時計の秒針が進んでいくのを見ながら、ハイドはその速度に合わせてダイニングテーブルを爪先でコツコツと数度叩いた。苛立ちを表すというよりも、急いた気を落ち着かせようとして。
約束の時間から既に二十分が経とうとしてた。
今夜はハイドが選んだレストランで食事をする予定で、着替えのために一度家に戻るというガラを迎えに彼のアパートまで車を走らせたのだが、少し遅れるとの連絡に気がついたのは到着した後だった。
まだ十分時間に余裕があったため特に問題はないと、勝手知ったる家主不在の部屋でのんびり構えていた。しかし次に病院を出発した連絡があったのは随分時間が経ってからのことだった。
予約の時刻が迫っている。ガラが嫌がるので客にも厳格さを要求するような堅苦しいレストランではないが、そろそろ遅刻の連絡をした方がいいかもしれない。
ガラに新たなメッセージを送ろうとしたところで、玄関の外、アパートの内廊に響く、重々しくも慌てた足音を聞いてハイドは椅子から立ち上がった。
ドアが勢いよく開き、息を切らしたガラが飛び込むようにして部屋に入ってくる。
「すまん! 急患が思ったより多くて遅くなっちまった! 急げばまだ間に合うか?」
「ああ、その代わり十分で着替えろ。私の運転で向かうなら十五分だ」
「わかった十分だ。急いでる時にお前の運転ではレストランに遅刻するどころか病院に逆戻りだ」
話しながら、ガラは余裕なくクローゼットのある寝室に駆け込んでいく。
既に身支度を終えているハイドは手持ち無沙汰のため、着替えるガラの姿でも眺めていようとその後を追い、寝室の入り口に肩を寄りかけた。
「こんなことなら先に向かってくれてもよかったのに」
「私はな、プライベートのディナーで人を待たせたことは数知れないが、待ったことは一度もないんだ。更に言えば、恋人の誕生日にそんな味のないことをするのも主義に反する」
「そうかい、じゃあその“初めて”をプレゼントにしてもらえばよかったな」
「たしかにその価値はあるだろうが、当然私の誕生日にはそれに見合ったことをしてくれるんだろうな?」
仕事着のシャツを脱ぐガラの逞しい背に視線を注いでいたハイドの目が、その襟元から何か、白く小さな花弁のようなものが落下したのを捉えた。
「何か落ちたぞ」
ガラの方に歩み寄り、足元に落ちたそれを拾い上げる。一センチ四方の、片側に文書が印刷された紙を粗く刻んだような紙片だった。
ハイドの指に挟まれたものをちらと一瞥したガラが、ああ、と思い至ったような声を上げた。
「同僚たちが休憩中に軽く祝ってくれてな、その紙吹雪だ。それも、院内でクラッカーはまずいってんで、もう要らない書類で作ったやつ。あと小さなカップケーキも貰ったよ」
「フフ、慕われてるな、ガラさん」
「さあな、職場の伝統で皆にすることだし、今年の俺の順番が回ってきただけさ。けど、ありがたいと思う」
彼が口にしたことはないが、転職したばかりの頃は慣れない事務仕事に加え、人種的な苦労も耐えなかったはずだ。
それが今や、彼の高潔さは誰もが知るところであり、周囲の人々から慕われている。
以前撮影の仕事で病院に赴いた際、彼らのそうした振る舞いが儀礼的理由のみでないことは、ハイド自身の目で確認している。
心から誇らしかった。そして彼の高潔さを誰よりよく知っているという自惚れを、そろそろ改めなくてはならないだろう。
喜びの中に微かに混じった寂寥を以て、ハイドはそのように自戒していた。
「もう行けそうだ」
思案している間に着替えを終えたガラが、確認を促すようにハイドの方へ向き直った。
検閲官のごとく隅々まで視線を巡らせるまでもなく、ネクタイのノットが襟に対して小さすぎ、そのせいでディンプルとのバランスも悪い。ネクタイピンを留める位置も完璧な座標から微妙に外れている。しかも、昨夜ハイドがスーツに合うよう選んだものから無断で変えられていた。
ハイドは眉を顰めて小さく嘆息すると、ネクタイを巻き直すためにピンを外した。
「言いたいことは色々あるが、これは一体どういうつもりだ? 昨日私がきちんと選んでおいたはずだぞ」
目立つ傷はなくブランド品ではあるようだが、質は無難でアンティークというには年月が足りないため、単なるデザインが時代遅れの代物だった。どこかで見覚えがあるような気がしたが、思い出せなかった。
「やっぱり忘れてるな。そいつは昔、退職する時にお前がくれたものだよ」
思わずガラの顔を見上げた時、突如として脳内の時が遡った。
そうだ。自分の輪郭を見失うほどの暗路から、彼自身が探しあてた新たな道への餞別として渡したものだった。ただし仰々しく思われることを避けて、デパートで購入した量産品だ。
そしてこれを受け取った後彼は、毎朝ネクタイを締めなきゃいけないような役職には就けないよと笑ったのだった。だから大事にとっておく、とも。
「まさか、本当に持っているとは」
「思い出してくれて何よりだ」
「大したものでもないのに」
「こいつの価値は俺が一番よくわかってる。折角選んでくれたのに悪いんだが、今日はお前がシアトルに戻って初めての俺の誕生日だから、これが良いんだ。スーツとも合ってるだろ?」
ハイドは外したネクタイをガラの胸に押し付けた。普段通りの笑みを、取り繕えているだろうか。
「センスとしてはやはり最悪の部類だな。スタイリストが見たら気絶しかねん」
「そんなにか?」
「まあいい、ネクタイの色を変えれば多少マシになるだろ。たしか、赤が」
あったよな、と続けようとしたハイドの唇に、身を屈めたガラの唇が掠め取るようにして触れた。
巨きな掌がハイドの髪を撫で、頬をやわらかく包み、あたためた。
「お前がいるから、今日は特別良い日だ」
少し照れを滲ませ、しかし幸福を隠しもせず、ガラはほどけるように微笑んだ。
その碧の中に、今すぐ倒れ込んでしまいたくなる。だが情動を抑え、ハイドは半歩身を引いた。
「……そういうのは帰るまでおあずけだ。髪が乱れる」
「はいはい悪かったよ」
ハイドのすげない態度にも、ガラはどこか楽しそうに両の掌を上げて見せた。ガラに背を向け、クローゼットの中を探りながら、ハイドはそっと左胸に手をやった。まだ、勘づかれる訳にはいかないのだ。
内ポケットに忍ばせた小箱の感触をたしかめ、その中に収められたものを思い浮かべる。
月の円環より明朗だが、天使の光輪よりは控えめな、小さな黄金の輪を。
輪の内側には、その輝きにふさわしい者の名が刻まれている。
世界中を巡っても他に得ることのできなかった、誇り高く美しい、私の友。
私の守護天使、私の人狼、私の──、
「ガラ。私にとっても、今日はお前が生まれた特別な日だよ」
もう祝われるような歳でもないんだがなあ、と呑気なガラは封じ込められた計略に気づきもしない。
さて、この小箱を手にした彼の様子を、帰りに立ち寄るコーヒーショップで語り聞かせるのが楽しみだ。
願わくば、私の思い描いたとおりであるといいのだが。
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