行為ーーそこまで想像して、ルースターは考えるのをやめた。下世話な妄想をする以前に、ルースターは歯形を指摘した時のマーヴェリックの不自然さを改めて思い出してみる。
マーヴェリックの相手は情熱的な恋人なのだろう。少なくともあの所有欲丸出しの歯形を見れば察しがつく。同性相手であることに動揺したルースターを見て、マーヴェリックは口をつぐんだと思い込んでいたが、やはりあの顔が気になる。
ーーマーヴは絶対何か隠してる。
ただの杞憂ならいい。相手が新しい恋人だというなら祝福しよう。けれど、何か困ったことに巻き込まれているのなら力になりたい。
気を取り直し、ルースターは早々に次の休暇の予定を入れた。
+++
「もう来ないかと」
今度は事前連絡なしにマーヴェリックの住まいを訪れてみれば、迎えたマーヴェリックはルースターの訪問に一瞬だけ驚いた後、そう言葉にした。
全てが込められた言葉だった。
前回の訪問で、ルースターはマーヴェリックとなにがしか喧嘩や口論をしたわけではない。ただ、歯形を指摘した件で、互いの空気が硬直したまま過ごし、そのままルースターは基地に戻ってしまったので、マーヴェリックが苦笑しながら迎えの言葉を発したことは理解できる。
「なんでそう思うの」
ルースターは敢えて問いかけた。答えないまま、困ったように眉を下げて、マーヴェリックは無言でルースターを迎え入れる。
そうして今回も買い込んできた食料をルースターが調理し、その間にマーヴェリックはテーブルを拭いてカトラリーを用意して、合間に雑談を交わす。何も変わらないままの、今まで通りのやりとりだった。
問い詰めるつもりはなかったし、マーヴェリックが自分自身で話し始めるのを待つつもりだった。けれど、マーヴェリックが口を開かない限り何が起きているのか把握しようもないし、話しをしてくれないことで、マーヴェリックがルースターを頼る先足ると捉えていないことの方がルースターは辛い。そんなもどかしさを抱えたままのルースターは、自分でも気づかない胸に澱んだ黒い影を、溶かせるはずのないアルコールで満たし、早々に寝落ちてしまった。
マーヴェリックはうつらうつらと首が落ちるルースターの肩を揺すった。〝ここで寝たら体を痛める〟、という言葉に生返事をして、ルースターはそのままソファに崩れ落ちた。頭上からマーヴェリックのため息が聞こえて、ブランケットを掛けられる気配がして。
「……おやすみブラッドリー。いい夢を」
マーヴェリックの甘い声が最後に聞こえた。
幾度も聞いた気がする、その声を。
ぱちりと目が覚めた。
薄暗闇でも夜目の効くルースターは、視線を左右上下に動かし、そこがマーヴェリックのエアストリーム備え付けのベッドの中だと察する。
右手を動かそうとして、痺れていることに気づいた。横向きに眠っていたらしく、左手は前方に回したまま。
ルースターは寝起きでままならない体の動きと、けれど冴えた脳内で状況把握に努めた。
マーヴェリックの住まいに訪れ、食事をし、例の歯形の相手の件を聞き出そうとして聞けないまま、いつもより酒量が多く寝落ちたところまで覚えている。記憶ははっきりとしている。そこまでは。ならば今のこの状況はどういうことだろうか。
こちらに背を向け、ルースターの右腕に頭を乗せて眠るのは間違いなくマーヴェリックだ。肌に触れる感触から、互いが服を着ていないことにもルースターは起きてすぐに気がついた。
マーヴェリックを抱き込んでいた左手をそっと動かし、備え付けのベッドヘッドのライトをオンにする。
淡いあかりが灯る中、マーヴェリックが起きていないことを確認し、ルースターはばくばくと鳴る心臓とは裏腹に、マーヴェリックの様子を冷静に確認した。前回とは異なるけれど、首の後ろに、真新しい歯形がついていた。ルースターはそれをしばし眺め、ぱかりと口を開く。重なるように噛み付いた。
「ぃ、っァ、!?」
聞いたことのない、甘い声でマーヴェリックが鳴いた。そして、眠りの中から急速に引き戻されたマーヴェリックは、寝起きとは思えないほどの勢いで起き上がる。
「痛った、なに……」
起き上がり、淡いあかりに照らされたまま、マーヴェリックがこちらを見下ろす。マーヴェリックの目が見開かれた。
首を押さえたままのマーヴェリックの腕をルースターは掴んだままだ。逃さないように。
歯形はルースターと同じ大きさだった。ぴたりと重なるように、より濃い、わずか血の滲んだ二重の噛み跡が、マーヴェリックの首に残った。
「マーヴ」
「ブラ、ッド、」
「俺なの?」
「っ、」
「前回も、今回も、マーヴの相手って俺なの?」
記憶に全くないルースターが噛んだらしい歯形を押さえたまま、マーヴェリックはしばし逡巡後、観念したように大きくため息をついた。
下半身にのみジャージを履いて、ルースターはベッドに腰掛けたまま。
マーヴェリックがコーヒーを淹れて戻ってくると、それを受け取った。
首後ろの歯形を隠すつもりだろうか。マーヴェリックはシャツを羽織った姿で引きずって来た椅子に腰掛けた。実際後ろを向けば、わずか歯形の見えるそこが気になり、ルースターが視線を向けると、マーヴェリックは遮るようにがしがしと頭を掻いた。
「どこから話せばいいかな……」
「ぜんぶ」
「わかってるよ。とりあえず一旦全部話すから、細かい質問はその後だ。いいな?」
「OK」
「ブラッドリー、お前は時折夢遊病のような振る舞いをすることがある。それこそ、10代の頃から。発端は恐らくキャロルの病が発覚した辺りかな」
「……夢遊病?」
「そう。覚えてないだろう?」
「ぜんぜん。え?嘘でしょ?俺が?ほんとに?」
「僕の知る限りでは、決まった時と場合にだけ起きてることだと思う。実際そういった振る舞いの自覚があったり、普段からも頻々に症状が現れていたら、お前はとうに不適合者で海軍を除名されてただろう」
「ちょ、ちょっと待ってよ、話しが突然すぎて」
「医者に診てもらって診断されたわけじゃないから、夢遊病かどうかは正確なところはわからないんだ。ただ、メンタル的な要因で、無意識の行動を起こすことがあるんだ。昔から」
「……」
「キャロルが入院して、お前が一人あの家にいる時、時折僕らが入れ替わりでお前の様子を見に行っていたことは覚えているか?」
「うん、俺未成年だったし、可能な限り、マーヴやアイスおじさんや他の大人が俺んち来てくれてたことは覚えてるよ」
「その時、なぜか僕が居る時にだけ、お前は僕のベッドに潜り込んできた」
「え」
「他のメンバーに聞いたら、そんな風にベッドに潜り込んでくるのは僕だけだったみたいだから、記憶の退行かなって思ってた。それこそ乳飲み子の頃から、お前と関わりが深かったのは僕だから。泊まり込みで僕がブラッドショー家に行って、何度お前と過ごしたことか」
「そりゃ覚えてるけど……」
「『眠れるまでそばにいて、マーヴ』……お前の強請りに抗えなくて、坊やが眠るまでずっと部屋にいて見守ってたよ。グースのこともあったし、お前は同年代より早熟してたけど、僕はお前のライナスの毛布になりたかったんだ」
「……」
「お前がティーンの頃、キャロルが入院するようになってからだ。僕が泊まりに行く度、それぞれの寝室で眠りについて数時間後、お前は僕の寝床に潜り込んでくるようになった。驚いたさよ。お前は思春期真っ只中で、寂しいとか辛いとか言葉に出すことをしなくなってて、自分の中で折り合いをつけて困難に向かい、大人になろうと必死だったから。それを寂しく感じていた矢先のことだ」
「……全然覚えてない」
「だろう?最初は僕も戸惑ったさ。無意識の行動だったんだろう。いい意味でも悪い意味でも、お前の無意識下で、僕は正しく〝ライナスの毛布〟になってしまってたんだから」
「それが、その噛み跡?」
「あー、」
返事とも言えない声をあげて、マーヴェリックは気まずそうに視線を外しながら、それでも愛しげにその首の跡をなぞるのだ。ルースターは喉奥でおかしな音を立てて唾を飲んだ。
ーーその仕草は無意識かよ。
「ブラッドリー、お前がこうして僕の元を訪ねて来る度、その都度なんだ」
「は?」
「夢遊病どころじゃなくて。前回お前がモハーヴェに来てくれた時、遅れてごめんって言って来ただろ。そうじゃなくて。時間通りに〝君〟は来た。来てたんだ」
「ちょっと待ってよ、まさか」
「その前もその前も。休暇を取って僕の所に来る度、変則的だけど、早めに来て僕をベッドに引き摺り込んでみたり、一旦帰ったと思ったら戻って来てソファになだれ込んだり」
「……マジで?マジで言ってんの?俺、全然覚えがないんだけど……」
「……ある程度これが繰り返されるなら言わなきゃと思っていたから防犯カメラに記録残してあるぞ」
「ていうか記憶が抜け落ちてるとかもないんだけど……」
「〝ライナスの毛布〟を頼る時の行動を、お前の中で繋ぎ合わせてるんだろう。僕も医学的知識がないからなんとも言えないけど、少なくとも日常業務に支障が出るレベルじゃないんだよ、恐らく。小さい頃から擦り込まれてるから、僕を抱いて眠る、という行動がお前の中で矛盾してないんだ」
「……正直に言っていい?」
「……もちろん。黙っててすまなかった。詰られる覚悟はできてる」
「違うんだけど」
「……医者に連れて行かなかったこともすまない」
「それも違う。夢遊病とか、無意識にふらふらしてるらしい俺の病的行動云々よりも、マーヴの相手が俺でよかったなって」
「そっちか……言っておくがセックスはしてないぞ」
「え!?そうなの!?なんで!?」
「なんでって、おま、」
「だって噛み跡!」
「あれは!僕がベッドから出ようとしたら、お前が引き止めてきて、無理矢理……!」
「なにそれ、じゃあ、俺、マーヴのこと抱いてないの!?」
「じゃあってなんだお前。ティーンの頃は僕が少しでも離れようとすると、行かないでって泣きついてくる程度だったのに、今のお前ときたら、力づくで抑え込んでくるから……!」
「ぅわ、一歩間違えれば俺犯罪者……?」
「いや違う、そうじゃなくて、お前には何も悪いところなんてなくて……っていうかなんの話しだ?これ」
「セックスの話しでしょ?」
「ちがうだろ!」
マーヴェリックはルースターの発言に慌てふためき大きな声で吠えて立ち上がった。が、我に返って座ると頭を抱えてため息を吐いた。片手で項垂れたせいで、綺麗な首筋が見える。その先に、噛み跡がついていて、それを最初から施していたのが自分であるということにルースターは状況も忘れて満足した。
「抱いて眠るという言い方はおかしかったな。〝抱きついて眠る〟、が正しい。元々僕がしっかりお前に説明してなかったのが原因なんだ。僕らは一時離れていた期間があったし、夢遊病のような症状が出るのは僕の前でだけだったから、お前にいい人でもできていれば不安定さも解消されてるかもしれないって思ってた。希望的観測だったけれど、連絡をしようにも僕は僕の起こした行動のせいで、お前に会えなかったし」
「夢遊病って言えば願書破棄どうこう含めて俺の軍属行き阻止できたかもしれないのに言わなかったのかよ」
「医学的根拠がないって言ったろ。まぁ、お前が試験に臨んで進むうちに、適性検査を受けている中で不合格になればそれはそれで仕方ないと」
「ひでぇ」
「あの頃の僕はお前を喪いたくない一心だ。人非人もクソもあるか。だから殴っていいぞ」
「殴る代わりに抱いていい?」
ルースターの返答に、マーヴェリックが顔を上げる。呆然とした顔でしばし沈黙し、はくはくと幾度か口を開いて閉じて、やっとのことで言葉を発した。
「ーーな、んでそうなる」
「抱いてなかったって聞いて落胆した。抱いてたらそれはそれで、記憶のない自分を殴りたくなった。それってそういうことじゃないの」
おかしな言葉を聞かされたように、マーヴェリックは眉根を寄せて、ルースターを知らぬもののような目で見た。
ーーあ、俺のこと、坊やじゃないって今認識したのかよこんにゃろ。
「……あんたが俺に挿れられたままイくとこみたいなって思っちゃった。みせて」
「待て待て待て」
「マーヴおじさんがおれのちんこできもちよくなってるとこが、みたい」
「ぼうやがなんてこと、ッぁ、」
ルースターは隙をついて、マーヴェリックの腕をひいた。
腕に抱き込んで大きく息を吸う。昔から嗅いでいる、マーヴェリックのにおいがした。
「……突然夢遊病だなんて聞かされて混乱してるだけだろう?ブラッドリー」
マーヴェリックはルースターの太い腕の拘束から逃れることはできず、落ち着かせるように回した腕で背を叩いた。まるで坊やをあやすような仕草に、俄然ルースターはやる気を出した。
「やば。今それされると興奮する」
「硬いものが当たってるなと……おい本気か」
マーヴェリックが腕の中で、今日幾度目かのため息をついた。ルースターはシャツの襟から覗く歯形をもっとよく見ようと、マーヴェリックのシャツの背を引いた。途端顕になる歯形に、ますます股ぐらを熱くさせた。
「おい、ブラッド、ブラッドリー!」
「ちょぉ、そこでごそごそ動かないでマーヴ!」
「おさめろ!」
「そんな簡単におさまるわけないじゃん!」
ベッドの上の色っぽい会話など皆無だったけれど、ルースターは手際良くマーヴェリックのシャツを脱がしにかかる。
「マーヴさぁ、男とセックスしたことは?」
「ノーコメント」
「ふぅん、やっぱあるんだ」
「……聞く意味あったか、今の。不満か?」
「すげぇティーンみたいなこと言うけど笑うなよ。マーヴの初めての男になりたかったなって」
「笑わないよ」
「マーヴ、ゼリーとかラバーある?」
「……」
マーヴェリックは無言でベッドヘッドの棚を指差した。堪えきれずルースターは笑った。笑ってマーヴェリックの唇に噛みついて、そのままベッドに押し倒した。
ルースターは同性を抱くのは初めてで、結局はマーヴェリックの誘導に従いどうにかことなきを得た。初めて体験するマーヴェリックの内側に耽溺し、その後もなんだかんだベッドの上で睦み合っていると、いい加減にしろとマーヴェリックから蹴り落とされた。
腰の抜けたマーヴェリックを甲斐甲斐しく世話し、陽が翳る前にルースターはマーヴェリックに幾度も急かされ、基地に戻る準備をようやっと整えた。
ブロンコに乗車し、見送るマーヴェリックは流石に回復が早いらしい。緊急でもう一日休暇を申請するとわがままを宣うルースターに向けて、マーヴェリックは職位で叱りつけた。そうして運転席の窓越しに顔を近づけて、『次の休みは僕がお前のところに行くから』と、どこまでも甘いルースターの〝ライナスの毛布〟が囁く。追い縋ってつれない唇を堪能してから、ルースターは離れ難くもエンジンをかけて帰途につく。バックミラー越し、マーヴェリックがいつまでも見送ってくれるその姿を何度も見ながら、そう言えば互いに明確な言葉を伝えていないことに今更に気づく。
ーー愛なんていう、陳腐な言葉で表現できるものじゃなくて。
ルースターは脳内カレンダーに次の休暇予定の丸をし、マーヴェリックが訪問して来るその時を想像して笑った。
+++
ソファに腰掛け、灯りは手元のみ。古いラジオは現役で、マーヴェリックは慣れた角度に伸ばしたアンテナで、受信した局に適当に合わせたまま。ラジオパーソナリティが、古いナンバーがヒットした年の出来事を説明している。その頃あの子は幾つだったろうかと、マーヴェリックはソファに腰掛け、未だじんわりと熱を帯びたような胎奥に感じ入り、意味もなく足を組み替えた。
ーー坊やを思い出しながら、さっきまでの行為を反芻するなんて。
マーヴェリックは自重し、無意識に爪を噛んだ。
そして、別の古いナンバーが流れる中、かすかに聞こえるエンジン音に耳を澄ませた。先程遠ざかるそのエンジン音を聞いたばかりだ。ラジオの音源を絞る。
マーヴェリックはソファから立ち上がると、聞き慣れたエンジン音が、倉庫の前で停まるのを聞いて、深く、深くため息をついた。
入口までゆっくりと歩く。行為により、少しだけだるい体を動かし、殊更にゆっくりと。そうして倉庫の大きな扉ではなく、出入りするために備え付けられたドアを静かに開いた。細かい砂を噛んだせいで、耳障りな音を立ててドアが開く。
「……やぁ」
決して無理矢理にドアを開けて入ってくることのない訪問者ーー先程別れたばかりのルースターが、やはり今日もそこに立っていた。少しぼんやりとした眼差しで、マーヴェリックを見下ろしている。
「……おいで」
マーヴェリックは腕を伸ばし、ルースターの両頬を包んで、腕の中に抱き締める。ルースターは素直に抱き込まれ、そうしてマーヴェリックを見上げると、下から掬い上げるように唇を近づけてくる。口付ける寸前で、マーヴェリックは目を閉じ、言葉にすることのない自戒を吸われた口中に隠した。
ーー手放し難く、ライナスの毛布が必要なのは、むしろ、
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